第37話 上洛の風
岐阜城の天守に、秋の風が吹いていた。
美濃の平野を一望できるその高みで、ひとりの男が静かに景色を見渡している。
織田信長。
つい先日まで稲葉山城と呼ばれていたこの城は、今では完全に織田家の拠点となっていた。
城下では新しい町作りが始まっている。
商人が集まり、武具屋が店を構え、道が整えられ、城下町は日に日に活気を増していた。
信長は遠くを見つめながら言う。
「この地は良い」
背後に控えていた木下秀吉が頭を下げる。
「まことに」
「川は長良川、山は天然の城壁」
「攻めるにも守るにも優れております」
信長は小さく笑った。
「守る気はない」
秀吉が顔を上げる。
「守る……気が?」
「城とは攻めるためのものよ」
信長はそう言うと、城下の道を見下ろした。
多くの人々が往来している。
農民、町人、職人、商人。
その中には他国から来た者も多かった。
信長が行った政策――
楽市楽座。
市場税を廃し、自由な商売を認めた制度である。
そのため岐阜には各地から人が集まり始めていた。
秀吉が言う。
「商人が日に日に増えております」
「堺や近江からも来ております」
信長は満足そうに頷いた。
「金は戦を動かす」
「兵だけでは天下は取れぬ」
その時、階段を上がる足音が聞こえた。
現れたのは丹羽長秀である。
「殿」
信長が振り向く。
「どうした」
長秀は一通の書状を差し出した。
「越前より使者が参りました」
信長が眉を上げる。
「朝倉義景か?」
「いえ」
長秀は首を振った。
「足利義昭にございます」
その名を聞いた瞬間、秀吉の表情が変わった。
足利義昭。
かつての将軍家、足利家の人物である。
信長は書状を受け取った。
封を切り、ゆっくりと読む。
静かな時間が流れた。
やがて。
信長が小さく笑う。
「面白い」
秀吉が尋ねる。
「何と」
信長は書状を軽く振った。
「将軍になりたいそうだ」
秀吉が目を見開く。
「将軍……」
信長は続ける。
「我に頼み、京都へ連れて行けとな」
つまり。
足利義昭を将軍として京都へ送り、幕府を再興させてほしいという願いである。
秀吉が慎重に言う。
「しかし……」
「京都には三好三人衆がおります」
三好長逸
三好政康
岩成友通
彼らは京都を支配し、将軍家を排除していた。
信長は静かに言った。
「ならば追い払う」
あまりにも簡単に言う。
長秀が言う。
「しかし戦になります」
「近江の六角義賢も敵になるやもしれませぬ」
信長は笑った。
「良いではないか」
そして言う。
「天下に号令するには」
「京都が必要だ」
その言葉には迷いがなかった。
信長は窓の外を見た。
西の空。
その遥か先にある都――
京都。
「決めた」
静かに言う。
「上洛する」
その一言で、すべてが動き始めた。
岐阜城の広間では、すぐに軍議が開かれた。
重臣たちが集まる。
柴田勝家
丹羽長秀
滝川一益
木下秀吉
信長は地図を広げた。
「進路は近江」
「まず六角義賢を破る」
勝家が豪快に笑う。
「面白い!」
「久しぶりの大戦だ!」
秀吉は地図を見ながら言う。
「観音寺城が拠点ですな」
観音寺城。
六角家の本城である。
堅固な山城だ。
信長は言う。
「城など関係ない」
「敵が逃げれば終わりだ」
その時。
外で太鼓が鳴り始めた。
ドン――ドン――
戦の準備の音である。
信長は立ち上がった。
「天下を取る」
静かな声だった。
しかし。
それは揺るがぬ意思だった。
岐阜城から始まる新たな戦。
その先にあるのは――
京都。
そして。
天下。
こうして織田信長の軍は、西へ向かって動き始めた。
歴史に残る大遠征。
上洛。
戦国の時代は、さらに大きく動こうとしていた。




