第36話 岐阜始動
夜明けの光が、美濃の山々をゆっくりと照らし始めていた。
霧が谷間に漂い、山の上の城郭を淡く包む。
稲葉山城。
難攻不落と呼ばれたその城は、いま静かに朝を迎えようとしていた。
しかし城の下――
織田軍の陣はすでに動き出していた。
無数の旗が風に揺れる。
木瓜紋の旗。
黒母衣衆の旗。
槍を持つ足軽の列が整い、鉄砲隊が配置につく。
その中央、本陣に立つのは――
織田信長。
黒い陣羽織を翻しながら、山上の城を見つめている。
隣には木下秀吉。
さらにその後ろには丹羽長秀、柴田勝家、滝川一益ら、名だたる武将たちが並んでいた。
太鼓が鳴る。
ドン――ドン――
低く、重く、大地を震わせる音。
信長が静かに言う。
「夜が明けた」
秀吉が頭を下げる。
「はい、殿」
信長は城を見上げた。
「さて」
「どこまで持つかな」
その頃。
稲葉山城の城門では、守備の兵が並んでいた。
しかし。
その数は明らかに少ない。
夜のうちに逃げた者が多かったのだ。
兵たちは不安そうに城の下を見ている。
霧が晴れるにつれ、山の麓の光景がはっきりしてきた。
無数の旗。
兵の列。
まるで大河のように広がる軍勢。
「……多すぎる」
誰かが呟く。
「これ全部、織田軍か」
「終わりだ」
そんな言葉が、あちこちで聞こえた。
城の奥では、斎藤龍興が鎧を着けていた。
豪華な鎧。
金の飾り。
しかしその顔には焦りが浮かんでいる。
側には数人の家臣。
その中には竹中重治の姿もあった。
龍興は苛立った声で言う。
「まだ兵は集まらぬのか」
家臣が答える。
「……集まりませぬ」
「城下の兵の多くが逃げたと」
龍興の顔が歪む。
「臆病者どもめ!」
怒鳴り声が広間に響く。
だが。
誰も何も言えない。
重治が静かに進み出た。
「殿」
龍興が睨む。
「何だ」
重治は冷静に言った。
「いまならまだ」
「城を出て落ち延びる道もございます」
一瞬。
広間の空気が凍りついた。
龍興は怒りに震える。
「逃げろと申すか!」
重治は頭を下げた。
「城を守る兵が残っておりませぬ」
「戦えば……」
「全滅でございます」
沈黙。
重い沈黙。
やがて龍興は背を向けた。
「……黙れ」
小さく呟く。
だがその声には、もはやかつての威勢はなかった。
その頃。
山の麓では軍議が開かれていた。
織田信長の陣である。
秀吉が地図を広げていた。
「城の南は断崖」
「東は急斜面」
「正面から攻めれば被害が出ます」
柴田勝家が笑う。
「ならば登るまでよ」
「武士は正面突破よ!」
豪快な言葉だった。
しかし。
信長は首を振った。
「無駄だ」
勝家が眉を上げる。
「無駄?」
信長は静かに言った。
「城はすでに落ちている」
皆が顔を見合わせる。
信長は続けた。
「兵が逃げている」
「城は殻だ」
そして言う。
「門は開く」
その時だった。
遠くで叫び声が上がる。
「城門が!」
「開いたぞ!」
山の上。
稲葉山城の門が、ゆっくりと開いた。
兵たちがざわめく。
やがて城から白旗が掲げられた。
降伏である。
秀吉が目を見開く。
「殿」
信長は静かに笑った。
「言ったであろう」
「城は落ちると」
こうして。
美濃最大の城、稲葉山城はついに落城した。
戦はほとんど起きなかった。
兵の心が折れていたからである。
その日の夕刻。
織田信長は城へ入った。
険しい山道を登り、巨大な門をくぐる。
城の天守から見える景色は壮大だった。
長良川が蛇のように流れ、美濃の平野が広がっている。
信長は城下を見下ろした。
「ここだ」
秀吉が尋ねる。
「何がでございます」
信長は言った。
「天下を取る場所だ」
そして。
新しい名を告げる。
「この城は」
「今日より」
「岐阜城とする」
家臣たちがざわめく。
丹羽長秀が尋ねる。
「岐阜……でございますか」
信長は頷く。
「周の文王は岐山より起こり天下を得た」
「ならば」
「我もここから天下を取る」
その言葉は静かだった。
しかし。
その場にいたすべての武将が理解した。
これはただの城ではない。
ここは。
天下統一の始まりの地である。
こうして。
岐阜城を拠点に、織田信長の天下への戦いが本格的に始まった。
美濃を制した若き覇王は、次に近江、京都、そして日本全土へと進んでいく。
戦国の時代は、いま大きく動き始めていた。




