第35話 落城前夜
夜明け前の空は深い藍色に染まり、山の稜線だけが薄く浮かび上がっていた。
美濃の山々はまだ眠っているかのように静まり返っている。
しかし、その静寂の下では巨大な軍勢が動いていた。
織田軍である。
山の麓に築かれた陣では、すでに多くの兵が起きていた。足軽たちは槍を整え、弓兵は矢筒を背負い直し、鉄砲足軽は火縄を確かめている。
太鼓が低く鳴り、戦の準備が進んでいた。
丘の上の本陣。
そこに一人の武将が立っていた。
織田信長。
黒漆の鎧をまとい、腕を組んで山の上を見つめている。
その視線の先にあるのは――
稲葉山城。
険しい山の頂に築かれた難攻不落の城である。
その隣には木下秀吉がいた。
「殿」
秀吉が言う。
「夜が明ければ攻めますか」
信長は城を見たまま答えた。
「いや」
秀吉が少し驚く。
「攻めぬ?」
信長は静かに笑った。
「城はもう落ちる」
「攻めずとも」
その頃。
山上の稲葉山城では、兵たちが慌ただしく動いていた。
城門では槍兵が整列し、石垣の上では弓兵が配置につく。夜のうちに防備が強化されていた。
しかし。
兵たちの表情は暗い。
城の外には無数の篝火。
織田軍の大軍。
「どれだけいるんだ……」
「一万以上だ」
「いや、もっといる」
小声の噂が広がる。
城の奥の広間では、斎藤龍興が重臣たちと向き合っていた。
しかし、そこにいる家臣の数は少ない。
かつて斎藤家を支えた三人の重臣――
安藤守就
稲葉良通
氏家直元
彼らはすでに城を去り、織田信長に降っていた。
それは城にとって致命的な出来事だった。
龍興は苛立ちを隠せない。
「城は落ちぬ!」
机を叩く。
「この城は斎藤道三公の城だ!」
しかし誰も声を上げない。
沈黙が広間を包んだ。
やがて一人の武将が進み出た。
竹中重治。
若き軍師である。
「殿」
龍興が睨む。
「何だ」
重治は落ち着いた声で言った。
「城は強うございます」
「しかし」
そこで言葉を止めた。
「兵の心が離れております」
重い空気が流れる。
誰も反論できない。
城ではすでに兵の逃亡が始まっていた。
門番が消える。
足軽が夜のうちに姿を消す。
兵糧も減り続けている。
城はまだ立っている。
だが。
城の中身は崩れ始めていた。
龍興は歯を食いしばる。
「ならば戦だ」
「戦で示せ」
その頃。
稲葉山城下。
町は静まり返っていた。
昼間の混乱のあと、ほとんどの住民が避難していた。
空き家となった町の通りを、一人の女が歩いていた。
望月梓。
城下に潜む密偵である。
梓は坂道を登り、城が見える丘に立った。
山の上の稲葉山城。
その周囲を囲む織田軍の篝火。
無数の赤い光が夜の闇に揺れている。
梓は静かに言った。
「もうすぐ」
長い準備だった。
兵糧の策。
城内の疑心。
重臣の離反。
すべてが今、この瞬間につながっている。
その時、背後から足音が聞こえた。
振り向くと、城兵の男が立っている。
「城の様子は?」
梓が尋ねる。
男は苦笑した。
「もう駄目だ」
「兵が逃げている」
「三割は消えた」
梓は城を見上げた。
巨大な城。
だが。
その内側はすでに崩れている。
山の麓では太鼓が鳴り始めた。
ドン、ドン、と重い音。
織田軍の進軍太鼓。
夜明けが近い。
戦の朝が始まる。
梓は小さく呟いた。
「歴史が変わる」
やがて。
稲葉山城は落ちる。
そしてその城は新しい名を得る。
岐阜城。
その城から、織田信長は天下へ向けて歩き出す。
戦国の歴史は、いま大きく動こうとしていた。




