第34話 稲葉山攻
夜の帳が山々を覆い、美濃の空には淡い月が浮かんでいた。
その月光の下、巨大な影が山頂にそびえている。
稲葉山城。
断崖の上に築かれた山城は、闇の中でもその威容を失ってはいない。重なる石垣、険しい坂道、幾重もの門。長い年月の間、幾度もの戦を耐え抜いてきた堅城であった。
しかし今、その城を取り巻く状況はかつてないほど厳しい。
城を囲む山の麓には、無数の篝火が灯っていた。
赤い火が連なり、まるで巨大な炎の輪が山を取り囲んでいるように見える。それはすべて織田軍の陣であった。
兵たちは槍を整え、弓兵は弦を張り替え、足軽たちは鎧の紐を締め直している。太鼓の低い音が夜気を震わせ、戦の気配が山全体を包んでいた。
丘の上の本陣。
そこに立つ一人の武将が、静かに城を見上げていた。
織田信長。
黒漆の鎧をまとい、長い髪を風に揺らしながら、腕を組んで山上の城を見つめている。
その隣には小柄な男が立っていた。
木下秀吉。
鋭い目を細めながら、同じように城を見ている。
「殿」
秀吉が口を開いた。
「こうして見ると、やはり高い城ですな」
信長は小さく笑った。
「高いな」
そして続ける。
「だが」
「高い城ほど落ちた時は派手だ」
秀吉は声を上げて笑った。
「確かに」
「天下に響きますな」
そこへ大きな足音が近づいてきた。
振り向くと、巨体の武将が現れる。
柴田勝家。
織田家屈指の猛将である。
「殿」
勝家は膝をついた。
「前衛の兵、配置完了」
「山道はすべて押さえました」
信長は頷いた。
「よし」
そして城を見ながら言う。
「急ぐな」
勝家が顔を上げる。
「急がぬ?」
信長は城の灯りを見つめた。
「城はもう割れている」
「押せば崩れる」
その頃。
山上の稲葉山城では、重苦しい空気が漂っていた。
城門の上では弓兵が並び、石垣の上では槍兵が警戒している。しかし兵たちの顔には疲労と不安が浮かんでいた。
遠くの山の麓に広がる無数の火。
それが何を意味するか、誰もが理解している。
「織田軍だ……」
「どれだけいるんだ」
「一万以上らしい」
兵たちは小声で囁き合う。
その声は恐怖を隠しきれていなかった。
城の奥の広間では、斎藤龍興が家臣たちを前に座っていた。
しかし、そこにいる重臣の数は少ない。
かつて城を支えた三人の重臣――
安藤守就
稲葉良通
氏家直元
彼らはすでに城を去り、織田信長のもとへ降っていた。
それは城の根幹を揺るがす裏切りだった。
龍興は机を叩いた。
「城は落ちぬ!」
怒声が広間に響く。
「この城は斎藤道三公の城だ!」
誰も答えない。
沈黙が広間を覆う。
やがて一人の武将が前に出た。
竹中重治。
若き軍師である。
「殿」
龍興は睨みつける。
「何だ」
重治は落ち着いた声で言った。
「城は強うございます」
「しかし」
言葉を切る。
「兵の心が揺れております」
家臣たちは顔を伏せた。
それは誰もが感じていたことだった。
兵糧の不足。
重臣の裏切り。
城主の怒り。
すべてが兵の心を蝕んでいる。
龍興は歯を食いしばった。
「ならば戦だ!」
「戦で示せ!」
その頃。
稲葉山城下は静まり返っていた。
昼間の混乱の後、人々は家に閉じこもり、町は不気味なほど静かだった。
その暗い通りを、一人の女が歩いていた。
望月梓。
城下に潜む密偵である。
梓は坂道を登り、城が見える丘に立った。
山上の稲葉山城。
そして山の麓に広がる織田軍の篝火。
無数の赤い光が夜の闇に揺れている。
梓は静かに呟いた。
「ついに来た」
長い準備だった。
兵糧の策。
城内の疑心。
重臣の離反。
すべてが今、この瞬間につながっている。
その時、背後から足音が聞こえた。
振り向くと、城兵の男が立っている。
「城の様子は?」
梓が尋ねる。
男は苦笑した。
「もう駄目だ」
「兵が逃げている」
「三割は消えた」
梓は城を見上げた。
巨大な城。
だが。
その内側はすでに崩れている。
山の麓では太鼓が鳴り始めた。
ドン、ドン、と重い音。
織田軍の進軍太鼓。
戦の夜が終わり、戦の朝が始まる。
やがて。
稲葉山城を巡る決戦が幕を開ける。
それは単なる城攻めではない。
美濃の支配が終わり、新たな時代が始まる戦いだった。
そしてその歴史の転換点が、今まさに訪れようとしていた。




