第33話 美濃進軍
初夏の風が山を渡っていた。
尾張と美濃の境に広がる山々は、朝霧に包まれている。深い谷を縫うように続く山道を、長い軍勢がゆっくりと進んでいた。
槍の穂先が朝日に反射し、無数の光を放つ。
足軽たちの草履が土を踏みしめる音が連なり、まるで山そのものが歩いているかのようだった。
旗が風にはためく。
描かれているのは、織田木瓜の紋。
軍勢の中央には、一騎の武将がいた。
織田信長。
黒漆の甲冑に身を包み、馬上から前方の山々を見据えている。その瞳は静かだが鋭く、まるで獲物を狙う鷹のようだった。
その隣には、猿のような顔立ちの男がいる。
木下秀吉。
まだ若いが、すでに軍略と知略で名を知られ始めていた。
「殿」
秀吉が口を開く。
「美濃の動きですが」
信長は視線を前に向けたまま言った。
「三人は来た」
それだけで十分だった。
三人とは――
安藤守就
稲葉良通
氏家直元
かつて斎藤家を支えた重臣である。
その三人が、すでに織田信長のもとへ降った。
秀吉は笑った。
「城は半分落ちたも同じですな」
そこへ別の武将が馬を寄せる。
大柄な武将。
柴田勝家。
「殿」
「先行隊が山道を越えました」
「兵三千が美濃へ入っております」
信長は頷く。
「よし」
そして前方の山を指した。
「越えれば」
「美濃だ」
兵たちの間から小さなどよめきが起こった。
長年、織田家はこの美濃を攻め続けてきた。
だがそのたびに阻まれてきた。
険しい山城。
強固な守り。
そして斎藤家の武将たち。
だが今は違う。
城の柱は、すでに折れ始めている。
その頃。
稲葉山城。
険しい山の上に築かれた城は、雲の上に浮かぶようにそびえていた。
だがその城内では、不安が広がっていた。
天守の高殿。
斎藤龍興は窓の外を見ていた。
遠くの山道。
白い煙が上がっている。
軍勢の煙。
家臣が駆け込んできた。
「殿!」
龍興が振り向く。
「何事だ!」
「織田軍です!」
部屋の空気が凍りついた。
「……数は」
「およそ一万」
龍興の顔が歪む。
「一万……」
城の兵は五千ほど。
しかも多くは動揺している。
その時、一人の若い武将が前に出た。
竹中重治。
のちに「半兵衛」と呼ばれる軍師である。
「殿」
龍興は苛立った声で言う。
「何だ」
重治は落ち着いていた。
「城はまだ守れます」
家臣たちが顔を上げる。
重治は続けた。
「この城は難攻不落」
「兵もまだおります」
しかし。
その言葉のあとに続く言葉が重かった。
「ただし」
「城内が一つならば」
沈黙が落ちる。
城内は今、疑心に満ちていた。
重臣の裏切り。
兵糧不足。
城主の怒り。
すべてが兵の心を揺らしていた。
龍興は歯を食いしばる。
「ならば」
「戦うしかあるまい」
その頃。
稲葉山城下。
町は混乱していた。
「織田軍が来る!」
「山を越えたぞ!」
人々が荷物を抱えて逃げていく。
店を閉める商人。
泣き叫ぶ子供。
牛車がひっくり返り、荷物が散らばる。
城下町は一瞬で戦の町になった。
その騒ぎの中を、一人の女が静かに歩いていた。
望月梓。
旅商人の姿のまま、坂道を登っていく。
人々とは逆方向。
逃げるのではなく、城へ向かっている。
やがて城が見える丘に立った。
山の上の稲葉山城。
そして南の山道。
そこに見える旗。
無数の旗。
織田木瓜の紋。
梓は目を細めた。
「来た」
ついに。
ここまで来た。
兵糧の策。
疑心の拡大。
重臣の離反。
すべてが繋がった。
そこへ例の米商人が息を切らして来た。
「大変だ!」
「本当に軍が来た!」
梓は静かに頷く。
「知ってる」
男は驚く。
「逃げないのか?」
梓は首を振る。
「まだ」
「仕事が残ってる」
城を見る。
まだ落ちていない。
つまり。
最後の一押しが必要だ。
梓は小さく呟く。
「次は」
「城の中」
その頃。
織田軍は美濃へ完全に入っていた。
丘の上に本陣が築かれる。
太鼓が鳴り、陣幕が張られる。
信長は高台から稲葉山城を見ていた。
雲の上の城。
険しい山城。
だが。
信長は笑った。
「城は高い」
秀吉が答える。
「しかし」
「心は低い」
信長は言う。
「その通りだ」
城はまだ落ちていない。
だが。
戦はもう始まっている。
城の外ではなく――
城の中で。
やがて訪れる。
稲葉山城を巡る戦い。
そして。
美濃の歴史を変える大転換が、いま静かに近づいていた。




