第32話 城崩始動
山霧がゆっくりと流れていた。
稲葉山城の朝は早い。
まだ夜の冷気が残る山道を、兵たちが慌ただしく走っていた。
「開門だ!」
「兵が出たぞ!」
城門の前で騒ぎが起きている。
門番が叫んだ。
「氏家直元の兵が戻らぬ!」
兵の一人が言う。
「逃げたのでは……」
その言葉は最後まで言えなかった。
別の兵が怒鳴る。
「馬鹿を言うな!」
だが。
誰もが心の奥では同じことを考えていた。
――裏切り。
城内はすでに疑心の塊になっていた。
その頃、城の奥。
斎藤龍興は報告を聞いていた。
「安藤守就」
「稲葉良通」
「氏家直元」
家臣が震える声で言う。
「三名とも……屋敷が空です」
龍興の顔がゆっくり歪む。
「逃げた……だと」
机を蹴り飛ばした。
「裏切り者ども!」
城の柱が震えるほどの怒声だった。
「兵を出せ!」
「追え!」
しかし。
家臣は答える。
「……兵が集まりません」
龍興は凍りついた。
「何?」
「城兵の多くが……様子見を」
つまり。
誰も動かない。
誰も信じていない。
城主を。
城はまだ立っている。
だが。
城の心臓はすでに止まり始めていた。
その頃。
山道。
朝霧の中を三騎の馬が進んでいた。
安藤守就。
稲葉良通。
氏家直元。
かつて美濃を支えた三人の重臣。
守就が振り返る。
遠くに見える山の城。
稲葉山城。
「終わったな」
良通が言う。
「いや」
「これから始まる」
直元は静かに頷く。
彼らが向かう先は――
尾張。
清洲城。
そこには新しい主がいる。
織田信長。
その頃。
稲葉山城下。
朝の市が開いていた。
人々はまだ騒ぎを知らない。
野菜を並べ、魚を売り、子供が走り回る。
その中に望月梓がいた。
旅装束の女商人。
だがその目は鋭い。
坂の上の城を見ている。
そこへ一人の男が近づいた。
米商人の姿。
梓の情報網の一人だ。
「動いた」
男が小声で言う。
「三人だ」
「城を出た」
梓は小さく頷く。
「やっぱり」
男は続ける。
「城では大騒ぎだ」
「殿が兵を出すと言ってる」
梓は笑う。
「無理」
「もう遅い」
男は少し驚いた。
「そんなに?」
梓は城を見上げる。
「城はね」
「石で守るんじゃない」
「人で守る」
そして。
「人が離れたら終わり」
その言葉は静かだった。
男は黙った。
確かに。
城内ではすでに家臣たちが動揺している。
誰が味方で誰が敵か分からない。
その頃。
尾張の清洲城。
城門が開いた。
三騎の武士が入る。
兵たちはざわめいた。
「あれは……」
「美濃の重臣」
やがて三人は本丸へ通された。
広間。
そこに座っているのは一人の男。
織田信長。
若いが鋭い目をしている。
三人は膝をついた。
守就が口を開く。
「我ら」
「織田家に降る」
広間が静まり返る。
信長はしばらく三人を見ていた。
やがて言う。
「理由は」
良通が答える。
「美濃を守るため」
直元が続ける。
「今の主では守れぬ」
信長は笑った。
「正直だ」
そして言う。
「よかろう」
「迎えよう」
三人は深く頭を下げた。
その瞬間。
戦国の勢力図が動いた。
美濃の三重臣が織田信長についた。
これは。
稲葉山城崩壊の始まりだった。
その頃。
稲葉山城。
城内ではついに兵が逃げ始めていた。
「門を開けろ!」
「城を出る!」
怒号が飛ぶ。
もはや統制はない。
斎藤龍興は天守でそれを聞いていた。
「……嘘だ」
だが。
現実だった。
城はまだ落ちていない。
しかし。
城主の手からすべてが零れ落ちていた。
同じ頃。
稲葉山城下。
夕日が城を赤く染めていた。
望月梓は坂の上の城を見つめる。
巨大な影。
だがその影は、もう長くはない。
梓は静かに言った。
「次は戦」
織田信長が動く。
美濃を奪うために。
そして。
戦国の歴史は次の段階へ進む。
稲葉山城を巡る大戦が、いま始まろうとしていた。




