第31話 裏切前夜
夜の稲葉山城は、まるで巨大な獣のように闇の中に沈んでいた。
山の尾根に沿って建てられた石垣と櫓は、月明かりに照らされ、静かに光っている。
しかしその城の中では、静けさとは裏腹に不穏な空気が渦巻いていた。
城の奥、重臣たちの屋敷が並ぶ区画。
安藤守就の屋敷では、灯りがまだ消えていなかった。
書院の畳の上に、三人の男が座っている。
安藤守就。
稲葉良通。
氏家直元。
美濃を支えてきた重臣たちである。
外では風が木々を揺らしていた。
その音だけが、しばらく部屋を満たしていた。
やがて守就が口を開く。
「……城の様子は聞いているな」
直元が頷く。
「殿は完全に疑心に囚われている」
「昨日も三人の家臣を罰した」
良通が苦い顔をする。
「罪は無い」
「ただ疑われただけだ」
守就は静かに息を吐いた。
「これでは家臣は離れる」
また沈黙。
誰もが分かっていた。
斎藤龍興。
若き当主は、もはや父斎藤義龍や祖父斎藤道三のような統率力を持っていない。
城は強い。
だが。
城主が弱ければ意味は無い。
良通が低く言う。
「このままでは美濃は滅びる」
直元も頷く。
「南では織田信長が力を伸ばしている」
「すでに尾張は完全に掌握した」
守就は机の上に置かれた書状を見た。
数日前に届いた密書。
「織田信長は美濃の者を厚く遇す」
短い言葉。
だが意味は大きい。
守就は二人を見た。
「もし」
「もし我らが動けば」
「この城はどうなる」
直元が答える。
「持たぬ」
良通も言う。
「城兵の半分は我らの配下だ」
守就は目を閉じた。
重い決断だった。
だが。
もう時間は無い。
その頃。
稲葉山城下。
宿屋の二階で望月梓は静かに筆を走らせていた。
灯りは小さな行灯一つ。
紙の上に文字が並ぶ。
報告書。
宛先は――
織田信長。
梓は書きながら呟いた。
「重臣会談」
「三人」
「決断間近」
筆を置く。
そして窓を開けた。
夜風が入る。
遠くに稲葉山城が見えた。
闇の中に浮かぶ巨大な影。
梓は城を見つめる。
(あと少し)
城はまだ落ちない。
だが。
城を支える柱は、すでに揺れている。
梓はもう一通の書状を書いた。
宛先は――
木下秀吉。
信長の家臣。
そして情報戦の達人。
「城内分裂進行」
「裏切り近し」
短い報告。
それで十分だった。
数日後。
尾張の清洲城。
織田信長はその報告を読んでいた。
隣には木下秀吉。
「どう思う」
信長の問いに、秀吉は笑う。
「割れます」
「完全に」
信長は地図を見る。
そこには美濃の山々と、稲葉山城が描かれていた。
「いつだ」
秀吉は指で地図を叩く。
「一月以内」
信長は笑った。
「長かったな」
実際。
美濃攻略は何度も失敗していた。
だが今は違う。
敵が内側から崩れている。
信長は言う。
「準備をしろ」
秀吉が頭を下げる。
「はっ」
その頃。
稲葉山城では、また騒ぎが起きていた。
「殿!」
「兵が逃げました!」
斎藤龍興は顔を真っ赤にする。
「誰だ!」
「誰の兵だ!」
家臣が答える。
「……氏家直元の配下です」
部屋が凍りついた。
龍興の顔が歪む。
「裏切りか」
その頃。
城の外れ。
夜の森の中。
安藤守就、稲葉良通、氏家直元の三人は馬を並べていた。
遠くに見えるのは稲葉山城。
長く仕えた城。
だが。
もう戻らない。
守就が言う。
「行くぞ」
三人は馬を進めた。
向かう先は――
尾張。
そして。
織田信長。
その頃。
稲葉山城下の宿。
望月梓は遠くの山道を見ていた。
三つの松明。
山を下っていく。
梓は小さく笑った。
「歴史が動いた」
ついに始まった。
美濃最大の裏切り。
それはやがて。
稲葉山城陥落。
そして。
織田信長による天下布武の第一歩へと繋がっていく。
戦国の運命は、いま大きく動き始めていた。




