第30話 城動の兆
夜明け前の空はまだ群青色に沈んでいた。
稲葉山城の天守からは、遠く美濃の山々が霞んで見える。
その高殿の一室で、若き城主斎藤龍興は苛立ちを隠せずにいた。
「まだ見つからぬのか!」
机を叩く音が部屋に響く。
前に跪く家臣は顔を伏せたまま震えている。
「も、申し訳ございませぬ……兵糧蔵の俵は確かに数が合わず……しかし盗人の形跡はなく……」
「形跡が無いだと!」
龍興は立ち上がる。
「では兵が食ったのか!」
「い、いえ……」
家臣の声は小さく消えた。
城内ではここ数日、兵糧の不足が騒ぎになっていた。
蔵の俵は減っている。
しかし盗みの証拠はない。
誰かが抜いている。
だが誰か分からない。
疑いだけが城内に広がっていた。
龍興は吐き捨てるように言う。
「城の中に裏切り者がいる」
部屋の空気が凍る。
「探せ」
「必ず見つけ出せ」
家臣たちは深く頭を下げた。
だが。
城主の怒りは、逆に家臣たちの不安を大きくするばかりだった。
その頃、城下。
朝の市が開き始めていた。
魚を売る声、野菜を並べる音、荷車の軋み。
いつもの賑わいの中に、望月梓は静かに立っていた。
旅装束の女商人。
それが城下での彼女の姿だ。
梓は干し柿を買うふりをしながら、店主に小声で言った。
「城は?」
店主は答える。
「大騒ぎさ」
「殿が怒鳴り散らしてる」
梓は頷いた。
「兵糧の件?」
「そう」
「家臣同士で疑い合ってる」
梓は静かに干し柿を袋に入れる。
「そう」
それだけ言って店を離れた。
(予定通り)
兵糧の策は成功していた。
俵からほんの少しずつ抜く。
数日続ける。
すると蔵の帳簿が合わなくなる。
しかし犯人は分からない。
疑心だけが広がる。
梓は城を見上げた。
朝日に染まる稲葉山城。
険しい山の上に建つ要害。
だが城とは、石や土で守られているわけではない。
人で守られている。
その人の心が揺らげば――
城は崩れる。
梓は次の場所へ向かった。
城下の外れにある古い寺。
瑞泉寺。
門をくぐると、僧が掃き掃除をしていた。
僧は顔を上げると小さく頷く。
「来ましたか」
この僧もまた情報網の一人だった。
梓は本堂の裏へ案内される。
そこには二人の武士がいた。
稲葉良通。
そして氏家直元。
美濃の重臣である。
梓は深く礼をした。
「お呼びと聞きました」
良通は腕を組んで言う。
「城の騒ぎは知っているか」
「はい」
直元が苦い顔をする。
「兵糧の件で殿が疑い深くなっている」
「家臣にまで疑いを向け始めた」
梓は静かに答える。
「それは……困りますね」
良通は梓を見つめた。
「お前は商人と言ったな」
「はい」
「なら聞く」
「今、世はどちらへ動く」
梓は少しだけ間を置いた。
そして答える。
「南です」
「南?」
「尾張」
二人の武将は黙った。
梓は続ける。
「織田信長」
「彼は今、勢いがあります」
「兵も金も人も集まっている」
直元が呟く。
「……噂は聞く」
良通が低く言う。
「だが我らは斎藤家の家臣だ」
梓は頷く。
「もちろん」
「ただ……」
「時代は変わります」
その言葉は静かだったが重かった。
寺の庭に風が吹く。
竹が揺れる音が聞こえた。
梓は頭を下げる。
「失礼します」
それ以上は言わない。
だが。
種は蒔かれた。
二人の武将の心に。
寺を出た梓は城下の坂を下りながら空を見た。
(始まった)
城内の疑心。
重臣の迷い。
外からの圧力。
それらが絡み合えば、やがて一つの結論に至る。
その頃。
尾張の清洲城。
織田信長は庭を歩いていた。
隣には木下秀吉。
「美濃はどう動く」
信長の問いに、秀吉は笑う。
「割れます」
「間違いなく」
信長は空を見上げた。
「いつだ」
「近いです」
秀吉は言う。
「城が崩れるのは外からではありません」
「中からです」
信長は笑った。
「なら待とう」
同じ頃。
稲葉山城では、また怒号が響いていた。
「また俵が減っている!」
龍興の怒りは限界に達していた。
家臣たちは互いに顔を見ない。
誰も信用できない。
そしてその夜。
城の一室で三人の重臣が集まっていた。
安藤守就。
稲葉良通。
氏家直元。
灯りの下で守就が言う。
「この城は持たぬ」
誰も否定しなかった。
長い沈黙の後、良通が呟く。
「ならば……」
その言葉の続きは誰も口にしなかった。
だが三人の心には同じ名前が浮かんでいた。
織田信長。
その頃、城下の宿。
望月梓は窓から城を見上げていた。
灯りの揺れる稲葉山城。
その中で今、歴史が動いている。
梓は小さく呟いた。
「もうすぐ」
やがて訪れる。
美濃を揺るがす大きな裏切り。
そして。
稲葉山城陥落へと続く戦いが――
静かに近づいていた。




