第29話 裏切の芽
春の冷たい風が稲葉山城の石垣を撫でていた。
山上にそびえる城は、遠くから見れば依然として威容を誇っている。だがその内側では、確実に綻びが広がっていた。
広間の奥。
斎藤龍興は苛立ちを隠さず、机を強く叩いた。
「まだ分からぬのか!」
怒声が響く。
跪く役人たちは顔を伏せたままだった。
「申し訳ございませぬ……」
「兵糧の帳面は合っておりますが……」
龍興はさらに怒鳴る。
「ならば米はどこへ消えた!」
兵糧が減っている。
しかも少しずつ。
誰が盗んだのか。
証拠はない。
だが確実に減っている。
それが龍興を激怒させていた。
広間の隅で、その様子を静かに見ている男がいる。
竹中半兵衛。
若き軍師である。
(城が壊れていく)
半兵衛は心の中で思った。
兵糧不足。
城主の怒り。
そして家臣への疑い。
すべてが悪い方向へ進んでいる。
龍興は怒鳴った。
「見張りを倍にしろ!」
「倉の出入りを厳しく調べよ!」
「犯人を見つけ出せ!」
家臣たちは頭を下げた。
だがその表情には不満が浮かんでいる。
疑われることへの怒り。
それが城の空気をさらに悪くしていた。
一方その頃。
稲葉山城下。
市の広場は今日も賑わっていた。
その中に一人の女がいる。
旅商人の姿。
望月梓。
織田信長の密命を受けた密偵である。
梓は店を整えながら周囲の会話を聞いていた。
「城がまた騒いでる」
「兵糧の件だろ」
「重臣が怒ってるらしい」
噂は城下に広がっていた。
(順調)
梓は心の中で呟く。
兵糧は減り続けている。
しかも原因は不明。
その結果――
城内の疑心が膨らむ。
その時だった。
「店主」
声がした。
振り向くと――
竹中半兵衛。
今日も静かな目をしている。
「いらっしゃいませ」
梓は微笑む。
「今日は何を?」
「薬を少し」
瓶を渡す。
半兵衛はそれを受け取りながら言った。
「城の中は大騒ぎです」
「噂は聞きました」
梓は言う。
「兵糧が減ったとか」
半兵衛は苦笑する。
「ええ」
「しかも犯人が分からない」
「それは困りますね」
「困るどころではない」
半兵衛は城の方向を見た。
「家臣たちが互いを疑い始めた」
それは城にとって最悪の状態だった。
梓は静かに言う。
「城とは難しいものですね」
「ええ」
半兵衛は頷く。
「兵糧が減れば兵は不安になる」
「殿は怒る」
「家臣は疑う」
そして一言。
「城は内側から壊れる」
梓は黙って聞いていた。
半兵衛は続ける。
「重臣たちも集まり始めました」
「やはり」
「安藤守就」
「氏家直元」
「稲葉良通」
梓は心の中で頷く。
(歴史通り)
彼らはやがて織田信長へ寝返る。
だがまだその段階ではない。
半兵衛は薬を懐へ入れた。
「あなた」
「面白い商人だ」
「そうですか?」
「城の動きをよく知っている」
梓は笑った。
「商売人は情報が命です」
「なるほど」
半兵衛は微笑み、去っていった。
夕方。
梓は市を閉めると、裏路地の茶屋へ向かった。
そこにはいつもの三人の商人が待っている。
「兵糧は順調に減ってる」
米商人が言う。
「城が大騒ぎだ」
油商人が笑う。
「犯人探しで家臣が揉めてる」
梓は頷いた。
「いい流れ」
塩商人が言う。
「重臣たちも集まってる」
梓は静かに言う。
「それでいい」
疑心が広がる。
家臣の信頼が崩れる。
それが城を壊す。
夜。
宿の部屋。
梓は半透明ボードを開いた。
報告作成。
宛先――
織田信長。
内容。
・兵糧不足拡大
・重臣密議増加
・城主孤立進行
送信。
その頃。
尾張の那古野城。
織田信長は報告を読んで笑った。
「芽が出たな」
隣にいた柴田勝家が聞く。
「何の芽でしょう」
信長は言う。
「裏切りだ」
「城の中で裏切りが育つ」
勝家は頷く。
「では攻めますか」
「まだだ」
信長は北を見た。
「城が自ら崩れるまで待つ」
一方。
稲葉山城下。
宿の窓から城を見上げながら、梓は静かに呟いた。
「芽は出た」
疑心。
不満。
裏切り。
それらが城の中で育っている。
そしてやがて――
その芽は大きく育ち、
城を内側から壊す。
戦国の歴史は、静かに転がり始めていた。




