第27話 揺れる城
春の雲が低く垂れこめる朝。
稲葉山城の天守を囲む山肌には、まだ薄く霧が残っていた。
城の中では、普段とは違う緊張が漂っている。
「もう一度調べろ!」
怒鳴り声が響いた。
声の主は、斎藤龍興。
若き美濃の当主である。
広間の中央には、帳面を持った役人たちが跪いていた。
「申し訳ございませぬ……」
「兵糧の数が……」
龍興は机を叩いた。
「数が合わぬとはどういうことだ!」
城の兵糧が減っている。
しかも少しずつ。
盗まれた形跡もない。
だが確実に減っている。
それが問題だった。
広間の端で、その様子を静かに見ている男がいた。
竹中半兵衛。
若き軍師である。
(やはり)
半兵衛は心の中で思った。
城が揺れている。
兵糧の問題。
家臣の不満。
そして城主の怒り。
すべてが悪い方向へ進んでいた。
「誰かが盗んでいるのだ!」
龍興が叫ぶ。
「見張りを増やせ!」
家臣たちが慌てて頭を下げた。
だがその表情は重い。
互いに疑い始めている。
それが城の空気をさらに悪くしていた。
一方その頃。
稲葉山城下。
市の広場では今日も商人たちが店を並べていた。
その中に、旅商人の姿がある。
望月梓。
織田信長の密命を受けた密偵である。
梓は荷車を整えながら周囲の声を聞いていた。
「城が騒がしいらしい」
「兵糧が消えたとか」
「重臣同士で揉めてるそうだ」
噂はすでに広がり始めていた。
(早い)
梓は心の中で頷く。
城の不安はすぐ城下へ広がる。
そして城下の噂は、さらに城へ戻る。
疑心暗鬼はそうして膨らむ。
その時だった。
「店主」
声がかかった。
振り向くと――
竹中半兵衛。
今日も静かな目をしている。
「いらっしゃいませ」
梓は微笑んだ。
「今日は何を?」
「薬を」
瓶を渡す。
半兵衛はそれを受け取りながら言った。
「城は今、大変です」
「噂は聞きました」
梓は言う。
「兵糧が減ったとか」
半兵衛は苦笑する。
「ええ」
「殿は激怒しています」
「犯人は?」
「分かりません」
半兵衛は首を振る。
「だから皆、互いを疑う」
城の内部は不安定だった。
梓は静かに言った。
「城とは難しいものですね」
「ええ」
半兵衛は頷く。
「兵糧が減れば兵は不安になる」
「家臣は責任を押し付け合う」
「そして」
彼は城の方角を見た。
「殿は孤立する」
それは城が崩れる前兆だった。
半兵衛は続ける。
「もし今、織田信長が攻めてきたら」
「この城は危ない」
梓は肩をすくめた。
「戦はいつ起きるか分かりません」
「ええ」
半兵衛は微笑んだ。
「だからこそ怖い」
彼は薬を懐へ入れ、去っていった。
夕暮れ。
梓は市を閉めると宿へ戻った。
部屋の戸を閉める。
誰もいないことを確認。
そして半透明のボードを呼び出した。
光の板が浮かぶ。
情報整理。
・兵糧不足発覚
・城内疑心拡大
・城主激怒
・重臣不満増大
梓は小さく息を吐いた。
「順調」
だがまだ足りない。
城を落とすにはもう一歩。
梓は報告を書き始めた。
宛先――
織田信長。
その頃。
尾張の那古野城。
織田信長は報告を読み終え、ゆっくり笑った。
「面白い」
隣には柴田勝家。
「何がございましたか」
信長は言う。
「稲葉山城が揺れている」
「兵糧不足」
「家臣不和」
「城主孤立」
勝家は驚いた。
「それほどまでに」
信長は立ち上がる。
「戦はまだだ」
「だが」
「準備を始める」
彼は遠く北を見た。
そこにあるのは美濃。
「そろそろ」
信長は笑った。
「城を取りに行くか」
一方。
稲葉山城下。
宿の窓から城を見上げながら、梓は静かに呟いた。
「もうすぐ」
兵糧の減少。
城内の疑心。
城主の孤立。
すべてが揃い始めている。
戦国の城は強い。
だが。
内側から崩れた城は――
脆い。
そしてその崩れを作ったのは。
一人の密偵。
望月梓。
歴史の歯車は、静かに加速していた。




