第26話 川倉の策
春の霧が川面を覆う早朝。
長良川の水は静かに流れ、岸辺の葦がかすかに揺れていた。
その川沿いに、木造の大きな倉が並んでいる。
兵糧倉。
稲葉山城の兵糧を蓄える重要な場所だった。
米俵が山のように積まれ、足軽が数人、槍を持って見張りをしている。
だが――
守備は多くない。
(やはり薄い)
川向こうの木陰から、その様子を見ている女がいた。
望月梓。
織田信長の密命を受けた密偵である。
梓は半透明のボードを開いた。
誰にも見えない光の板。
そこには情報が整理されている。
・兵糧倉 三箇所
・城内倉 守備厚
・北倉 中程度
・川倉 守備薄
梓は静かに頷いた。
「ここね」
この川倉こそ、稲葉山城の弱点。
山城は強い。
だが兵糧が尽きれば終わる。
そして兵糧は山ではなく――
川に集まっている。
その時、後ろから声がした。
「おや」
梓は振り向いた。
そこに立っていたのは、農夫姿の男。
しかしその目は鋭い。
蜂須賀小六。
織田信長の配下であり、川の者たちをまとめる人物である。
「無事でしたか」
小六は小声で言う。
梓は頷いた。
「ええ」
「見ての通り」
小六は川倉を見た。
「兵は少ないな」
「昼は十人ほど」
「夜は五人」
小六は口元を歪めた。
「取れるな」
梓は首を振った。
「まだ」
「まだ?」
「城を落とすには早い」
梓は静かに言う。
「今やるべきは、兵糧を断つ準備」
小六は腕を組んだ。
「どうする」
梓は川を見つめる。
「商人を使う」
「商人?」
「米を運ぶのは商人」
つまり。
兵糧の流れを操れる。
小六は笑った。
「なるほど」
「戦わずに兵糧を減らすか」
梓は頷いた。
「少しずつ」
「誰にも気付かれないように」
その日の昼。
稲葉山城下の市。
梓はいつものように店を広げていた。
そこへ三人の商人が近づく。
米商人。
油商人。
そして塩商人。
彼らは梓の情報網の一部だった。
「例の話」
米商人が小声で言う。
「運ぶ米を少し減らす」
「可能?」
米商人は頷く。
「俵の中を少し抜く」
「重さは変わらない」
梓は微笑んだ。
「いい方法ね」
油商人が続ける。
「それと」
「川倉の見張り」
「酒好きだ」
梓の目が細くなる。
「そう」
塩商人が言う。
「夜はよく酒を飲む」
つまり。
警戒が緩む。
梓は静かに頷いた。
「ありがとう」
その時だった。
「店主」
聞き慣れた声。
振り向くと――
竹中半兵衛。
若き軍師。
今日も静かな目で梓を見ている。
「繁盛していますね」
「ええ」
梓は微笑む。
「今日は何を?」
「薬を少し」
薬瓶を渡す。
半兵衛はそれを受け取りながら言った。
「最近、兵糧の運びが増えています」
「そうですね」
「商人は大変でしょう」
梓は肩をすくめる。
「商売ですから」
半兵衛はじっと梓を見る。
「あなた」
「本当にただの商人ですか?」
またその質問。
梓は笑った。
「ただの商人ですよ」
半兵衛は少し考えた後、静かに言った。
「この城は、もう長くない」
梓の手が止まりそうになる。
だが表情は変えない。
「なぜ?」
半兵衛は空を見た。
「殿は孤立している」
「家臣は不満」
「民も不満」
そして一言。
「そこへ」
「織田信長」
半兵衛は苦笑する。
「勝てる気がしない」
それは敵国の軍師とは思えない言葉だった。
梓は静かに言う。
「戦は分からないものです」
「ええ」
半兵衛は頷いた。
「ですが」
「もし織田信長が攻めてきたら」
「この城は変わるでしょう」
意味深な言葉を残し、彼は去った。
夜。
宿の部屋。
梓は半透明ボードを開いた。
報告作成。
宛先。
織田信長。
内容。
・川倉守備薄
・商人協力
・兵糧削減開始
送信。
その頃。
尾張の那古野城。
織田信長は報告を読んで笑った。
「面白い」
隣にいる柴田勝家が尋ねる。
「何かございましたか」
信長は言う。
「兵糧が減る」
「戦う前に城が弱る」
勝家は驚いた。
「なんと」
信長は空を見上げる。
「戦は始まっている」
まだ軍は動いていない。
だが。
商人。
兵糧。
情報。
すべてが動き始めている。
遠く稲葉山城。
その城を見上げながら、梓は静かに呟いた。
「次は」
「城の中」
兵糧の糸は掴んだ。
次に動かすのは――
城の人間。
戦国の歴史は、静かに崩れ始めていた。




