第23話 城の綻び
春の気配が近づく頃、美濃の国は静かな緊張に包まれていた。
稲葉山城の城下では、兵の往来が日に日に増えている。城門の前では槍を持った足軽が行き交い、荷車の検分も厳しくなっていた。
その様子を、商人の姿をした一人の女が静かに眺めていた。
望月梓。
遠国の行商人として城下に入り込んでいるが、その正体は織田信長の密命を受けた密偵である。
梓は荷台の整理をしながら、周囲の声に耳を傾けていた。
「また税が上がるらしいぞ」
「本当か?」
「城の兵糧だとよ」
魚屋の男と米問屋の主人が不満げに話している。
梓は手を止めず、さりげなく会話に混ざった。
「兵糧ですか。戦でもあるのです?」
米問屋の主人が肩をすくめる。
「知らねえよ。だが最近、斎藤龍興様が軍議ばかりしてるって噂だ」
「ふむ」
「それに城へ米を運ぶ量が増えてる」
重要な情報だった。
(兵糧増強)
(戦準備確定)
梓の頭の中で情報が整理される。
だが、ただ聞くだけでは足りない。
兵糧の流れ――それが城の弱点になる。
「もしや」
梓は声を落とした。
「米の値も上がりますか?」
米問屋は苦笑する。
「上げたいがな。城の命令で値段は固定だ」
「それは大変ですね」
「まったくだ」
城は兵糧を優先し、商人の利益を抑えている。
つまり――
不満が溜まる。
梓は微笑んだ。
(商人は不満で動く)
そしてその日の夕刻。
梓は宿へ戻らず、城下の酒場へ向かった。
薄暗い店の中には、商人や職人が集まっている。
梓は静かに席についた。
「酒を一つ」
店主が杯を出す。
しばらくすると、見覚えのある男が入ってきた。
竹中半兵衛。
若き軍師である。
半兵衛は店の奥に座ると、周囲を見渡した。
そして梓に気づく。
「また会いましたね」
「偶然ですね」
梓は微笑む。
半兵衛は酒を飲みながら言った。
「最近、城下は騒がしい」
「兵が増えました」
「ええ」
半兵衛は頷く。
「殿が焦っている」
その言葉に梓は耳を澄ませた。
「焦り?」
「尾張の織田信長」
半兵衛は静かに言う。
「噂では、あの男は常識で動かない」
梓は内心苦笑した。
(その通り)
だが表情には出さない。
「それで兵を増やしていると?」
「そうでしょう」
半兵衛は杯を回す。
「しかし問題は別です」
「別?」
「城の中」
梓は目を細める。
城内の問題。
それは重要な情報だ。
半兵衛は声を落とした。
「家臣が割れている」
「……」
「古参の重臣と若い者」
梓は頭の中で線を繋ぐ。
(内部不和)
城が落ちる典型的な原因だ。
半兵衛は続ける。
「皆、殿に不満を持っている」
斎藤龍興。
若き当主。
だが評判は決して良くない。
「そうなのですか」
梓は酒を飲みながら言う。
「城とは難しいものですね」
半兵衛は小さく笑った。
「あなたは商人なのに、城の話をよく聞きますね」
「商売には戦も関係しますから」
「なるほど」
半兵衛はそれ以上追及しなかった。
だが彼の目は鋭い。
何かを感じ取っている。
夜。
宿に戻った梓は、戸を閉めるとすぐに半透明のボードを呼び出した。
青い光の板。
情報整理。
今日の収穫。
・城の兵糧増強
・商人の不満増大
・家臣団の分裂
梓はゆっくり呟く。
「綻びがある」
城は外からだけでは落ちない。
内側から崩れる。
梓は報告文を書き始めた。
宛先――
織田信長。
同じ頃。
尾張の那古野城。
織田信長は庭で月を見ていた。
そこへ柴田勝家が近づく。
「殿」
「来たか」
信長は光の板を見せた。
「梓からだ」
勝家は驚く。
「もう報告が」
信長は笑う。
「美濃は内側から崩れる」
「なんと」
「家臣が割れている」
信長は空を見上げた。
「城は高いほど脆い」
勝家は黙った。
信長は続ける。
「戦はまだだ」
「だが準備を始める」
「美濃は必ず取る」
遠く離れた稲葉山城。
その城を見上げながら、梓もまた同じことを考えていた。
「城は落ちる」
その時。
歴史が大きく動く。
そしてその裏には――
一人の密偵の影があった。




