第18話 美濃潜入
那古野城の朝は早い。
まだ空が薄暗い時間、城門の前には数頭の馬と小さな荷車が用意されていた。
荷車の横に立っているのは――
望月梓。
織田家の配下として織田信長に仕える二十五歳の女性である。
昨夜、信長から受けた密命。
その内容は――
敵国美濃への潜入。
商人として入り込み、城下の経済と情勢を探ること。
そして可能ならば、美濃の商人を尾張へ引き込むこと。
戦国の世において、極めて危険な任務だった。
城門の前には、数人の武士が立っている。
その中の一人が軽く手を振った。
「おやおや、こんな朝早くから出立とは」
木下藤吉郎だった。
まだ若いが、すでに信長の近くで働く男。
後の豊臣秀吉である。
梓は微笑んだ。
「密命ですから」
藤吉郎は肩をすくめる。
「なるほど」
そして声を落とした。
「……美濃ですな」
梓は小さく頷いた。
藤吉郎は苦笑した。
「殿もずいぶん無茶をなさる」
だがその目は真剣だった。
「気をつけてくだされ」
「斎藤龍興は愚かだが、家臣は油断ならぬ」
梓は答える。
「承知しています」
荷車には様々な品が積まれている。
鉄器。
薬。
日用品。
そして米俵。
すべて商売のための品だ。
もちろん、その多くは――
半透明ボードから購入した物だった。
他人には見えない不思議な仕組み。
それが梓の最大の武器である。
藤吉郎は荷を見て感心した。
「ずいぶんと立派な品ですな」
「遠国の商いですから」
梓はそう答えた。
詳しいことは言わない。
だが藤吉郎は深く追及しなかった。
信長が信頼している人物を疑うほど、愚かな男ではない。
「では」
梓は馬に乗る。
「行って参ります」
藤吉郎は笑った。
「土産話を楽しみにしておりますぞ」
城門が開く。
重い木の門がゆっくりと動いた。
その先に広がるのは、尾張の道。
そしてその先には――
敵国美濃。
梓は馬を進めた。
朝霧の中をゆっくりと進む。
城下を抜けると、道は田畑へと変わる。
農民たちがすでに畑に出ていた。
梓はそれを眺めながら考える。
(この時代)
農業が国の基盤。
だが。
(まだ効率が低い)
農具。
流通。
保管。
改善できる部分はいくらでもある。
それを変えれば――
国力は跳ね上がる。
だが今はそれよりも先にやることがある。
美濃への潜入。
昼頃になると、道は山へと入った。
ここは尾張と美濃の境。
峠道は狭く、盗賊も出やすい場所だ。
梓は周囲を警戒する。
その時だった。
道の先に数人の男が立っている。
粗末な鎧。
手には槍。
顔つきは荒い。
盗賊だ。
男の一人が笑った。
「止まれ」
梓は馬を止めた。
「荷を置いていけ」
典型的な山賊である。
数は五人。
普通の商人なら逃げ場はない。
だが。
梓は冷静だった。
(面倒ね)
彼女の視界に半透明ボードが浮かぶ。
商品一覧。
道具。
武具。
その中から一つを選ぶ。
(購入)
次の瞬間。
荷車の中に新しい品が現れた。
長い棒。
木製の柄。
そして鋭い鉄の穂先。
槍だ。
梓はそれを取り出す。
山賊たちが笑った。
「女が槍だと?」
だが次の瞬間。
梓の槍が動いた。
鋭い突き。
山賊の槍を弾く。
「なっ!」
男が驚く。
梓はさらに踏み込む。
槍の穂先が男の喉元で止まった。
動きが完全に武士のものだった。
山賊たちは後ずさる。
「おい……」
「こいつ」
ただの商人ではない。
それを理解した。
梓は静かに言う。
「道を開けてください」
声は落ち着いていた。
だが槍は微動だにしない。
山賊たちは顔を見合わせる。
そして。
「……行け」
道を開けた。
梓は槍を下ろす。
馬を進める。
再び山道を進み始めた。
峠を越えた先。
視界が開ける。
そこに広がるのは――
美濃の大地。
遠くには城が見える。
稲葉山城。
難攻不落と呼ばれる城だ。
梓はその城を見つめた。
(ここが)
敵国。
そして。
織田信長の次の目標。
梓は小さく息を吐いた。
「さて」
密命は始まったばかりだ。
商人として城下に入り込み、
商いを広げ、
情報を集め、
そして――
経済から国を崩す。
梓は馬を進めた。
戦国の歴史の中心へ。
静かに、
そして確実に。




