第17話 密命
那古野城の夜は静かだった。
昼間は市で賑わう那古野城下も、夜ともなれば人影はまばらになる。
遠くで犬の吠える声が聞こえるだけで、城の周囲はしんとした空気に包まれていた。
その城の奥――。
普段の評定が行われる広間ではなく、さらに奥にある小さな部屋に、数人の人物が集められていた。
灯りは行灯が一つだけ。
その薄暗い部屋の中央に座っているのは、織田信長。
そして、その前に控えているのは――
望月梓。
織田家の配下として迎えられた二十五歳の女性である。
彼女の後ろには誰もいない。
この場に呼ばれたのは、ただ一人。
それだけでも、この呼び出しが尋常ではないことは明らかだった。
信長は静かに酒を口に含む。
そして言った。
「梓」
「は」
梓は膝をつき、背筋を伸ばす。
戦国の武家としての礼はすでに身につけていた。
信長は盃を置いた。
「おぬしを呼んだ理由、分かるか」
「いいえ」
梓は正直に答えた。
信長はふっと笑う。
「正直な女だ」
しばらく沈黙。
そして突然、話題を変えた。
「城下の市は見事だ」
梓が整えた商い。
鉄器。
薬。
道具。
そのどれもが城下に利益をもたらしていた。
商人たちは活気づき、金が流れ始めている。
信長は続けた。
「商人どもも、おぬしを信用しておる」
「ありがたいことです」
梓は静かに答えた。
信長は腕を組む。
「だからこそだ」
その目が鋭くなる。
「密命を与える」
空気が変わった。
梓の鼓動がわずかに早くなる。
「密命……でございますか」
「そうだ」
信長は言った。
「この話は他言無用」
「口を滑らせれば」
そこで言葉を止める。
だが意味は明らかだった。
梓は頭を下げる。
「心得ております」
信長は満足そうに頷いた。
そして静かに言った。
「美濃だ」
梓の目がわずかに動く。
美濃。
現在、斎藤龍興が治める国。
そして――
織田信長の最大の敵の一つである。
「美濃には豊かな町がある」
「稲葉山城の城下」
「商人も多い」
信長は続ける。
「だが」
「商いは弱い」
梓は静かに聞いていた。
信長が何を言おうとしているのか、少しずつ見えてきたからだ。
「梓」
「は」
「おぬし、商人として美濃へ行け」
やはりそうだった。
梓は驚かなかった。
「商いを広げよ」
信長は続ける。
「鉄」
「薬」
「道具」
「何でもよい」
そして。
声を落とす。
「だが」
その目が光る。
「本当の目的は別だ」
梓は静かに言った。
「……美濃の内情を探る」
信長は笑った。
「さすがだ」
完全に見抜いていた。
「兵の数」
「城の様子」
「商人の動き」
「全て調べよ」
梓は深く頭を下げる。
「承知いたしました」
しかし信長はそこで言葉を続けた。
「ただし」
「それだけではない」
梓は顔を上げる。
「美濃の商人を」
「こちらへ引き込め」
部屋が静まり返る。
これはただの間者ではない。
経済戦争だ。
信長は言う。
「国は兵だけでは動かぬ」
「金だ」
その言葉には確信があった。
「商人が動けば」
「国も動く」
梓は微笑んだ。
「面白いお考えです」
「当然だ」
信長は言う。
「戦は剣だけで勝つものではない」
「金で勝つのだ」
梓は静かに頷いた。
それは彼女の考えと完全に一致していた。
信長は立ち上がる。
「成功すれば」
「褒美は好きに取れ」
そして。
「失敗すれば」
その先は言わなかった。
だが梓は理解している。
戦国の密命とはそういうものだ。
梓は深く頭を下げた。
「織田家のため」
「必ずや成果を持ち帰ります」
信長は笑った。
「良い」
「行け」
その一言で命令は終わった。
梓は部屋を出る。
廊下に出ると、夜風が頬を撫でた。
城の外には暗い城下町。
そしてその向こうには――
美濃。
敵国の地。
梓は夜空を見上げた。
星が静かに輝いている。
(ついに来たか)
戦国の密命。
しかも相手は斎藤家。
簡単な任務ではない。
だが。
彼女の目には迷いはなかった。
半透明のボードが、誰にも見えない空間に浮かぶ。
薬。
鉄器。
交易品。
この力があれば、商いはどこでも成立する。
そしてそれは。
織田信長の武器になる。
梓は小さく笑った。
「戦は武力だけじゃない」
静かに呟く。
「経済で国は落ちる」
こうして。
織田信長の密命を受けた一人の女性が、
敵国美濃へ向かうことになった。
それはやがて。
歴史を変える大きな流れへと繋がっていく。




