第16話 市と主君
那古野城の朝は、薄い霧に包まれていた。
城下町の通りでは、すでに市が立ち始め、商人たちが荷を広げて声を張り上げている。
その賑わいの中を、落ち着いた足取りで歩く一人の女性がいた。
梓。
二十五歳。
そして――織田信長の配下である。
凛とした表情と落ち着いた所作は、武家の者としての品を感じさせる。
年若い少女などではない。
戦国の世に身を置く、一人の大人の女性だった。
彼女はすでに城下の主だった商人たちへ挨拶を済ませている。
布商の宗右衛門、米問屋の源助、鍛冶屋の五郎兵衛など、那古野城下で力を持つ商人にはすでに顔を通してあった。
そのため、梓が通ると、商人たちは軽く頭を下げる。
「梓殿、おはようございます」
声を掛けてきたのは宗右衛門だ。
「今日は何か良い品を?」
梓は穏やかに頷いた。
「少しばかり」
彼女は通りの端にある空き場所に腰を下ろす。
周囲から見れば、ただの荷袋を持った武家の女だ。
だが――
(さて)
梓は意識を向ける。
すると。
空中に淡く光る板が現れた。
半透明のボード。
それは彼女にしか見えない不思議な存在だった。
文字と品物の一覧が浮かんでいる。
薬。
鉄器。
道具。
この時代でも違和感なく使える物ばかり。
(まずは鉄器)
梓は指先で空をなぞる。
購入。
その瞬間、袋の中に重みが増えた。
鋤。
包丁。
釘。
鍛えの良い鉄器が現れる。
もちろん誰にも見えない。
周囲の者には、梓が袋から品を取り出したようにしか見えないのだ。
「ほう……」
鍛冶屋の五郎兵衛が近づいてきた。
「また珍しい品ですな」
梓は包丁を差し出す。
「試してみますか」
五郎兵衛は刃を指で弾く。
澄んだ音が鳴る。
「……これは良い」
鍛冶屋の目が光った。
「どこの鍛冶の品だ」
梓は微笑む。
「遠国の物です」
それ以上は語らない。
だが商人たちはそれで納得する。
戦国の世では、遠い国から珍しい品が来ることなど珍しくないからだ。
やがて米商の源助が鋤を手に取る。
「これは良い鋤だ」
刃の形を見ただけで分かる。
「畑が捗る」
「お買いになりますか?」
「もちろんだ」
交渉はすぐにまとまった。
それを見て別の商人も集まる。
「その包丁を見せてくれ」
「釘もあるのか」
市は次第に活気づく。
梓は冷静に様子を見ていた。
(流れはできた)
その時だった。
「ほう」
背後から声がした。
低く、威圧感のある声。
振り向いた瞬間、周囲の空気が変わる。
そこに立っていたのは――
織田信長。
那古野城の主。
商人たちは一斉に頭を下げた。
「信長様!」
梓も膝をつく。
「顔を上げよ」
信長はゆっくりと市を見回した。
鋤。
包丁。
釘。
並んだ鉄器を手に取る。
刃を光にかざす。
「……良い」
信長は小さく呟いた。
「これらはおぬしの手配か」
「はい」
梓は静かに答える。
「我が主の領地を豊かにするための商いにございます」
信長の口元が歪む。
「ほう」
興味深そうに笑った。
「城下の商いを動かすつもりか」
「はい」
梓は迷わない。
「那古野の市を広げれば、人も金も集まります」
周囲の商人たちが息を呑む。
城下の市を広げる。
それは大きな話だ。
信長は少しの間黙っていた。
やがて。
ふっと笑う。
「面白い」
その目が鋭く光る。
「梓」
「は」
「おぬしは我が配下だ」
「承知しております」
「ならば好きにやれ」
周囲がざわめく。
信長は続ける。
「だが」
鋭い視線が梓を射抜く。
「織田のためになる商いにせよ」
梓は深く頭を下げた。
「無論にございます」
信長は満足そうに頷いた。
「良い働きを見せよ」
そう言い残し、那古野城へと戻っていく。
主君の背を見送りながら、梓は静かに息を吐いた。
すると商人たちが一斉に寄ってくる。
「梓殿!」
「取引を願いたい!」
「その鉄器、もっとあるのか!」
信長の許しを得た今、商人たちの態度は明らかに変わっていた。
梓は空を見上げる。
那古野の空は広い。
(ここからだ)
半透明ボードが再び光る。
薬。
鉄器。
新しい品。
この力を使えば、城下の商いを変えることもできる。
そしてそれは――
織田信長の力になる。
梓は小さく笑った。
戦国の世。
歴史が動く時代。
その渦の中心で、
一人の女性が静かに商いを広げ始めていた。




