【短編】金曜の手作りチョコパイは君の味(2026.2.13.Fri)
――凛、お願い!金曜日、一緒にチョコパイ作って!
ボウルの中に、卵黄が滑り落ちる。
横では幼馴染の結芽が、ミルクチョコレートを割っていた。均等に割られていくチョコレート。鼻歌混じりに作業する結芽に、小さく息を吐きだす。
脇の泡立て器を手に取って、手元のボウルを覗き込んだ。
透明なボウルに映る、眉を寄せた私の顔。
軽く首を振ると、かき混ぜ始めた。卵黄から溢れた黄身が、ぐるぐると回りだす。
隣から漂う甘いチョコレートの香りに、息が苦しくなる。
横を見ると、結芽がきらきらとした眼差しを私に向けていた。暖色のライトに照らされた瞳が、きらりと輝く。
目の毒だった。
さっと目を逸らすと、小さく息をつく。甘ったるい匂いに、心がかき乱された。
泡立て器を動かす手を止め、結芽に目を向ける。
「ねえ、結芽」
「え、なにー?」
「……やっぱり、なんでもない」
「……そう」
結芽がさっと目を逸らす。小さな棘がひとつ、胸に刺さった。
静かなキッチンに、ぱきぱきと割られるチョコレートの音だけが響きだした。
手元のボウルに視線を落とし、止めていた手を動かす。崩れる黄身が、映った私の顔をぐちゃぐちゃとかき混ぜていく。どろどろに溶けた何かが、お腹の奥で蠢いた。
――誰に、チョコをあげるつもりなの?
――好きな人が、いるの?
喉の奥に引っかかった言葉を飲み込む。
もったりとしたそれは、ちくちくと喉を刺しながら、体の中へ落ちていく。お腹の中で燻る熱が、内側から全身を焼いていった。
泡立て器に力を籠める。つんとした冷たさが、指先に走った。
卵黄が、ボウルの壁に張り付いては落ちていく。増え続ける泡に、歪んだ私の顔が伸び縮みしていた。
その手に、そっと手が添えられる。ふわりと香るチョコレートの匂い。
小麦色の、健康的な結芽の手。肩が跳ね、息が詰まった。
手から、泡立て器が滑り落ちる。
耳元で結芽がくすりと笑う。
小麦色の指が、指の隙間をすべる。
お腹に溜まった熱が、急速に胸に集まる。心臓が飛び出そうだった。
「凛、どうしたの?」
体調悪かったのかな、と結芽が眉を寄せて見上げる。
手のひらに当てられた手が、熱かった。
結芽は、軽く首を傾げる。
ぐっと顔を近づける結芽。添えられた手に、軽く力がこもる。
「……あたしが誰にチョコをあげるか、気になってるんでしょ」
これまで、チョコなんて作ってこなかったから、と結芽がにやりと口の端を上げた。
どくん。
心臓が跳ねる。目と鼻の先にある茶色い瞳。
映り込んだ私が溺れかけていた。指先から、じわりとした熱が広がる。
ぱっと手を振りほどいた。顔を背けると、小さく息をつく。
「別に、そんなんじゃない」
「ふーん、そうなんだ」
踵を返した結芽が、戸棚から包丁を取り出す。ふらふらとした手つきで、パイシートに包丁を入れ始めた。
それを横目に、握られた右手に左手を重ね、熱を指先まで伸ばしていく。
ふと横を見ると、結芽の動きが止まっていた。まな板の前で立ち尽くす結芽。
指先が小さく震え、包丁が滑り落ちそうだった。
慌てて駆け寄る。後ろから手を回し、結芽の手の上から包丁を握った。
小柄な結芽のつむじが、鼻先で揺れ動く。
ぴくりと震える結芽。小刻みに前髪が揺れていた。
結芽の肩越しに、まな板を見る。パイシートが、無残な姿で転がっていた。
ガタガタの切れ目。不揃いなシートが繋がっていた。
「……えっと、凛」
「結芽は、相変わらず不器用なんだから」
添えた手に力を入れ、パイ生地に包丁を差し込む。
歪な生地を、四角く切り分けていく。
すいすいと滑らせる包丁。温かい結芽の背中。
ボブカットの髪の甘い香りに、息が詰まった。
震える指先を抑えて、素早く包丁を動かす。
結芽の震えた手が、軽く汗ばんでいた。
触れる度に、結芽の肩が跳ねる。じっと動かずに俯いたままだった。
「ほら、結芽。四角く切ったから、一口チョコパイだけど、作れるよ」
「……ぁ、ありがと」
そっと体を離すと、冷えた風が足元をすり抜けていく。
重ねた手をゆっくりと離した。
ちらとこちらを見上げる結芽。ほんのりと赤く染まった目元。
涙ぐんだ顔に小さく噴き出す。
「このくらい、失敗じゃないよ」
ぽんぽんと結芽の頭を撫でると、ぎゅっと目を閉じた結芽が、勢いよく頷いた。
動くたびに広がる、甘いチョコレートの匂い。
静かに体をずらし、右手を後ろ手に握る。
汗ばんだ手のひらに、結芽の小さな手の温もりが、くっきりと残っていた。
❤
キッチンタイマーの音が、けたたましく鳴り響く。
キッチンから漂う、甘いチョコの香り。ソファに座る結芽が、いそいそとキッチンへと駆け寄った。
ゆっくりとその後をついていく。チョコパイが焼き上がったようだった。
オーブンから取り出されたチョコパイを、お皿に並べる。
こんがりとした焼き色に、ころんとした形。漂う美味しそうな匂いに、口元が緩んだ。
「美味しそう!」
味見しようよと手を伸ばす結芽。
口に放り込んだ途端、とろけた顔になる結芽に小さく笑った。
もぐもぐとチョコパイを頬張る結芽の頬に、パイ生地が付いていた。
自然と手が伸びて、結芽の頬に触れる。
そっとパイ生地を取ると、口に入れた。ゆっくりと口の中で解けていくパイ生地。
ふと視線を感じた。
じっとこちらを見上げる結芽。寄せられた眉に、強くかまれた唇。
一瞬絡んだ視線が、ばっと逸らされる。
結芽はそのまま後ろを向き、キッチン台に手をつく。その背中が微かに震えていた。
「ねえ……凛」
結芽の声が、掠れていた。
くるりと振り返ると同時に、体を押される。冷えた冷蔵庫に体がぶつかった。
「結芽……?」
小さく息をのむ。体がぶつかる衝撃で、思わず肩をすくめた。
「ばか」
涙で光る瞳が揺れていた。
荒々しく首元に左腕が回され、ぐっと引き寄せられる。
「んっ……」
微かに開いた私の口に、指先で押し込まれた甘いチョコパイ。
鼻の中を甘ったるい匂いが駆け上がった。結芽の指先が、唇を撫でて離れていく。
「凛……」
結芽がごくりと唾をのむ。小さな吐息が鼓膜を揺らす。
「チョコも、あたしも……ぜんぶ、凛にあげる」
息が止まった。
溢れた甘さが喉に絡まって、苦しい。
口の中のチョコパイが、ゆっくりと溶けていく。
結芽がそっと体をした。
ほんのりと染まった頬。潤んだ茶色の瞳が、じっと私を見上げていた。
心許なげにさまよった手が、私の服の袖を握る。
自然と、結芽の頬に手を伸ばしていた。体を寄せる結芽の腰に、反対の手を回す。
熱をはらんだ頭が、結芽の輪郭を捉えた。
近づく鼻先。じっと見上げる茶色の瞳。その奥で、私の輪郭がぐるぐると溶けていく。
袖を握る結芽の手が、胸元をつかむ。爪が軽く食い込んだ。
「凛……」
閉じられた結芽の瞼が小さく震える。伸ばした手が髪を撫で、滑り落ちて頬に触れた。
じわりと上がる体温に、指先から溶けていく。
指先で、赤く染まった耳の縁をなぞる。結芽の息が跳ね、掴まれた胸元が甘く痺れる。
もう、逃げようとは思わなかった。
近づいた吐息が、甘く混ざる。
赤く染まる結芽の頬を、熱い指先がそっと撫で上げていった。
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