第9話 稽古
次の日の夜、陽葵はいそいそと書庫へ向かう。連日のせいで寝不足であるが、行かなければ追い出されるという脅迫のお陰で向かわざるを得ない。
(一体、今度は何の御用なの…。)
冷たい紫苑のことだから、きっと自分のことを目新しい玩具のようにしか思っていないのだろう。自分を見るあの小馬鹿にしたような顔を思い出しため息がでる。
書庫は既に灯りが揺らめいており、紫苑が先にいることを表していた。
「…おい、遅いぞ。」
部屋に入るやいなや眉間に皺を寄せ紫苑は言った。
仕事を終えた後にわざわざきているのだから遅いも何もないでしょ。と陽葵は心の中で毒づく。
そして紫苑は手元にあった書物を手に取り、陽葵の足元へ投げた。片付けろということなのか、と疑問符を顔に浮かべながら書物を拾い上げると紫苑の口から思わぬ言葉が飛び出す。
「俺が昔使ってた書写の本だ、お前にやる。それで練習でもしろ、いいな。」
「え!?そ、そんなに酷い字でしたか…。」
「あぁ、見苦しい。」
ピシャリと言いきられ、お古の書物を高貴な方から頂いたという喜びよりも落胆・羞恥の感情が勝つ。露骨に落胆している陽葵を見て、紫苑は不機嫌そうに続ける。
「おい、お前は礼が言えないのか。」
「ありがとうございます、大切に致します。」
冗談じゃない。こちらは一日重労働で毎日満身創痍なのに、そこから字の勉強…やってられない!
陽葵は心の中で叫んだ。
どうやら紫苑はこの書物を渡したかったらしい。陽葵の事を散々お節介だと小馬鹿にしているが、これはお節介ではないのか。陽葵はため息を出すまいとぐっと飲み込み、書物を抱えて部屋を後にしようとした時だ。
「おい、待て。」
「はい。」
振り返ると、紫苑が自分の着いている文机の隣を指さした。そこには紙と筆と墨が置かれている。
__陽葵に嫌な予感という名の悪寒が走る。
「今からですか?」
「当たり前だ。お前みたいな稚拙な字を書く馬鹿が九条の下女をしているなんて、恥さらしもいいとこだ。」
さあ、やれ。とばかりに痛々しいほど冷たい視線を送る紫苑。そんな彼の視線を突っぱねる権利などもちろんあるはずもなく、渋々陽葵は彼の隣に腰を下ろした。
陽葵は早速書物を開き、筆を動かしていく。
「おい、筆が寝てるぞ。立てて書け。」
「力入れ過ぎだ。」
「……チッ」
「姿勢が悪いぞ、背筋を伸ばせ。」
いざ書き始めると、隣で書物を読んでいるはずなのに横から厳しい指摘が次から次へと雨のように降ってくる。書き上げる陽葵の文字を眉を顰め、不快そうに眺める。
(字が汚い者もいればましてや読めない者もいるのに、何故私だけこんな目に…。)
心の中で不満を吐露する。
一文字書けば小言の嵐。何とか逃れるために「お茶は飲みませんか?」と打診してみるも、「今は要らない、集中しろ。」と一喝され。やはり領主の息子として厳しく育てられてきただけあり、一度やると決めたらとことんやらないと気が済まない性分のようだ。
厳しい稽古が続くが、さすがの陽葵も体力の限界が近づき重い瞼が落ち始める。
しばらくして紫苑はそれに気づいたのか、ようやく本を閉じた。
「…ふん、今日はここまでだ。もういい。」
「は、はい。…え、『今日は』…ということは…明日もあるのですか?」
「…当たり前だ。これで上手になったつもりか。ふざけてるのか。」
絶望とも言える宣告に陽葵は心の中で絶叫した。しかし、ここで来ないという選択肢を取ると屋敷を追い出される事になるのは明白だ。陽葵は彼が閻魔よりも恐ろしい何かに見えた。
こうして、夜更けの静かな書庫で下女と主の二人の習字稽古が幕を開けたのだ。
次の日の朝、いつも元気ハツラツな陽葵ではなく目の下に隈を作った満身創痍の陽葵がいた。日花が心配そうに声をかける。
「陽葵!?どうしたの、酷い顔よ。」
「はは…。下女って本当に…大変な仕事ですね。」
力なく陽葵は笑った。
紫苑は煌びやかな部屋で目を覚ます。昨晩の稽古に熱が入りすぎ夜更かししてしまったせいだろうか、窓の外から差し込む陽は既に高く昇り、雀の騒がしい声が聞こえていた。
(少し、寝すぎたか…。)
従者が一人、慌てて彼の身支度を整える手伝いをする。眠い目を擦りながら、彼は昨晩の事を思い出す。
(あの下女、確か陽葵と言ったか。…にしても汚い字だった。父上もよくあんな女を下女に迎えようという気になったもんだな。)
紫苑は心の中で毒を吐きながら、従者が持ってきた羽織りに腕を通す。そして、いつものように鏡の前に座り、少し長めの髪をさっと結わえる。
結い終えると同時に従者が大事そうに布に包まれた牡丹の簪を持ってくる。紫苑がその簪を手に取り、つけようとした時だ。
__あれ。
紫苑は違和感を覚え、簪をじっと見つめる。いつもの変わらない綺麗な牡丹の花があしらわれた簪。陽の光を反射し、キラキラと美しく輝いている__はずだった。
しかし、今日彼の眼にはそれがどうしようもなく色褪せて見えた。
ここから二人の物語が大きく動き出すことになるとは誰も思いもしなかった。




