第8話脅迫
心に靄を抱えたまま、陽葵の一日は風のように過ぎていく。今日の紫苑は昨晩の件で機嫌が悪いのだろうか、もしそうなら謝らなければ…。と考えていた陽葵だが、そういう時に限って今日一日彼に会うことはなかった。
今日は厨で板前が使った料理器具や食器を洗う仕事をしているが、どうにも仕事に身が入らず焦ってしまう。厨は主の目の届かない居場所柄、自然と雑談に花が咲くが、その雑談ですら今の陽葵には雑音にしか聞こえない。
陽葵が洗った洗い物を見て日花は困ったように口をへの字に曲げた。
「陽葵、ちょっとこれ。洗い残しあるわよ。」
「すみません…。」
洗い直しを命じられるも考えるのは頭の中は昨晩のことで占拠されていた。
「(やっぱり、モヤモヤする。謝らないと…。)」
お節介な性分だ、自分のせいで不快な思いをさせてしまったらなんとかして謝らなければ気が済まない。放っておくことができないのだ
__彼は、今晩も書庫に現れるのだろうか。
そんな淡い期待を胸に、彼女は夜更けの書庫で彼が現れるのを待つことにした。
「…まぁ、そこまで事が上手く運ばないよね。流石に。」
陽葵が書庫に来てどれくらいの時間が経ったのだろう。そもそも約束なども取りつけている訳でもないため、紫苑がやってくるという保証などどこにもない。陽葵は浅はかな賭けに負けたのだと少し落胆する。
書庫に立ち込める紙と墨の混じった匂いと建物の木の匂いが夜露に湿り、陽葵の肺腑を占領する。
(この匂い好きだなあ…。)
そんなことをぼんやりと考えているが、正座した陽葵の足元徐々に痺れてくる。行灯の中に入っている蝋燭ももうだいぶ短くなっていた。そろそろ引き上げ時のようだ。
夜も更けた頃、深い眠りにつきそうになっていた時急に厠へ行きたくなった紫苑は部屋を出た。部屋を出た頃はまだやや寝ぼけ眼ではあったが厠で用を足し、自室へ戻ろうと足を進める頃には目が覚めてくる。
薄ら寒い廊下を歩いているときだった、視界の隅に何やら小さい灯りが見えた。足を止め、その方向をまじまじと見ると、書庫だ。
「(誰かが灯りを消し忘れたのか…?)」
いつもならそのまま見なかった事に行ってしまう紫苑だったが、どういう訳かこの時は無性に気になり自然と書庫の方向に身体が引き寄せられていた。
中から物音は一切しない。紫苑は襖に手をかけた。
「お前、何をしている。」
「…し、紫苑様!?」
引き上げようかと思った時、襖が開いた。寝ていたのだろう寝巻き浴衣にいつも結わえられた髪は解かれ黒髪が肩にかかるかかからないか位の長さで揺れている。少しはだけた浴衣の胸元からは鍛えられた筋肉が見える。いつも見る昼間の煌びやかな装いとは違い妖艶な雰囲気を纏った姿に陽葵の目は行き場を失う。
しかし昼間と変わらぬ冷徹な表情に陽葵はハッとし平伏する。
「紫苑様にお詫び申し上げたく…」
「お詫び…?」
「昨晩、余計な事を申し上げて不快な思いをさせたかと…。」
紫苑の眉がぴくりと動く。しばらくの沈黙の後、深いため息をついて彼は口を開く。
「……別になんとも思ってないけど。」
明らかな虚勢だ。それは陽葵も紫苑自身も分かっていた。昨晩あれだけ動揺を隠せずにいたのになんとも思っていないはずはないのだ。しかし、陽葵はそれに対して追求はしなかった。話を逸らすように紫苑は言葉を続ける。
「てか、お前。もしかしてそれ言うためだけにここに居たのか?」
「はい…。」
「やっぱり、お前って馬鹿だったんだな。」
「はい…。」
「そんな事に時間を割く暇あるなら、人が読めるまともな字を書く練習でもしろ。」
「はい…。」
__そんな事。
こちらは一日中悩んで、心配して、疲れた身体でで書庫まで来て待っていたというのに。この男はねぎらいもしない。淡々と冷たい言葉を容赦なく投げかける紫苑に完全に振り回されている自分が陽葵は少し情けなくなった。
「…明日も来んの。」
流石にもう来ませんよ。と返事しようと顔をあげるとそこには拒否権はないぞと言わんばかりの威圧的な紫苑の視線。返事に迷っていると、目の前の威圧的な男は続けた。
「来なかったら追い出すから。」
「は、はい。」
脅迫ともとれる一言。陽葵のできる返事は一つしかなかった。紫苑はふんっと鼻を鳴らすと、自室に戻るのか歩いていってしまう。
肩の力が抜け、感覚の無くなった足を崩すと一気に痺れが足全体に広がった。「いたた…。」と足を揉みほぐす陽葵を嘲笑うかのように行灯の蝋燭が尽きて消え、暗闇が書庫を包んだ。




