第7話 『陽葵』
その日の夜更け、陽葵は言われた通りに生姜湯を作るとお盆に乗せてゆっくり歩く。月明かりが廊下を照らし、彼女の足元を照らしている。昼間の賑やかさとはうってかわり、屋敷は静まり返りミミズクの声が遠くから聞こえてきた。
「(よほど、この生姜湯気に入ったのかな。)」
呑気な事を考えながら、書庫まで来る。先日と同じようにゆらゆらと行灯の光と紫苑の影が揺れていた。
「紫苑様、失礼致します。」
「ん。」
短い返事が中から聞こえる。襖を開けると、紫苑がこちらを見ていた。吸い込まれそうな程の黒い瞳に艶やかな黒髪、そしてその髪に映える美しい牡丹の飾りが着いた簪。彼の冷徹無慈悲な性格を知らなければ、見とれるほどに美しい。
「…来たのか、お節介女。お前は頭が悪そうだから来ないと思った。」
息を吐くように棘のある言葉を吐く紫苑に対し、ははは。と愛想笑いしか返すことの出来ない陽葵。
(頭悪そうですみませんね〜。)
「生姜湯でございます、どうぞ。」
心の中で悪態をつきながら、机に湯呑みを置いた。
「…ん。」
返ってくるのは短い返事のみ。ありがとうと優しげな笑みで言われれば、こちらにもやり甲斐というものが生まれるというのに…。陽葵は口から零れそうになるため息をぐっと飲み込む。
置かれた湯呑みを一瞥することなく、黙々と書物を読み続ける紫苑。沈黙が二人を包み、響くのは乾いた紙の音だけだ。
陽葵はここから出ていくべきか、居るべきなのか分からず落ち着かない。ついに沈黙に耐えかねて立ち上がる。
「あの…紫苑様。私はこれで……」
「は?下がれって言ってないんだけど。」
「…はい 。」
会話はそれだけで、再び沈黙が訪れる。
紫苑が静かに書物を読み、時折紙に筆で文字を書く。再び話しかけることは許されないそんな雰囲気の中、その傍らで陽葵はただひたすら黙って座っていた。
刻一刻と時は過ぎていく。
昼間の仕事の疲れもあり、この静かで手持ち無沙汰な状況のせいで陽葵も一気に眠気が襲う。
何度目かの瞼との攻防だろうか、うたた寝でもしてしまおうか…と気が緩んだ時だ。パタリと紫苑は本を閉じた。
「おい、お前。」
「…はい!なんでしょう。」
微睡みかけていた陽葵の声は少し裏返る。その様子を見て怪訝そうに眉を顰めた紫苑は続けた。
「名前、なんだっけ。」
「え…。」
さも当然知りません、初めましてですが…というような顔をする紫苑。
彼には何度か自己紹介しているはずだ。覚えるほどの価値もなかったということなのか、はたまた関心すらないのか、本当に下女の事を駒としてしか見ていないのだろう。陽葵は怒りを通り越し呆れるが、そんな感情は紫苑に届くことは無い。
「ひまりです。」
「字は?」
「えっと…」
陽葵がしどろもどろになる様子を見て、めんどくさくなったのか手元にあった紙と筆を放った。どうやら書いてみろということのようだ。恐る恐る筆を手に取ると、緊張しながらも『陽葵』と筆を動かす。
「…なんだそのミミズの這ったような汚い字は。」
生姜湯に口をつけた紫苑は途端に吹き出し、心底馬鹿にしたように言った。
「し、書写を習う機会がなかったので…!」
屋敷勤めが長いため、文字を読むことに関しては幾分か自信はあったが、文字を書くことは経験が少なく貧しく習うことも出来なかった為得意ではなかった。その事は陽葵自身も自覚はあったが、こう改めて馬鹿にされると、羞恥心で顔が真っ赤に染まる。
「貸せ。」
そう言うと紫苑が筆と紙を取った。紫苑の影と陽葵の影が近づく。紫苑の着物から漂うお香の匂いが陽葵の鼻をくすぐり、知らぬ間に彼女の鼓動は少し早くなる。
『陽葵』
白い和紙に流麗に浮かび上がるその字に陽葵は息を飲む。
「わあ…。」
「ふん、少しは練習でもするんだな。…それ片付けとけ。」
そう嫌味ったらしく紫苑は言うと立ち上がった。いつの間に飲んだのか、湯のみは空になっている。
部屋を出て行こうとする紫苑の背中を見ると、頭に揺れている簪に目が行く。陽葵は日中疑問に思っていた事をあっと思い出す。
「紫苑様、一つだけいいですか。」
「…なに。」
紫苑は、面倒くさいという顔で振り向く。
「その牡丹の簪の事で…」
「……!」
先程の和やかな雰囲気が嘘のように部屋が凍りついていくのを陽葵は肌で感じた。紫苑の表情が険しく、冷たく変わる。しかし、その瞳の奥にはいい例えられない焦燥感も混じっている。あの綺麗にした着物を持っていた夜と似たような表情。
その彼の動揺に過敏に反応した陽葵は言葉を続けてしまう。
「す、素敵な簪だなと…。何か大事な思い入れのある簪なのかなと…。」
「…それ、お前に関係ないだろ。」
「も、申し訳ございま___
ピシャリッ!
言い終わらないうちに紫苑は勢いよく襖を閉め、部屋から出て言った。
部屋には『陽葵』の文字が書かれた紙と、陽葵の深いため息だけが残った。
次の日、陽葵は落ち着かない様子だった。昨日のあの紫苑の顔が頭から離れない。触れてはいけないことに触れてしまったのだという罪悪感と後悔が胸に押し寄せる。
でも、その禁忌に触れる事で雪で覆われ冷たくなった彼の人間性に血が通うような気がしてほっとけない。
(紫苑様の言うとおり、私はお節介なのかもしれない。)
懐に『陽葵』と書かれた紙を大事そうにしまった。
「陽葵、どうしたの。浮かない顔じゃない。」
「日花さん…。いえ、別に…ちょっと疲れが出てて。」
心配そうに顔を覗き込む日花に笑って誤魔化す。『牡丹の簪』のことについて他の者に言うことは出来なかった。




