第5話 汚れた着物
次の日の朝、朝の支度をしながら陽葵は大きなあくびをした。昨晩の夜更かしのせいで、すっかり寝不足だ。
「陽葵、目が開いてないわよ。」
日花や他の下女たちにくすくすと笑われる。へへへ。と笑うその顔にはうっすらと隈もできている。
陽葵は、昨晩の出来事を話すか話すまいか迷ったが、何故だか心にそっと仕舞っておきたくなり、口に出すことはなかった。紫苑はよく眠れたのだろうかとふと考える。
彼は領主の息子だ。自分の身分からは想像できないほど大きいものを背負っているのだろう、冷たく威圧的なあの態度もきっとその重圧に耐え続けた裏返しなのだろう。昨日の紫苑の疲れた顔を思い出し、陽葵はそう思っていた。
「皆さんが、私に仕事押し付けるせいですよ。寝不足です。今日はとっとと終わらせて早く床に着きますよ。」
ふんっと鼻を鳴らし意気込みながら洗い場まで来ると、昨晩陽葵が渡した湯のみが置かれていた。
____中身は空だ。
「(全部飲んでくれたんだ。)」
陽葵は心がじんわりと暖かくなるのを感じた。
陽葵がいつものように廊下の雑巾をかけていた時だった。パリンッ!という陶器が割れる大きな音と日花の「きゃっ」という短い悲鳴が聞こえた。
声のする方へ向かうと、そこには日花含む二人の下女が立ち尽くしていた。足元にはひっくり返って割れた大きな植木鉢と赤紫色の着物__紫苑の着物が落ちていた。着物を運んでいた日花と植木鉢を運んでいた下女がぶつかってしまったのだろう。
日花は青ざめた顔で慌てて着物を土の中から引っ張り出すが、もうその着物は泥に塗れ、目も当てられないほど酷く汚れていた。一生懸命土を払おうとするが、虚しくも取れることはない。周りに集まってきた下女達はかける言葉がないと言った様子で黙って見守る。
「おい、何を騒いでいる。」
不幸なことに、騒ぎに気づいた紫苑が向かってくる。皆が一斉に道を開ける。騒ぎの中心へ着くと同時に一気に彼の顔色が変わる。
「は?…んだよ。これ」
低くドスの効いた怒りに満ちた声。周りはこれ以上にないくらいしんと静まり返る。その静寂の中、日花と下女の悲鳴のような謝罪が響く。
「もっ申し訳ございません!紫苑様。」
「……。」
「ど、ど、どうか…!お許しを…!!!!」
「………。」
紫苑は二人を睨みつける。眉間がピクピクと怒りで痙攣している。噛み締めるように紫苑は小声で言う。
「…どうすんだよ…。これ…。」
「本当に申し訳ございま____。」
「謝れなんて言ってねぇんだよ。」
紫苑は日花の胸ぐらを掴み静かに声を押し殺したように言う。彼がこう怒るのも無理はない、この着物は彼のお気に入りの着物だったのだ。
「どうすんのって聞いてんだよ、こっちは…!」
「あ……あっ…。」
狼狽し、涙を堪える日花。「あの子、もう終わりだな。」と呟く下男の無慈悲な言葉が陽葵の耳に入る。陽葵はふと日花との会話を思い出す。
『んー…私の両親は体が弱くて病気がちで、でもまだ小さい弟もいるのよ。だから、私が生活を支えなきゃって。』
もし、日花が解雇されたら?もし、着物の賠償金を払うことを強いられたら?もし、生活が困窮したら…?彼女は今までみたいに柔らかい笑みを浮かべながら生きていけるだろうか____。
そう思うと考えるより先に言葉を発していた。
「__そんな汚れ、簡単に落とせます。」
「は?」
周りの皆が一斉に陽葵の方を向く。その声を紫苑が聞き逃すはずもなく、ゆっくりと顔をあげて陽葵を凝視する。陽葵と目が合った瞬間、彼の瞳はほんの一瞬揺らぐ。しかしそれは本当に一瞬で、紫苑は日花の胸ぐらを離し汚れた着物をひったくるとずかずかと陽葵の元へ詰め寄ると着物を差し出した。
「…ほら。」
「えと…。」
「落ちるんだな?…だったらやってみろよ。お節介め。」
そう吐き捨てるように言うと、陽葵に着物を乱暴に投げつける。
「あ、言っとくけど。落とせなかったらお前ら全員この屋敷からたたき出すから。」
「わ、分かりました!!」
陽葵の真っ直ぐな瞳と紫苑の冷たく鋭い瞳がぶつかる。紫苑はその瞳に耐えかね、ふんっと顔を逸らすとそのまま踵を返してその場を後にした。
「陽葵、ごめんなさい。私のせいよ…。」
紫苑が居なくなったことで緊張の糸が切れたのか、日花は顔を歪ませて目からぽろりと涙を零した。
怖かったのだろう彼女の身体も微かに震えている。
「大丈夫です、私が何とかしてみせます!まずは付いた泥を乾かさないとですね。ちょうど天気が良くて良かったです。」
陽葵が駆け寄り、日花達を励ますように声をかける。その太陽のような笑顔に日花はさらに涙を流した。
その日、日が落ちようとしている時間になっても陽葵は紫苑の所へ来る気配がない。紫苑は自室で一人本を読んでいるが、どこか心が落ち着かない。
あんなに汚れた着物が元通りになるはずがない。それを必死になって俺に歯向かって何がしたかったんだあいつは…。まさか、諦めてもう出て行ったんじゃないか?
ふつふつと邪念が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返して本の内容がまるで入ってこない。
苛立ちで揺れる肩に呼応するように頭の簪もシャラシャラと鳴る。
「___くそっ。」
言葉を吐き捨てる。何故こんなにも落ち着かないのか…。夜風にでもあたり、気分を鎮めよう。そう思い紫苑は立ち上がり勢いよく襖を開けた。
「わっ…。」
すると目の前には、びっくりして間抜けな声をあげる陽葵が立っていた。手には赤紫色の着物抱えていた
紫苑と目が合うと陽葵は太陽のようにキラキラとした輝かしい笑顔で言った。
「見てくださいっ!落ちました!!紫苑様の着物、元通りになりましたよ!…ちょっと時間、かかっちゃいましたけど。」
へへへ。と少し照れくさそうに笑う陽葵を前に紫苑はその場で固まってしまう。固まってしまった表情とは裏腹に彼の心は激しく動揺する。
そんな無垢な顔で俺を見ないでくれるか?
だってその笑顔がその眩い眼差しが___。
「__牡丹に似てる。」
ぽつりと出た一言。しまったとばかりに紫苑は手で口を塞ぐ。彼の冷たく冷えきった心臓が激しく脈打ち始める。
「え?」
「な、なんでもない。……遅いんだよ。早く貸せ。」
そう言うと彼は乱暴に着物をひったくるとバサリと部屋の床に広げた。




