第4話 夜更け
陽葵が九条家に来てから数日経った。初日から変わったことといえば、幾分か仕事を覚えてきた事と紫苑の従者が二人居なくなったこと。そして、今朝方当主である九条天仁が帰還したことだ。
幸いなことに、天仁と顔を合わせる機会はないまま天仁は昼頃には家を出て行った。紫苑に加え、その親である天仁もひとつ屋根の下で生活を共にするとなると恐ろしく息が詰まりそうだと陽葵は思った。
その日の午後、陽葵は日花達と他愛ない話をしながら庭の片隅を箒で掃除していた。
「陽葵は、本当に仕事覚えるの早いわね。」
「いえ、そんな!日花さんの教え方が分かりやすいお陰です。…それに実は、ここに勤める前にも屋敷勤めしてまして、慣れてるんです。」
少し得意げに陽葵は笑った。
「そうだったのね、どうりで。頼れる後輩が出来て嬉しいわ。」
日花はふわりと涼しげな顔で笑った。優しく時には厳しく接してくれる日花は、陽葵にとって姉のような存在になりつつあった。
「日花さんは、どうしてこの屋敷に勤めてるんですか?」
「んー…私の両親は体が弱くて病気がちで、でもまだ小さい弟もいるのよ。だから、私が生活を支えなきゃって。」
日花は少し照れくさそうな顔をしながら、それを隠すように「陽葵は?」と聞いた。
「私ですか?…恥ずかしながら、私の両親は幼い頃に亡くしちゃって、毎日生きるのに必死で…。」
「……そうなの。」
やや気まずい雰囲気が流れるが、それを払拭するように陽葵は悪戯っぽく笑った。
「お給金良いじゃないですか、ここ。」
「もう、陽葵ったら。」
和やかな雰囲気が流れる。
しかしその雰囲気もつかの間、不機嫌そうに足を踏み鳴らしながら廊下を歩く紫苑が現れた。後ろには従者が一人ぱたぱたと追いかけている。
武術の稽古終わりだろうか。また少し息は荒く、諸肌脱ぎで露わになっている鍛えられた上半身は汗が滴っている。陽葵はその妖艶な姿に不覚にも胸を高鳴らせる。
掃除する手を止め、その場で深く頭を下げる陽葵と日花。前を通り過ぎる彼の横顔に何やら焦燥感を覚えた陽葵は呟いた。
「(紫苑様、何かあったのかな…。)」
「紫苑様、機嫌悪そうね。」
日花が怯えたように声を潜めて言った。
彼の身に何やら重たい何かがのしかかっているような気がして、陽葵は彼の遠のく背中を心配げに見送った。
その日の夜更けだった。陽葵は手に多くの書物を抱え、薄暗い廊下をヒタヒタと早足で歩いていた。本来なら床につく時間だが、天仁の部屋で読み散らかされた書物の山を整理するという仕事を運悪く引き受けることとなったのだ。
書庫の前まで来ると、中から灯りが漏れていた。誰かが中に居る。障子には人影が浮かび上がっているように見える。
「(こんな時間に…こんな所で…誰??)」
霊的な何かを想像し身震いする。入ろうか、入るまいか。中に居るのは何者なのか。襖の前で立ち尽くしていると、中から不機嫌そうな声が聞こえた。
「おい、そこに居るのは誰だ。」
それは紛れもなく紫苑の声だった。
恐る恐る襖を開けると、紫苑が書物片手に書き物をしていたらしく筆を片手にこちらを睨んでいた。
「なんだお前は。」
「あ、えと。陽葵という下女です。天仁様が読んだ書物を片付けに参りました。入ってもよろしいでしょうか…。」
「あそ、好きにしろ。」
行灯がゆらゆらと揺れ、相変わらず不快そうに眉間に皺を寄せる紫苑の顔を照らす。
陽葵は恐る恐る書庫に足踏み入れた。
静かな部屋に紫苑が筆をサラサラと進める音、書物をめくる音、簪の飾りがキラキラと擦れる音が響く。
「おい、お前。」
先に静寂を破ったのは紫苑だった。
「はい。」
「この本片付けろ。あと、経済学の書物を取ってこい」
言われるがままに受け取った本を棚に戻し、慌てて『経世済民』と書かれた本を紫苑に手渡した。
紫苑は「ふっ…。」と鼻で笑い、やや意地悪そうな笑みを浮かべる。
「なんだ、お前。ぼんやりした顔の割には文字が読めるんだな。」
そのあまりにも失礼な言い方に陽葵は少しムッとするも落ち着いて受け答えする。
「はい、お屋敷に勤めが長いのである程度であれば…。」
「あそ。」
紫苑は別に興味ないけど。といった様子で書物を開き、静かに読み始めた。昼過ぎのあの不機嫌そうな顔とは違い、真剣な眼差しで書物を読むその顔はひどく疲れているようで心配になった陽葵は紫苑の顔をじっと見つめる。
あまりに長い間見つめていたのだろう、紫苑は顔をあげる。その顔はいつもの不機嫌そうな表情に戻っていた。
「なに、さっきから。」
「あ、いえ…。」
「用が済んだらとっとと出てけ。」
「あ、えと…。もうだいぶ夜も更けてますが、まだお休みにはなられないんですか?」
紫苑の冷たい視線に動揺し、思わず思ったことを口にする陽葵。しまった、と思うがもう遅く紫苑の眉間の皺が一層深くなる。
「はあ?…それお前に関係あんの?」
「…。」
「邪魔。」
紫苑の口から吐き捨てられた言葉に背中を押されるようにして、陽葵は部屋から出ていった。
紫苑は陽葵が出ていくと同時に小さいため息を一つつく。今朝の怒りはだいぶ収まったが、やはり心の奥底でそれはまだ燻っている。そのうち眠くなるだろと思い、書庫にきてどれくらいの時間が経ったのか、まだ彼は眠れそうになかった。
しばらくすると襖の向こうから「紫苑様、失礼します。」と声がし、襖が開けられた。紫苑は書物を読みながら顔を顰める。
「まだここになんか用か。」
「…はい。」
「なんなんだお前は___!」
我慢できないと言わんばかりに紫苑が顔をあげると同時に、陽葵はコトッと湯のみを机に置いた。
「生姜湯、お淹れしました。」
「……はぁ?」
湯呑みからはほかほかと湯気が立ち上り、刺激的な生姜と蜂蜜の甘い香りが紫苑の鼻をくすぐった。
「…俺、頼んでないんだけど。」
「はい。私が淹れたくて淹れました。無礼をお許しください。疲れているように見えましたので、飲んでみてください。心が休まりますよ。」
純粋な面持ちでにっこり微笑む陽葵。その彼女の真っ直ぐな瞳を前に紫苑は何も言えなくなる。
「(何のつもりだ…この女は…)」
「それでは、失礼致します。」
陽葵が足早に部屋から出て行った後も、紫苑は毒でも入ってるのではと言わんばかりの怪訝そうな顔で湯呑みをじっと見つめる。自分の心のざわめきは、あまりにも小さすぎて彼自身も気づかない。書物を読む手はもう完全に止まっていた。
「……余計な……お世話だ…。」
そうぽつりと呟くと、彼は湯呑みにそっと口をつけた。




