第3話九条天仁
それから数日たったある日の朝、九条家は騒ついていた。当主、九条天仁が帰還したのだ。程なくして、一人の下女が襖越しに紫苑に声をかける。
「紫苑様、天仁様がお呼びです。」
「あぁ。」
鉛のように重たい身体を持ち上げ、従者を引き連れ部屋を後にする。天仁の元へ向かう紫苑は自身の手先が少しずつ冷たくなっていくのを感じた。
父・九条天仁は、この広大で活気溢れる九条領の絶対的統治者だ。しかしこの家に帰ってくることは滅多になく、一体どこで何をしているのか紫苑ですら把握はしていない。ただ一つ確実に言えることは、九条天仁こそがこの箱庭(九条家)の真の支配者であるということだ。
紫苑は天仁の部屋の前まで来ると襖の前で跪坐をし、大きく深呼吸をした。
「父上、紫苑です。お入りしてもよろしいでしょうか。」
「ふ…、やっと来たか。入れ。」
腹の底に響くような低い声が中から聞こえる。紫苑は震える手で襖を開け、「失礼します」と平伏し部屋へ足を踏み入れる。
そこには紫苑に比べて逞しくがしっとした身体、男らしい短髪に髭を蓄えた男が大勢の妾を従えて座っていた。その男の蛇のように鋭い眼と妾達のじっとりとした眼に絡まれ、紫苑は居心地が悪く吐きそうになる。
「お帰りなさいませ、父上」
「えらく遅い出迎えだな、紫苑。」
「申し訳ございません。」いつものあの冷徹かつ傲慢な態度とは似ても似つかない様子で天仁に対して平伏し続ける。
「私がいない間、何も無かったか。」
「はい。」
「そうか…。」
「……。」
「……。」
あまりにも重たすぎる沈黙のあと、天仁が口を開く。
「紫苑、そろそろ妻を娶る気はないか。」
「…っ。」
紫苑の顔が曇る。その僅かな表情の変化を天仁という男は見逃さない。まるで小さい子猫を甚振る如く、意地悪そうに天仁は笑う。しかしその眼は笑っていない。
「ふっ、俺の妾をお前にあてがってやろうか。」
「なぁ。」といながら近くにいた妾の頬をいやらしく撫でる。女はうっとりとした顔で体をくねらせた。
「(反吐が出る。)」
紫苑は心の中で呟いた。その呟きが聞こえたかのように、天仁は威圧的な声で続ける。
「ふっ…それとも、まだ牡丹がいいのか。」
紫苑の心臓が大きく嫌な音を立てて脈打ち、返事が出来ずに黙り込む。天仁は嘲笑うように話す。
「十年も同じ女の尻を追いかけて…めそめそと女々しい奴だ。馬鹿馬鹿しい、あんな売女のどこがいい。」
“___売女”その言葉に紫苑の心は大きく掻き乱される。目の前の畳を睨みつけ、屈辱と怒りで身体が震える。感情を押し殺すために噛み締めた唇からじわっと鉄の味が滲んだ。
しかし、絶対的支配者を目の前にして紫苑は言い返す事が出来ずただ耐えることしか出来なかった。
その日の武術稽古。紫苑は今朝方の鬱憤を晴らすように刀を振るった。その瞳はまだ怒りに震えている。
「紫苑様、切っ先が荒いです。もう少し丁寧に振るわなければ押し負けますよ。」
「黙れ!!」
指南役の男の指摘も耳に届かず一心不乱に刀を振るう様はまるで獣だ。
___売女。
天仁に言われた言葉が頭の中で反響する。その度に紫苑は冷静では居られなくなる。
「(牡丹は売女じゃない、俺の大切な___!!)」
「紫苑様っ!」
「うるさい!!」
力任せに振るった一撃が指南役の刀を弾き飛ばし、カランッと音を立てて地面に落とす。指南役は引き攣った顔で尻もちをついた。ゆっくりと指南役の男の首元に刀をあてた。激しく肩を上下させるが、表情は冷えきっている。
「なあ、誰が押し負けるって?」
「ひっ…。」
「今日はもう終わりだ。気分が悪い、帰れ。」
紫苑は吐き捨てるようにそう言うと刀を乱暴に収めた。




