第25話 知らない街
「では、良い話とやらを聞かせて貰おうか。」
指南役に木刀を渡しながら、今度は紫苑が馬鹿にしたような口調で言った。
椋はバツが悪そうにははは。と笑う。
「別に今教えるなんて言ってないよ。…また今度ゆっくりとね。」
「…ふん、別にお前の戯言なんてどうでもいい。どうせ大した話じゃないだろ。」
椋に背を向け、興味ないといった様子で歩いていく紫苑。
陽葵は居てもたってもいられないといった様子で彼の元へ駆け寄り、手に握りしめていた手拭いを差し出す。
「紫苑様。これを。」
「…なんだこの汚い手拭いは。」
手拭いを受け取った瞬間、紫苑の顔が曇る。本来なら冷たく水に濡れているはずのそれは、陽葵が目一杯握りしめていたせいで変に生暖かくそしてぐちゃぐちゃになっている。その手拭い越しに伝わる熱を紫苑は敏感に感じ取った。
「あ、申し訳ございません!!…すぐ新しい物を__!」
「はあ、もういい。」
そう言うと、紫苑はその手拭いで乱雑に自分の汗を拭った。椋に執拗に狙われた彼の右手は少しだけ赤くなっていることに陽葵が気づく。
「紫苑様、部屋に戻って傷の手当てを致しましょう。」
「別に大したことない。クソ親父の時に比べたら…。」
「駄目です。…それに口元にも傷が。」
「ああ、もう煩いな。…チッ、お節介女め。」
陽葵に背中を押される形で、心底面倒くさそうな顔をしながら自室へ渋々足を運ぶ紫苑。
陽葵が冷えた手拭いや薬を抱えて紫苑の部屋へ向かうと、彼は窓枠に座り街の景色を眺めていた。気持ちのいい暖かな春風が午後の穏やかな時間が流れる部屋に入り込む。
「遅い。」
先程まで穏やかな顔で街を見ていた紫苑の顔が、陽葵を見て少し眉を寄せる。早くしろと言わんばかりに彼は自分の右手を差し出した。
治りかけていた青紫色の薄い痣の上に再び重ねるように赤色の木刀の痕がくっきりとついている。
「先程の手合わせ、手に汗握りました。」
そう話しながら、紫苑の手に新しい冷えた手拭いを乗せる。手の甲は激しく熱を帯びているが、彼の少し角ばったしなやかな手先は氷のように冷え切っている。
「…お前、失礼だな。俺が負けると思ったのか。」
陽葵の頭上からチッと舌打ちが降ってくる。彼女は彼の手の甲に薄く軟膏を伸ばす。薬品独特の香りが二人の間に漂う。
「私の運命もかかっている手合わせでしたので。…感謝しています。」
少し悪戯っぽく笑いながら陽葵は紫苑を見上げると、彼も陽葵を見下ろしていたようで彼の瞳とぶつかる。漆黒のその瞳は、ぶつかったことを隠すかのように微かに揺らぐ。彼の右手も同じように揺らいだ。紫苑は窓の外へ視線を逃し、鼻で笑った。
「…ふん。彼奴の従者、お前より鈍臭そうだったし。…また代わりを見つけるのが面倒だっただけだ。……まだか、早くしろ。」
「もう少しでございます。」
布を手際よく彼の手に巻いていき、解けないようにぎゅっと結ぶ。紫苑は顔を少し痛そうに歪めたが、文句の言葉は出なかった。彼の目線は依然として窓の外を見ている。
陽葵が手を離すと、その手は力なくだらんと垂れ下がる。
窓の外では鳥が心地よい歌声を奏で、子供がコロコロと笑いながら駆けていく賑やかな声。街の喧騒が聞こえてくる。穏やかな静寂が支配した部屋で陽葵は紫苑と同様にその音に耳を傾けていた。
「俺は、この街を知らない。」
紫苑はこの静寂にポツリと言葉を落とす。彼の目は外で自由に飛ぶ鳥を追っていた。
「街を…知らない…ですか?」
意味を問うように復唱する陽葵に、紫苑は小さく頷いた。
「出たことがないんだ、この屋敷から一歩も。…俺の記憶している限りでは。」
陽葵は静かに彼の独白に耳を傾ける。紫苑は、空から街ゆく人達に視線を下ろした。
「単純に興味がなかった。将来、自分が治める土地で誰がどんな生活をしているのか。…俺の“興味”は、美しく見えるものはたった一つ。許嫁が遺した簪だけだった。」
そう言うと彼は髪に挿さった牡丹の簪をすっと抜き、昼下がりの太陽にかざした。ガラス細工のその冷たい花は、その暖かな太陽の光を屈折させて陽葵に小さな光の粒を落とす。彼女は眩しくて少しだけ目を細めた。
「…でも、桜の花も月も最近は美しく見える。…この街も美しく見える、眩しいくらいに。どうしてだろうな。」
「__では、外に出てみませんか。」
「はあ?馬鹿なのか。そんなこと___」
呆れた顔で紫苑は陽葵の顔を見た。
そんなことできる訳ないだろ。その言葉は彼の喉元まで来ていたが、発せられることなく留まった。陽葵の目があまりにも真っ直ぐ自分を見ていたからだ。こんなにも濁りなき眼差しで見つめられたのはいつぶりだろうか。
「とても大事な事だと思います。窓からの景色と自分の足で立って見る景色はきっと違います。良い意味でも悪い意味でも。」
「__良い意味でも悪い意味でもか。お前も少しはまともなことが言えるんだな。」
窓の外を眺めたまま小馬鹿にしたようにふっと優しい笑みを零す紫苑。初めて見る氷が溶けたような優しい彼の横顔に陽葵は自然と胸が高鳴った。
__こんな優しい顔で笑うんだ。
その顔をもっと見たい。純粋に思った彼女は続ける。
「街には美味しいものも沢山あります。お饅頭に羊羹に団子に…飴に…。」
「聞くだけで胸焼けがする、もういい。…お茶を淹れろ」
優しい顔はたちまちいつもの不機嫌そうに眉間に皺を寄せた顔に戻り、簪を髪に挿した。陽葵は心の中で肩を落としながら、立ち上がり厨に向かった。
一方その頃、椋は締め切られた薄暗い部屋で立ち込める甘い香の匂いにつつまれながら、従者の膝を枕にして横になっていた。
「ごめんね〜。お前を売りにだすようなこと言って。」
そう言いながら膝枕させている従者の膝を優しく撫でる。従者は不服そうに唇を尖らせるが、愛撫された太ももがくすぐったく、身を捩らせる。
「椋様、手当ての方はよろしいのでしょうか。」
「あ〜、いいよ。別に。」
心配そうな従者の声を気に留めることもなく、彼は懐から扇子を取り出しでぱたぱたと優雅に仰ぐ。顔は笑顔であるが、心の中にはドス黒い感情が渦巻いて止まらない。
陽葵は自分の所有物であるのに、頑なに渡そうとしない紫苑の態度が気に食わない。
ついでに自信のあった剣術に遅れをとったことも合わせて気に食わない。態度や表情に出さないものの嫌悪で彼の瞳は酷く濁っている。目を瞑ると鮮明に蘇る、彼奴の自分を挫かんとする強い眼差し。
___嫌がらせも甚だしい。九条がどれだけ漆間の恩恵を受けていると思ってんの。
「ほんと、ムカつく……彼奴。」
椋は吐き捨てるように呟くと、無造作に髪を掻き上げた。従者はその乱れた黒髪を優しく撫でて整える。苛立ち冷めない彼は従者とお香の匂いを肺の奥まで吸い込み、深く重いため息をついた。




