第21話 妾(めかけ)
紫苑は自室に着くや否や乱暴に髪をぐしゃぐしゃに掻き上げると押し殺したような唸り声を上げる。
「ああ、なんだあの人の神経を逆撫でるいけ好かない奴は…!!」
思い返せば返すほど苛立ちは後から押し寄せる。牡丹の簪を小馬鹿にされたことが何より腹が立って仕方がない。彼が漆間の息子ではなく、ただの道端にいる輩なら迷わず刀で斬りかかっていただろう。紫苑は奥歯をこれでもかと噛み締める。
___あいつとしばらく生活を共になんて冗談にも程がある。
「お前、彼奴の従者だったんだな。」
そういえば、というように紫苑の目がするどく陽葵を射抜く。先ほどの中庭でのあの憂いある横顔には程遠い疑心に満ちた表情に陽葵は生唾を飲み込む。
「はい、初めこの屋敷に来た時申し上げようとしたのですが…、時期を逃してしまい。」
「ふん。別にどうでもいいけど。」
言葉ではそう言いつつもあからさまに不服そうな紫苑。文机にどかっと腰を下ろすと煙管に火を灯す。先からはゆらゆらと煙が立ち上り、たちまち部屋は微かに甘い匂いが立ちこめた。その甘くまとわりつく香りが先ほどの椋の態度を連想させ、彼は眉を顰める。彼はため息をつくようにはあ。と煙を吐き出した。
「____で、なんでやめた。」
「え、それは…。」
陽葵はその核心に触れてこようとする質問に目が泳ぐ。紫苑の顔が見ることができずに畳をジッっと見つめてしまう。答えられない時間が続くほど、紫苑の方からは早く言えという無言の圧を感じ、口を開くことができない。言うべきか言わぬべきか、甘い匂いが立ち込める部屋の中で陽葵は頭が痛くなってくる。
まるで、大きな猫に部屋の隅に追いやられた鼠のように睨まれ続けることおよそ数分。
沈黙と圧力に押しつぶされる寸前で陽葵その重たい口を開く。
「あの…おかしな話と思われますが、椋様が…その…私を、めっ妾にしようとされて。」
「は?」
紫苑は耳を疑わざるおをえないような彼女の告白に危うく煙管を落としそうになる。
「お断りしてたんですが、躍起になられてるのか…その後もお勤めも疎かにされて…。旦那様が見かねて、辞めてくれと打診されまして…。」
「なんだ、彼奴に毒でも盛り損ねたとかそんな類の話じゃないのか。」
「そんなこと、私は致しません!」
どうでもいい。と再び空を見つめ、煙管を吸う紫苑。言葉とは裏腹に心は大きく動揺していた。
__妾。その言葉が、紫苑の頭の中に重く響く。彼がこの世で最も嫌悪する言葉だ。
牡丹というたった一人の許嫁を愛し、求めてきた彼にとってその不誠実極まりない言葉は毒物そのものだ。
(___こいつがあの男の妾に…?)
何故だろう、そう考えると紫苑の心の中にドス黒い負の感情が広がった。それを具現化するかの如く彼の口からは甘い煙が漏れる。胸がざわついて落ち着かない、先ほどの椋が陽葵に近寄った時と同じ感情。この名前の分からない気持ちを問いかけるようにふっと彼は自身の胸に手を当てる。
「紫苑様、いかがなされました。…具合が優れませんか。」
「ああ、あの軽佻浮薄な男のせいでな。」
彼は違和感をその胸の奥に追いやった。
椋は通された客間で優雅に扇子を広げ、鎮座していた。従者達は長旅をした彼を労うように彼の肩や腕を揉みほぐしている。冷たく冷え切った紫苑の部屋とは対照的に椋の部屋は嫌に生暖かい。
「ねぇ、お前たち、どうだった?〝牡丹の君〟。」
妖艶な笑みを浮かべながら、一人の従者の頬を優しく撫でる。従者はほんのりと頬を赤らめながら、恥じらうように身を捩った。その様子を見て彼は満足げに微笑む。
「あんな陰険な男より、僕みたいに優しくて朗らかで聡明な奴の方がいいよねぇ。」
「そうでございますね、椋様。」
彼の手元にことんと湯呑みが置かれる。湯気がゆらゆらとたちのぼり、豊満な緑茶の香りが椋の鼻を掠めた。ありがとう、とお茶を淹れた従者の頭を撫でる。湯呑みに口をつけると、淹れたての温かいお茶が彼の冷たい体の中を流れていく。
椋は、運命の再会を果たした陽葵のことを思い出す。手に取った湯呑みを愛おしそうに撫でながら、自分と目が合った時のあの驚いた顔を思い出す。その度に彼の口元は、普段とは違う優しい笑みをこぼす。
「…時に、椋様。」
「ん、なぁに?」
「先ほどの、あの陽葵という従者。どういった方なんですか。」
従者の問いにうーん。としばらく考えたあと、屈託のない笑みを浮かべて言った。
「___僕の将来のお嫁さんの一人…かな。」
その笑みはあまりにも残酷で、天仁とは違う雰囲気を纏ったしかしそれは彼と同様の〝支配者n〟の顔そのものだった。




