第18話 初仕事
早朝、陽葵は日が昇るより早く目を覚ます。新しく綺麗で上質な着物に手を通し、身支度を整えると急いで紫苑の自室に向かう。昨晩の夜更かしのせいで瞼はまるで鉛のように重い、寝不足の状態で従者初日が幕を開けた。
「紫苑様、お目覚めの時間でございます。」
「ああ、起きている。」
襖を開けると、紫苑は身支度もすませ、自室の窓枠に腰掛けてぼんやりと外を眺めていた。窓から差し込む日の出が彼を照らし、まるで浮世離れした絵画のように見える。彼の黒い髪から覗く牡丹の簪が幻想的な輝きを見せて揺れている。
陽葵は紫苑の肩に羽織りをかけ、彼の手元に湯呑みを置く。紫苑は毒でも入っているのかと言わんばかりに怪訝そうな目で湯呑みを見つめた。
「なんだ、これは。」
「朝は冷え込みますので、お茶お淹れしました。」
どれだけ凍える冬の日であっても、何も命令せずともこうして温かいお茶を自分に淹れてくれる従者は誰一人として居なかった。
__お節介も裏返せば気が利くってやつか。
「あそ…。」
紫苑は短い返事を一つし、両手で温かい湯呑みを包み込むように持つとそっと口を付ける。春の冷たい空気で冷やされた身体がじんわりと中から温まる。
「直ぐに朝ご飯の用意いたします。」
「ん…。」
紫苑の自室を後にし、急ぎ足で厨の方へ向かうと、雑巾と桶を持った日花と遭遇する。
「陽葵…!」
「日花さん…!!」
「聞いたよ!紫苑様の従者になったって…!大丈夫なの?」
日花は心配そうな顔で陽葵を見る。それもそうだ。紫苑は従者をひと月と経たずに追い出す暴君として有名なのだ、彼の従者になったということはひと月後には路頭に迷っている可能性があるということを意味する。
「大丈夫です。日花さん私頑張ります!紫苑様に辞めろと言われても足にしがみついて抵抗してやります!」
「ふふっ…もう、陽葵ったら。」
陽葵は日花の心配を拭うようににっこりと明るい笑顔を見せる。そんな陽葵に少しだけ日花も安堵の表情を浮かべた。
領主の息子は暇ではない。朝食を摂り終えたら師を招いて学問を行う。紫苑と共に書庫へ行き必要な書物を準備し、書き物に必要な道具を揃える。
「あそこの書物を取れ。」
「はい!」
「遅いぞ、早くしろ。」
「申し訳ありません!」
陽葵の手に次から次へと必要な書物を容赦なく無造作に積んでいく。夜のしっとりとした雰囲気とは違い、陽の当たる時刻の書庫はいつもより殺伐として陽葵の目にうつる。ずっしりと重たい書物を抱え、自室へと運んでいく。そんな陽葵に歩幅を合わせる事などするはずもなく、ずんずん彼は先へ進んでいく。
「遅い、何度も言わせるな。」
「はい。」
彼の調子に必死にくらいつく陽葵。一日着いて回るだけでも十分に骨が折れそうだが、まだ半日も経っていないという絶望が彼女の肩に書物より重くのしかかる。
「おい、お前。学んでいる間にこれの手入れをしておけ。」
自室に着き、綺麗に書物を積み上げたかと思えば、次は自身の腰に差している刀を投げつけてきた。少し息抜き出来ると思ったのだが、やはりそうは問屋が卸さないと言ったところか。
「返事。」
「はっはい!」
紫苑が勉学に勤しむ間に、風通しのいい部屋で研石の粉(打粉)をぽんぽんと刀に慎重に叩きつけていく。誤って手を切ったりしようものなら明日の命すらないだろう。
遠くからは他の使用人達の笑い声が聞こえる。羨ましい、私もみんなとお話しながら仕事したい…。そんな思いを頭の隅に追いやりながら、冷たい鋼と向き合い丁寧に作業を進めていく。
油を刀全体に薄くムラなく塗り広げていく。使い込まれて所々細かな傷が見えた刀も紫苑が戻る頃にはまるで新しいものかのように綺麗になっていた。
流石の陽葵もこればかりは大きな達成感が得られ、紫苑に満面の笑みで刀を渡す。
「紫苑様、どうですか!綺麗になりました!」
「……あそ。」
紫苑はその弾けんばかりの笑顔を見ると、表情を変えずに目線を逸らす。心做しか、その視線は泳いでいる。それを隠すかのように紫苑は刀をやや乱暴に受け取った。
紫苑は受け取った刀をすっと抜くと、検品するかのごとく刀を隅々まで見る。鋼の刃は光をぎらりと力強く反射させている。持った時の感触も手入れ前に比べてほんの僅かに軽く感じる。紫苑はふんと鼻を鳴らし少しだけ満足そうな表情を浮かべ、刀を鞘に収めた。
「少し休む、茶を入れろ。」
陽葵がお茶を運び、紫苑の自室へ戻ると彼は煙管をくゆらせ、家臣達から届き山積みにされた手紙に目を通していた。煙管の先から燻る煙の甘い香りが部屋に漂い、陽葵の鼻を掠める。
「紫苑様、お茶とお茶菓子お持ちしました。」
陽葵はお茶とお茶菓子である桜餅をそっと彼の文机に置いた。紫苑はちらりとそれらを一瞥すると、また手紙に目をやる。休憩すると言いながらもやはり領主の息子はそのような息付く暇はないらしい。
「茶菓子なんか頼んでないぞ。」
「お疲れかと思い、勝手ですが甘いものを用意させていただきました。」
__お節介め。
今日幾度となく思ったことではあるが、彼の中にそれが不愉快だという感情は自然と湧いては来なかった。しかし、その事に紫苑自身も気づいてはいない。
「紙と筆を取れ。」
「はい。」
紫苑は煙管の灰をたたき落とすと紙を広げ、手紙に対しての返書をしたため出す。昨日の手当の甲斐あってか昨晩より腫れは引いているが、まだ少し痛むのだろういつもは滑らかに筆か紙の上で踊るのだが今日は少しぎこちない。
紫苑は上手く手を使えない苛立ちから顔を顰め、舌打ちをした。
「紫苑様、私が代筆を…。」
「いらん。読めない字を書いて送っても仕方ない。」
先程よりさらに顔を顰め、不機嫌そうに言い放つ。
__そんな言い方しなくても…。それにその手の手当てしたの私なんですが。
という一抹の不満を陽葵はぐっと飲み込むと、筆を動かす紫苑の背中をしばらく眺めていた。
山のように折り重なっている手紙もあと一通となった。陽の光は傾き、もうそろそろ夕暮れ時に差しかかろうとしている。ふいに紫苑が口を開く。
「…お前、従者の経験があるのか。」
「え…?なぜ…そのように思ったのですか。」
その質問に陽葵の心臓がドクンと跳ねる。明らかな動揺を見せる陽葵に気づいた紫苑は筆を止めて振り返る。牡丹の簪が小さく金属音を立てて揺れている。
「朝から思っていた。初めてにしては手際が良い。大抵の奴は初日で辞めさせてる。」
「えっと…」
天仁の息子だと言わんばかりの洞察力を前に、陽葵は言葉を探して空に目を泳がせる。その様子が少し癪に触ったのか、紫苑は鋭く威圧的な視線を無言という名の圧力とともに陽葵に送る。
ほんの数瞬の沈黙の後、おそるおそる陽葵は口を開いた。
「じ、実は、ここで勤める前は別のところで従者をしておりました。」
「ふーん、あそ。」
「どこで。」「なんで辞めた。」そんな問いが飛んでくるのではと身構えた陽葵だったが、紫苑はそんなに関心はなかったみたいで自分の予想通りの答えに満足したのか、机に向き直り最後の手紙を手に取った。
陽葵がほっと胸を撫で下ろしたことに紫苑は気づかなかった。
一方の紫苑は、最後の手紙を開くと舌打ちをした。
「おい、父上はまだ屋敷に居るのか。」
「いえ、昼頃に出られたと聞いております。」
重たいため息が紫苑の口から漏れた。紫苑の目が手紙の文字を追っていくが、徐々に顔色は険しくなり読み終わる頃には苛立ちを抑えることが出来ずに手に力が籠ったのか、紙がくしゃりと音をたてて歪む。
「__ったく。こんな急に…。」
「どうかされましたか。」
「黙れ。」
紫苑は不機嫌そうに手紙を睨みつけた。その文面には『以前からお話していた件。不肖の息子を修行のため、貴殿で預からせていただく話だが、明くる七日に迫った為改めてご挨拶を……。』とあった。きっと天仁が勝手に話を進めていたのだろう、そんな話は聞いてはいない。
「寝耳に水にも程がある…!」
しかもあと七日という最悪の期限付きだ。宛名を見返す。そこには昔から天仁が良くしている隣の領主〝漆間〟の文字と刻印。
「(くそ、漆間の狸親父め…。俺の親父と何企んでやがる……!)」
陽葵に手紙の内容は見えなかったが、彼女の身体に何やら言い表すことの出来ない悪寒が駆け巡った。




