第17話従者
「…そこにいるのは誰だ。」
暗闇を切り裂くような冷たい声が襖の奥から聞こえる。陽葵の身体が本能的に小さく震えた。
紫苑は陽葵の口から手を離して彼女から距離を取ると、意を決した様子で生唾をゴクリと飲み込んで口を開いた。
「…私です。父上。」
荒々しく蹴散らされるように襖が開く、そこには寝巻き姿の天仁と後ろには妾が一人立っている。灯に照らされて煌々と輝く天仁はまるで闇夜に浮かぶ怪物のように陽葵の目には映った。
書庫に足を踏み入れる天仁。陽葵の姿に気がつくと、嫌悪感だけが込められた凍てつくような目で彼女を一瞥すると、嫌らしく口角を吊り上げる。
「ふん、紫苑。お前もこんな所で物好きだな。こんな薄汚い女と。」
「…何の話ですか。…字の練習をしておりました。」
「ほう…字の?」
天仁は訝しげに紫苑と陽葵、そして文机に散らばっている拙い字が書かれた紙をねっとりと絡みつくように見比べる。紫苑は少し早口になりながら続ける。
「あの昼間の手合わせで利き手が少し不自由になってしまったので、反対の手で書き物ができるようにと練習を…。丁度行灯も消えてしまったみたいですね…。」
紫苑は機転の利いた誤魔化しを勢いに任せて言い切ると、陽葵に「行灯に火をともせ」と目で合図を送る。陽葵は弾かれたように慌てて行灯に火を灯した。明るい光が書庫を包むが、そこに暖かみは感じられなかった。
天仁は自分のせいで負傷した息子の手を労るような素振りは一切見せず、鼻で笑う。全てを見透かすその瞳は紫苑の心の奥底に無理やりにでも手を突っ込んできそうなほど鋭い。
「ふん…。遂に私に嘘をつくようになったのか、紫苑。」
「う、嘘…ですか。」
少しだけ紫苑の声が揺らぐ。
「薄汚い下人の着物。九条家の従者の装いでは無いだろ。…もう一度聞く。従者でもないただの下人と夜更けの書庫で一体何をしていたんだ。」
緊張が書庫に走る。陽葵は緊張と恐怖で脈が早くなっていく。天仁はその嫌らしく吊り上がった口角の隙間から歯を覗かせ、獲物を追い詰めた獣のように笑っている。一瞬の沈黙が何時間にも感じられ、天仁のその威圧的な姿に陽葵はもう「私が字を教えて貰っていました」と言ってしまおうと意を決した時だ。
紫苑は淡々と口を開く、何食わぬいつもの顔で。
「…この者は確かに下女ですが、明日から私に仕える従者として働かせる予定です。生憎、今従者が居ないので字の練習中の世話をさせていました。…いけませんか。」
淀みなく、真っ赤な嘘でその場を綺麗に塗り固めていく紫苑。その様子を射抜かんとばかりに観察する天仁。睨み合う瞳には今にも火花が散りだしそうな勢いでぶつかっている。
「…負け犬めが。…よく喋るようになったものだ。」
意志を曲げない真っ直ぐな瞳に根負けしたのか、天仁は吐き捨てるようにそう言うと乱暴に襖をあけて書庫から出ていく。
みしみしと彼が床を踏み鳴らす音が聞こえなくなった瞬間、霧が晴れるかのように緊張感が一気に溶け、再び暖かい行灯の光が部屋を包み込んだ。紫苑も同じようにため息と共に肩の力を抜いた。
「……まるで災厄だな、あのクソ親父。」
先程の服従した態度は何処へやら、不遜極まりない態度へと変貌した紫苑はチッと短く舌打ちをした。
紫苑の胸は嫌な緊張感でまだ脈打っている。正直出まかせも甚だしすぎて、バレるのではと冷や冷やした。別にこの下女と疚しい色恋の情や関係なんてものは微塵もないが、実際に天仁の前で説明するとなると少し難しいと紫苑は思った。
先程まで湯気がたっていた湯呑みも先程の冷戦のおかげですっかり冷めてしまっている。紫苑はそれをぐいと飲み干した。
「お茶、淹れ直しますね。」
陽葵は湯のみに柚子茶を継ぎ足しながら、言葉を続ける。
「私を従者にという機転の利いた誤魔化し…流石でした。」
「ああ、あれは事実だ。」
「え?」
優雅に湯のみに口を付ける紫苑の隣で陽葵の時が止まる。状況を理解できず、急須を持ったまま固まる彼女を気にかけることもなく紫苑は続ける。
「まあ、従者が全員居なくなったところだ。丁度〝補充〟が必要だったからな。」
〝補充〟その人を人とまるで思っていないかのような発言をする紫苑。
そこに拒否権はあるのだろうか__。平和な下女生活ががらがらと背後で音を立てて崩れていく音が陽葵に聞こえたような気がした。
「あ、あのー…。」
「なに、文句あんの。」
「い、いえ…。」
「あそ、俺もう寝るから。」
折角淹れた柚子茶を半分と飲まず紫苑は立ち上がる。襖の前までくると陽葵の方を振り向き、不機嫌そうないつもの〝牡丹の君〟の顔で言った。
「明日、一刻でも遅れてみろ。容赦なく屋敷から叩きだしてやる。貧乏だろうが何だろうがお前の生活など俺は知らんからな。」
はい。と返事する前に乱暴に襖をあけてスタスタと歩いていく。先日陽葵は彼の事を心暖かい情に溢れた人間だと言ったが、心底撤回したい気持ちになった。
明日から紫苑の元で明日をも知れぬ綱渡りのような生活を強いられるのだと思うと、天仁と対峙した時よりも何か冷たいものが彼女の肌を駆け巡るような気がした。




