第16話 近づく影
「陽葵、聞いた?紫苑様と天仁様…。」
陽葵が厨で夕飯の支度の手伝いをしている時だ。日花が血相を変えて入ってくる。
「どうしたんですか?日花さん。」
「どうしたもこうしたも…!中庭大変な騒ぎだったんだからね!」
日花の騒いでいる様子に気づいた下男下女、料理人達が集まる。日花は先程の天仁と紫苑の手合わせを影で見ていた者たちの一人だったようだ。話の詳細を聞いた陽葵は不安げに聞く。
「それで、紫苑様は…大丈夫なんですか?」
「分からないけど、相当怒ってたわ…。」
日花は大きく身震いする。従者が居なくなった紫苑へ誰が夕食を持っていくかで厨内が慌しくなるなか、誰も陽葵の心配を汲み取る者はいなかった。
夜が更け、いつものように陽葵は書庫へ向かった。結局紫苑の姿を日中だれも見ることはなく、夕食を配膳した下女の話を聞くとほとんど手をつけられていなかったらしい。
氷に閉ざされた心の奥底を知ってしまった陽葵だからこそ、木刀で滅多打ちにされた身体以上に紫苑の心中が心配だった。
書庫まで来るが、案の定灯りがついているはずもない。襖を開けるといつも以上にがらんと寂しげな書庫が彼女を出迎える。
「はぁ…やっぱり居ないかあ。」
小さな独り言がやけに大きく響く。
ひんやりとした書庫に足を踏み入れ、行灯に火を灯す。
慣れない手つきで硯に墨を磨り、いつものように紙に筆を動かす。簡単な文字はある程度上達してきてはいるが、〝陽葵〟や〝紫苑〟のように画数の多い文字はまだまだ字と言うには少し程遠い。紫苑の書いた手本を並べて、陽葵は小さくため息を着いた。
静かに書庫の夜は更けていく。いつもは隣で口うるさい先生がいるが、今日は不在の為なのか心做しかゆっくり時が流れていくように感じる。
「(もうきっと寝ているんだろうな。)」
そんな事を考えながら黙々と筆を走らせている時だった。静かに書庫の襖が開き、月明かりに照らされて伸びる一つの長い影。陽葵はそれに気づいて顔をあげる。
「…紫苑様!」
そこには少し決まりが悪そうに立っている紫苑が居た。目が合うと彼の眉間にいつものように皺が寄る。
「…幽霊を見るような顔をするな。主に失礼だ、馬鹿め。」
彼の口から零れるいつもの悪態に陽葵は少しだけほっとする。
「今日はお休みになられたのかと…」
「…別に。」
__苛立ちで眠れなかった。
その言葉を紫苑は飲み込んだ。
ふと、陽葵は紫苑の右手に目をやった。天仁に木刀で殴られた時にできたものであろう痣は赤黒く変色し、痛々しいほどに腫れている。紫苑は陽葵の視線に気づき、平静を装いながら、手を背後に隠す。
「…お茶を淹れてまいります!」
陽葵は紫苑をいつもの席へ座らせ、拒絶する言葉を吐こうとする彼より早く書庫を飛び出した。
戻ってきた陽葵は、紫苑の前にことんと暖かい湯呑みを置いた。それはいつもの生姜の入った鋭い香りではなく、爽やかで甘く優しい匂いが漂っている。
「本日は、柚子茶です。甘くて美味しいですよ。」
「ふん。」
紫苑は左手で湯呑みを掴み、口に運ぶ。味の感想は返ってこないが、文句を言わないということは不味くはないということであろう。
「あの、紫苑様…。」
「何。」
「少し、失礼しますね。」
「なっ……!おい、お前っ!」
__やめろ!
と叫ぶ前に陽葵が紫苑の腫れて熱を持つ手を取り、冷水に浸した手拭いを当てる。ひんやりとした感触が心地よく、手を引こうとしていた事を忘れる。
心配そうに手の甲を見つめる陽葵。何故だろうか、あの中庭にいた下男下女達と哀れんだ眼をしているはずなのに嫌な気持ちが不思議と湧いてこなかった。冷やされている手とは裏腹に、心に何か少しだけ暖かいものが流れ込んでくる感覚がする。
「いっ…!…加減も知らんのか!」
「申し訳ありません。」
痛みで顔を歪めて文句を言う紫苑に対し陽葵はこの手の甲の件について話をすること無く、淡々としかし優しく軟膏を塗り、布を巻き付けていく。
巻き終わると、紫苑は自身の右手をじっと見つめながら口を開く。
「ふん、大袈裟な。ここまでせずとも放っておけばすぐ治る。」
「では、大袈裟な治療をしたのでもっと早く治りますね。」
にっこりと嫌味な笑顔を向ける陽葵。それが面白くない紫苑は不機嫌そう鼻を鳴らし、そっぽを向いた。手の甲の熱は先程よりかは少しだけ引いたような気がした。
陽葵はふと、紫苑が夕食にほとんど手をつけていなかった事を思い出す。
「何か軽食お持ちしましょうか。」
「いらん。」
「ですが、何か食べた方が…。」
「だから、要らんといって____」
何かを察知したかのように、紫苑の動きがぴたりと止まる。陽葵は不審に思い、「どうされましたか。」と聞こうとした瞬間、紫苑は素早く近づき彼女の口を手で塞ぐ。
「__黙れ。」
小さく押し殺す声で紫苑は言う。紫苑は依然として〝何か〟を警戒しているかのように耳をそばだて、神経を研ぎ澄まし黙っている。その瞳は鋭い眼光は鋭い眼光を放ちながら襖のさらにその先を睨みつけている。陽葵は何が起きているのか分からず、ただ静かに口を閉じていた。
数秒その状態が続いた後、彼ははっと慌てたように行灯の蝋燭を音を立てずに指先で揉み消した。書庫からは光が奪われ、静寂と暗闇が一気に押し寄せる。紫苑から漏れでる謎の緊張感が陽葵の肌を突き刺すように伝播する。
その直後だった。
「そこに誰かいるのか。」
腹の底に響く低い冷たい声が聞こえた。
陽葵の心臓がどきりと脈打つ。襖の向こうに見える大きな人影。それは紛れもなく天仁だった。




