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牡丹の君  作者: おぴぴ
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第14話 腑抜け

一方の紫苑はその日の朝、自室で慌ただしく身支度をしていた。早朝に来た飛脚(ひきゃく)より天仁が今日未明に帰還すると伝達があったからだ。


「(なんだ、この胸のざわめきは…。)」


柚の残り香が彼の鼻の奥をくすぐっている。脳裏に焼き付くのは昨日のことだ。ざわめく胸元を落ち着かせるようにぎゅっと握り眼を閉じるが、浮かぶのはあの下女(陽葵)。


「(くそっ…。あの女め…。)」


自分の聖域を土足で侵されたような不快感とたかだだか下女一人に心を乱されている自分対する嫌悪。そして、夢見心地で行き場のない感覚が混ざり合い紫苑は顔を歪める。


ふと、鏡で自分の顔を見る。


ほんのわずかに口角の上がり、眉間にシワが寄った顔。腑抜けた男が目の前に見えた。


「くそっ!…くそがっ!」


頭をがしがしと搔き乱す。鏡の中の己を睨みつけるが、以前のような鋭さが感じられない。自分の瞳の奥の色が天仁と似ているように見え、嫌悪感が増大する。かと言って陽葵を拒絶したいという気にどうしてもなれない。その(じれ)ったさが彼の心を更にかき乱す。


「紫苑様、もうそろそろ天仁様が戻られるそうです。」


下女の声が襖の向こうから聞こえ、はっと我に帰る。慌てて髪を整え、頭に着いた牡丹の簪に触れると少しだけ気分が和らいだ気がした。


「…分かっている。」


深呼吸をし、意を決して立ち上がった。




式台玄関へ紫苑が着いた瞬間、外には大きな人影が見えガラリと戸が開けられた。すぐさま紫苑は平服する。


「お帰りなさいませ、父上。」


「ふん、今回は遅れなかったんだな。」


天仁の響く声は床を震わせ、彼の身体全体に伝播する。


「はい。」


紫音は顔をあげる。天仁は彼の髪に咲いている牡丹の花を見て、最大限の嫌悪の視線を送る。


__女々しい奴が。


彼のそう罵る声が今にも聞こえてきそうだ。


牡丹の簪からゆっくりと視線を紫苑の顔へとやる。流石は絶対権力者の領主だ、彼の表情のほんの少しの緩みを一切見逃しはしない。天仁は眉を顰める。


「紫苑、何か変わったことはなかったか。」


「いえ、特にありませんでした。」


紫苑は自分の心臓がいつもより早く音を刻んでいくのがわかった。天仁の全てを見透かしているかのような鋭い眼光が彼を捉え、それから逃れることができない。頭の中に浮かぶ一人の下女(陽葵)を必死に振り払おうとした時、天仁の背後で内門の掃除をしている陽葵が視界の隅に入る。紫苑の瞳に少しのざわめきがうつる。それをこの男(天仁)は見逃すはずない。


「もう一度聞く。〝変わったこと〟はなかったか。」


すごみのある、紫苑の心の奥底に無理やり手を突っ込まんとするような声。恐怖で紫苑は手先が痺れるような感覚に襲われるも間髪入れずに応える。


「いえ、ありません。」


「…ほう。」


そう言いながら、彼の頭の先からつま先まで息子を見つめているとは思えぬ愛情欠落した瞳で眺める。彼は蓄えた短い顎髭を撫でながら嘲笑混じりで続ける。


「ふ…それにしては、随分と腑抜けた(つら)だな。亡霊を10年も追いかけるとそんな腐った柿のような面になるのか。」


「(この…クソ親父がっ…。)」


彼の後ろに控えている妾たちは意地悪くクスクスと笑う。この屈辱的な状況を紫苑は奥歯で噛み締め、冷笑する。


「…春の訪れに惑わされたまやかしでは。私は何も変わってはいません。」


その頑なな返答ぶりに天仁は面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「ふん…まあいい。邪魔だ。いくぞ、お前たち。」


息子である紫苑を押しのけるようにし、妾を率いてずかずかと家の中へ入っていく。天仁が視線から外れた瞬間、一気に緊張の糸がぷつりと切れる。


ふぅ…。と小さく息をつくと心臓に手をやる。心臓は速く不協和音を奏でて立ててなっていた。





天仁が帰ってきたとて、日々こなす勉学と鍛錬の予定は変わらない。その日の午後、紫苑はいつものように指南役と中庭で鍛錬に勤しむ。


屋敷は天仁の帰還で慌ただしさを取り戻している。紫苑は自分の居場所がここにはないような気がしていつもより落ち着かない。鍛錬も上手くいかず、刀の振りに迷いが生じているようで指南役から指摘が入る。苛立ちと心労が彼に募っていく。


「…今日はもうこれくらい__」


「ふん…全くなってないな。」


そろそろ終わろうと刀をしまった時、後ろから冷たい声が降ってくる。振り返ると天仁が腕組をして馬鹿にするような表情で仁王立ちしている。指南役は飛び上がるように反応し、床に頭を擦り付けて平伏した。


「…父上。」


「…おい、木刀を一本持ってこい。手合わせしてやる。」


後ろをつく従者にそう言うと、天仁は中庭へ降りて近づいてくる。


手合わせ…聞こえは良いが紫苑を辱め、周りに自身の力を見せつけるつもりなのだろう。その魂胆が紫苑には嫌という程見え透いていて、それを天仁も隠そうとはしない。紫苑が真剣を握っているのに対し、自分は木刀という〝足枷〟をつける嫌らしい選択がこの男の在り方を物語っている。


__この外道め。


「ありがたき幸せに存じます、父上。」


紫苑は心にどす黒い感情を吐き出しながら深々と頭を下げる。


「さて、その腑抜けた(つら)を叩き斬ってやろう。」


従者から木刀を受け取った天仁は不敵な笑みを浮かべて言う。


紫苑はゆっくりと腰に挿した刀を抜いた。

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