第13話 距離
その日の晩、書物と墨汁の匂いな立ち込める書庫はいつもとは違う匂いに包まれていた。陽葵が昼間運んでいた柚子の香りを紫苑にも楽しんでもらおうと二つほど持ってきたのだ。
仲良さそうに二つ並ぶ柚子からは、昼間と変わらず爽やかで甘酸っぱい匂いを放っている。
「ふん…ミミズの這ったような字が、赤子か書いた字くらいにはなってきたんじゃないか。」
甘酸っぱい匂いとは裏腹に紫苑が変わらず嫌味たっぷりの言葉を吐く。しかし、その口調には今までの鋭さは感じられない。
「先生のおかげです。」
その嫌味を跳ね返すように負けじと陽葵は満面の笑みで応える。本来なら「黙れ。」などと嫌味を返すはずだか今夜はなぜだか返ってこない。それどころか紫苑は露骨に顔を背けこちらの顔を見ようともしない。
昨日の告白のせいだろうか、何故だか少し気まずい。
陽葵は肩を並べて座っている紫苑の体温を感じ、少しだけむず痒く感じる。そのむず痒さをなんとか打開すべく、陽葵は思考回路を巡らせる。
(そうだ…っ!)
閃いた陽葵は意気揚々と紙に筆を走らせる。
「どうですか、紫苑様。」
紫苑の顔がこちらを向くと、今日一番かというぐらい不快そうな顔をする。いつもの彼の顔だ。
「お前、馬鹿にしているのか。」
その紙には散らばった字形で〝紫苑様〟と書かれていた。
「日頃の感謝を込め、したためました。」
「いらん、ゴミ屑だ。ちり紙の方がまだマシだ…!」
「(流石に、そこまで言わなくても…。)」
練習は沢山してきたはずだが、ちり紙に敗北してしまうとは…と陽葵はがっくりと肩を落とす。
「……チッ。」
紫苑は居心地悪そうな顔て舌打ちをし、陽葵の方へすり寄り彼女の手から紙と筆を奪う。紫苑の着物の匂いが柚子の香りと混ざる。硯の上で筆先を整えると優しく紙に筆を下ろした。ゆっくりとそして筆が舞を舞うかのように滑らかに紙の上を滑っていく。
『紫苑』
ぐにゃりと曲がったよれた字の隣でこれ見よがしに並べられる品のある美しい字。
「素敵ですっ___」
「下手くそめ___」
お互いが紙から顔をあげ、視線が真っ直ぐぶつかる。
「___!!」
あと数センチで互いの鼻先がくっついてしまいそうなくらいに近い距離。目の前には整った紫苑の顔。
陽葵は紫苑の闇夜を溶かしたような黒い瞳に吸い込まれそうになり、呼吸を忘れそうになる。一方の紫苑は、一瞬だけ驚いたように目を見開くとその場を弾かれたように後ろへ飛び退いた。
「ぶ、無礼者がっ!」
「も、申し訳ございません。」
「…許可なく距離を詰める馬鹿がいるか、恥を知れ。」
紫苑は口元を手の甲で隠し、その視線を激しく泳がせながら声を荒らげる。前髪の隙間から覗く眉間は深く皺が寄り、その表情には焦燥と嫌悪が滲む。陽葵は失態による気恥しさから身体が熱を帯びるのを感じた。互いの心臓が激しく脈打つ。
紫苑は何かに耐えるような苦しげな表情で言葉を絞り出す。
「…今日はもう終いだ。…お前のせいで気分が悪い。」
逃げるように羽織を翻しながら、紫苑は書庫を出ていった。
「…びっくりした。」
夜の書庫に訪れる静寂に陽葵は一人呟く。その鼓動はまだ少し早い。部屋には甘酸っぱい柚子の香りと紫苑の着物の香りが優しく漂っていた。
次の日の朝、自室で陽葵は『紫苑』の紙を眺めていた。紫苑に見つかったら捨てろと怒られる光景が目に浮かぶ。
「(私もこれくらい綺麗に書けたらなあ。才色兼備なんだけどなあ…違うか、はは。)」
と、呑気なことを考えながら、懐に大事にしまった。
春風が少し暖かく感じるようになってきていた。陽葵は今日、大きな内門前の掃き掃除を任せられた。どこからやってきたのか、梅の花びらがはらはらと舞って彼女の手につく。遠くで鶯の鳴き声が聞こえ、春の訪れを喜んでいるようだ。
春の陽射しを存分に浴び、気持ちよく仕事をしている時だった。
「__邪魔だ。」
腹に響く氷よりも何よりも冷たい低い声が頭の上から降ってきた。紫苑と同じような人を突き放す言葉遣い。しかし、それは彼のものではないことは見なくてもわかった。
周りに咲き始めたばかりの菫や福寿草が怯えて萎んでいく。先程まで陽葵を包んでいた穏やかな春の陽射しはどこかへと姿を消す。その場がまるで凍てつく冬の大地へと変わっていくような感覚に陥った。
陽葵はゆっくりと振り返る。人を心こら見下すような蛇のような眼がこちらを睨みつけていた。
紫苑の父、九条天仁だ。
後ろには妾が二人、全身に絡みつくような視線を送ってくる。陽葵は背筋に冷たいものが走る。
「__邪魔だと言っている。」
もう一度繰り返されたその言葉に陽葵は慌てて弾かれたようにその場を退く。どうやら掃除に夢中になっていて内門の戸を塞いでいたらしい。そこに運悪く天仁が帰還したのだ。
下女(陽葵)を道端の物乞いを見るかのごとく激しい嫌悪の眼で睨みつけ、天仁は家の門をくぐる。後ろから着いてくる妾たちの甘ったるいお香の匂いが陽葵をなんとも言えない気持ちにさせる。
「(これが、紫苑様のお父様…。)」
颯爽と歩く彼の大きな背中は氷原の中で孤高を保つ血の通通わぬ狼のように見えた。




