第8話:聖職者の祈りと贖罪
雨で足を滑らせて崖から落ちた。
運良く(? )通りかかった神父に助けられ、私は小さな教会で手当てを受けていた。
古びたステンドグラス。色褪せた女神像。
雨音が静かに響く礼拝堂は、時間が止まったように静かだった。
(……ここ、覚えてる)
三百年前、新婚旅行の途中で立ち寄った教会だ。
あの時、私は「旅の無事」を女神様に祈った。
でも、カイゼルは祈らなかった。
「神になど祈らん。運命は俺が切り開く」
そう言って、彼は女神像を睨みつけていた。
あの時の彼の横顔は、自信に満ちているようで、どこか追い詰められているようにも見えた。
「……傷は浅いですね。すぐに治りますよ」
神父のエリアスが、包帯を巻き終えて微笑んだ。
穏やかな声。慈愛に満ちた瞳。
まさに聖職者の鑑のような人だ。
でも、彼が祭壇に向かって祈る背中は、ひどく小さく見えた。
まるで、許されない罪を背負っているかのように、震えていた。
「……神父様、何か悩み事?」
「……わかりますか?」
エリアスは苦笑した。
「私は、罪人なのです。……かつて、愛する人を救えなかった。神に祈ることしかできず、ただ彼女が死んでいくのを見ているだけだった」
彼の声が震える。
「だから私は、こうして旅人を助けているのです。……罪滅ぼしのために。でも、いくら善行を積んでも、あの日の後悔は消えない」
胸が痛んだ。
救えなかった後悔。
それは、カイゼルも抱えているのだろうか。
もし彼が、私を「裏切った」のではなく「救えなかった」のだとしたら?
……いいえ、そんなはずはない。彼は自分の意志で私を封印したのだから。
「……過去は変えられないわ。でも、今助けた命は本物よ」
「ええ。……貴女のような優しい方に会えて、救われました」
エリアスは私の手を取り、涙ぐんだ。
その手は温かかった。
でも、私にはその温もりが、どこか空虚に感じられた。
彼は私を見ているようで、見ていない。
彼が見ているのは、過去の「死んだ恋人」だけだ。
†
「暗い! 暗すぎるぞおおおお!」
ドガン! と懺悔室の扉が吹き飛び、龍神が転がり出てきた。
いつの間に懺悔していたのよ。
「過去の女になどこだわって何になる! 男なら新しい恋を探さんか! 前を見ろ前を!」
「り、龍神様……! ?」
エリアスが腰を抜かす。
龍神は彼の胸ぐら(法衣)を掴み上げ、鼻息荒く説教を始めた。
「お主がウジウジしておる間に、アリアは次の男を探しておるぞ! 見習えこの切り替えの早さを!」
「ちょ、余計なこと言わないでよ!」
私は顔を赤くして抗議した。
でも、龍神の言葉は、エリアスの心に突き刺さったようだった。
「……そうですね。死んだ彼女も、私が泣いてばかりいることを望まないでしょう」
エリアスは憑き物が落ちたような顔をした。
そして、私に向き直る。
「アリアさん。……貴女の強さに、心を打たれました。もしよろしければ、私と共に……」
プロポーズの予感。
優しい神父様との、穏やかな日々。
それはきっと、幸せな未来だ。
でも。
「……ごめんなさい」
私は首を振った。
「私、まだ過去を捨てきれてないの。……あんたと同じよ」
エリアスは驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「……そうですか。では、お互いに祈りましょう。いつか、過去を許せる日が来ることを」
†
雨が上がった。
教会の外に出ると、木陰にカイゼルが立っていた。
彼は濡れた髪をかき上げ、私を見た。
「……神父に説教でもされたか」
「ううん。……罪滅ぼしについて、少し話しただけ」
私は彼を見つめた。
三百年前、彼は「神になど祈らん」と言った。
でも、今の彼はどうだろう。
私を影から守り続けるその姿は、まるで神に許しを請う巡礼者のようにも見える。
「ねえ、カイゼル。あんたは祈らないの?」
「……俺には、祈る資格などない」
彼は短く答えた。
その横顔は、教会の女神像よりも、ずっと孤独で、そして聖なるものに見えた。
「行くぞ。……道がぬかるんでいる。気をつけろ」
彼は先を歩き出した。
私はその背中を追いかける。
祈りは届かないかもしれない。でも、歩き続けることだけはできる。
王都へ戻り、過去と向き合うこと。
それが、今の私たちにできる唯一の「贖罪」なのかもしれない。
雨上がりの空に、微かな虹がかかっていた。




