第5話:雨のち、殺意ときどき弟
カイゼルから借りた傘を差して歩いていると、ゴミ捨て場に何かが落ちていた。
捨て猫かと思った。
けれど、それは血まみれの少年だった。
「……う、ぅ……」
銀色の髪、透き通るような白い肌。まだ十代半ばだろうか。
腹部から血を流し、雨に打たれて震えている。
(……まるで、雨に濡れた子犬ね)
私はため息をつき、彼を背負った。
自分の傷(人形師にやられた頬の傷)もまだ痛むのに、お人好しにも程がある。
でも、この弱々しい生き物を、見捨てることはできなかった。
†
安宿の天井には、雨漏りの染みがあった。
ポタ、ポタ、と落ちる水滴の音が、古い記憶を呼び覚ます。
(……昔、こんな宿に泊まったっけ)
新婚旅行の途中で、馬車が壊れて泊まった安宿。
カイゼルは「王族がこんな所に泊まれるか!」と文句を言っていたけれど、夜中に私が寒がっていると、自分のマントを掛けてくれた。
そして、雨漏りする天井を、不器用な魔法で直してくれたのだ。
「お前が風邪を引いたら困るからな」と言い訳をして。
「……なんで、助けた」
思考が現実に引き戻される。
ベッドの上の少年が、私を睨んでいた。
その瞳は、猫のように鋭い金色をしていた。
「道端で死なれたら目覚めが悪いでしょ。……ほら、スープ飲む?」
「……毒見は」
「してないわよ。私が作ったんだから」
彼は警戒しながらも、スプーンを受け取った。
一口食べると、驚いたように目を見開いた。
「……美味い」
「でしょ? 長生きしてると、料理の腕だけは上がるのよ」
彼はガツガツとスープを飲み干した。
その無防備な姿は、年相応の少年に見えた。
私は思わず、彼の頭を撫でてしまった。
「……っ! 触るな!」
「あら、ごめん。……昔、弟が欲しかったのを思い出して」
彼はバッと手を振り払ったが、耳まで赤くなっていた。
可愛い。
その不器用な反応が、誰かさんに似ている気がした。
素直になれない、強がりな誰かさんに。
それからの数日、私たちは奇妙な共同生活を送った。
彼は「キルア」と名乗った。
多くは語らなかったが、その身のこなしや、夜中にうなされる様子から、まともな育ちではないことはわかった。
それでも、私は彼との時間を楽しんでいた。
彼が不器用に洗濯を手伝ってくれたり、私の頬の傷を気にしてくれたりするのが、嬉しかったから。
†
「ほう、若いツバメか」
ある夜。
龍神が窓からヌルリと入ってきた。
「悪くない! 若い男は精力が強いからのう! でかしたアリア! ショタ喰いとは業が深いのう!」
「ぶっ!」
私はお茶を吹き出した。
キルアが殺気立つ。
「……誰だ、そのトカゲは」
「トカゲではない! 龍神じゃ! ……ふむ、お主、どこかで見た顔じゃな。その短剣……「影の国」の暗殺者か?」
空気が凍りついた。
キルアの表情から、少年らしさが消え失せた。
そこにあるのは、冷徹な殺人機械の顔だった。
「……バレたか」
彼は瞬きする間に私の背後に回り、首筋に冷たい刃を当てた。
「任務だ。……魔女アリア。お前の首を持ち帰れば、俺は自由になれる」
声が震えていた。
刃も、わずかに震えていた。
「……そう」
私は動じなかった。
薄々、気づいていたからだ。
彼が時折見せる、私を値踏みするような視線。
そして、私の寝顔を見つめながら、殺すのをためらっていた気配。
「いいわよ」
「……は?」
「殺しなさいよ。……どうせ私は、三百年前から死んでいるようなものだから」
私は目を閉じた。
彼の手で終わるなら、それも悪くないと思った。
少なくとも、彼は私に「情」を持ってくれている。金や名誉のためではなく、彼自身の自由のために私を殺すなら、それは一つの救いだ。
「……っ、ふざけるな!」
キルアが叫んだ。
「なんで抵抗しない! なんで怒らない! ……俺は、お前を騙していたんだぞ!」
「知ってるわ。……でも、スープを美味しいって言った顔は、嘘じゃなかったでしょ?」
沈黙。
首筋の刃が離れた。
「……クソッ!」
彼は短剣を床に叩きつけた。
「殺せない……。こんな、隙だらけのババア……殺す価値もない!」
彼は涙目で私を睨みつけた。
それは殺意ではなく、甘えのような、悔しさのような瞳だった。
「……次は、必ず殺す。だから……それまで首を洗って待ってろ!」
彼は捨て台詞を残し、夜の闇へと消えていった。
私は床に落ちた短剣を拾い上げた。
まだ、彼の体温が残っていた。
†
「……甘いな」
いつの間にか、部屋の隅にカイゼルがいた。
彼は呆れたように肩をすくめた。
「暗殺者を餌付けして逃がすとは。……お前は聖女か? それともただの馬鹿か?」
「馬鹿でいいわよ。……あの子、弟みたいで可愛かったもの」
私は短剣を懐にしまった。
これは、彼がまた私を殺しに来る(=会いに来る)までの、預かりものだ。
「……それに、誰かさんに似てたしね」
「誰だ」
「さあね。……不器用で、素直じゃなくて、すぐ強がる誰かさんよ」
私はカイゼルを見てニヤリと笑った。
彼はふんと鼻を鳴らし、顔を背けた。
その耳が、少しだけ赤くなっているように見えたのは、気のせいだろうか。
「……行くぞ。ここはもう安全じゃない」
「はいはい。……次はどこへ行くの? カイゼル様」
私は立ち上がった。
傷は増えたけれど、心は少しだけ軽かった。
少なくとも、この世界にはまだ、私を殺せずに泣いてくれる人がいるのだから。
窓の外で、雷鳴が轟いた。
遠くの空が、不気味に赤く染まっているのが見えた。
嵐が来る。
今までとは比べ物にならない、大きな嵐が。




