第4話:硝子の瞳と、色褪せた聖女
空が泣いていた。
灰色の雲が垂れ込め、石畳を叩く雨音が、終わらない拍手のように響いている。
私は逃げ込むように、路地裏の古びた工房の扉を開けた。
中は薄暗く、油と木の香りが鼻をつく。
棚には無数の人形が並んでいた。
硝子の瞳。光のない、虚ろな視線。
それらが一斉に、濡れ鼠の私を見下ろしている。
(……ここ、来たことがある)
記憶の底で、何かが疼く。
三百年前、カイゼルに連れられて来た場所だ。
「君に似合うドレスを作らせたい」と、彼は言った。
あの時の私は、自分が世界で一番幸せな花嫁だと思っていた。
……馬鹿みたい。
「……勝手に入らないでくれるかな。湿気が入る」
奥の作業台で、男が背を向けたまま言った。
人形技師のゼペット。
ボサボサの白髪交じりの髪に、分厚い眼鏡。痩せこけた背中は、どこか神経質そうだ。
彼は手元の少女の人形に、細い筆で唇を描き入れていた。
「ごめんなさい。雨が止むまでいさせて」
「……チッ。邪魔はするなよ」
私は濡れたローブを絞りながら、彼の手元を覗き込んだ。
息を呑んだ。
それは、驚くほど精巧な少女の人形だった。
透き通るような白い肌、銀色の髪、そして慈愛に満ちた微笑み。
どこか、懐かしい顔立ちをしている。
「当然だ。これは僕の最高傑作……「聖女」の再現だからな」
ゼペットは熱っぽい声で言った。
「三百年前、世界を救った伝説の魔女アリア。……彼女の、汚れなき十代の頃の姿だ」
背筋が寒くなった。
目の前の人形は、確かに昔の私に似ている。
でも、綺麗すぎる。
肌にはシミ一つなく、髪は絹糸のように整えられ、瞳は宝石のように澄んでいる。
こんな完璧な生き物は、人間じゃない。
「……ふーん。でも、本物はもっとこう、目つきが悪かったんじゃない?」
「馬鹿を言うな!」
ゼペットは激昂して振り返った。
「彼女は聖女だ! その瞳は星のように輝き、その心は雪のように純白だった! ……君のような、薄汚れた女と一緒にしないでくれたまえ!」
窓の外で、雷が鳴った。
一瞬の閃光が、棚の人形たちの顔を青白く照らす。
彼女たちは笑っていた。
「そうよ、あなたは汚れているわ」と、嘲笑っているように見えた。
「……素材としては、君も悪くないがね」
彼は眼鏡の奥で目を細め、私をジロジロと見た。
「骨格、筋肉の付き方……完璧だ。だが、魂が腐っている。……ああ、惜しい。中身さえくり抜いてしまえば、最高のドールになるのに」
中身をくり抜く。
カイゼルも、そうしたかったのだろうか。
私の心なんていらない。ただ、都合の良い「聖女」という器だけが欲しかったのだろうか。
†
雨は激しさを増していた。
私はなぜか、彼のモデルをさせられていた。
「少しでも聖女に近づくための参考資料」として。
「もっと顎を引いて! ……違う、その目はなんだ。もっと慈愛を込めろ!」
「こう?」
「駄目だ! それでは「獲物を狙う肉食獣」だ!」
彼が人形に向ける眼差しは、本当に優しかった。
髪を梳き、服を整え、まるで恋人に触れるように。
その指先は震えていた。壊れ物を扱うような、慎重さで。
(……カイゼルも、昔はあんな顔をしていた)
私の髪を撫でる時の、あの切なげな表情。
あれは、私を見ていたんじゃない。
私の中にいる「理想の聖女」を見ていたんだ。
だから、私が「国のために死にたくない」と泣いた時、彼は失望したのだ。
理想が壊れたから。
「ねえ、ゼペット」
「なんだ」
「人形は喋らないわよ。温かくもないし、抱きしめ返してもくれない」
「それがいいんじゃないか」
彼は手を止めずに答えた。
「裏切らない。老いない。汚れない。……永遠に、僕の理想のままでいてくれる」
その言葉は、雨音よりも冷たく、私の鼓膜に張り付いた。
「……でも、私は生きてるわ」
私は衝動的に、彼の手を取って自分の頬に当てた。
「ほら、温かいでしょ? ……人形より、こっちの方が良くない?」
自分でも驚くほど大胆な行動だった。
彼に惹かれているわけじゃない。ただ、負けたくなかったのだ。
過去の亡霊なんかに。
ゼペットの手が止まった。
彼は目を見開き、私の体温に触れ――。
「……温かい」
その頬が赤く染まる。
いける、と思った。
生身の女の魅力で、過去の幻影を上書きしてやる。
その時。
「ガラ空きじゃああああ!」
バリィーン! と窓ガラスが粉砕された。
雷光と共に、龍神が飛び込んでくる。
雨風が吹き込み、描きかけのデッサンが舞い上がった。
「今じゃ! そのまま押し倒せアリア! 既成事実を作るのじゃ!」
「ひぃっ! ?」
ゼペットが悲鳴を上げて飛び退いた。
私の手から、彼の温もりが離れる。
「なんじゃその人形は! そんな木偶の坊では子供は産めんぞ! 生身の女の方が百倍マシじゃろうが!」
龍神はあろうことか、作業台の上の「聖女の人形」を尻尾で薙ぎ払った。
ガシャン。
乾いた音がして、人形の首が転がった。
美しい硝子の瞳に、ヒビが入る。
それはまるで、私の心が砕ける音のように聞こえた。
「あ……」
時が止まった。
ゼペットは崩れ落ちた人形を呆然と見つめ、そして――。
「……出て行け」
低い、地を這うような声だった。
「僕の……僕の聖女を……!」
「ち、違うの! 私は……!」
「出て行けえええええ! !」
鋭利なノミが飛んできた。
私は反射的に避けたが、頬にかすり傷ができた。
血が滲む。
彼の目にあったのは、もう憧憬ではなかった。
汚物を見るような、憎悪だった。
「汚らわしい! お前のような女が、彼女に触れるな! 消えろ! 二度と僕の前に現れるな!」
彼は壊れた人形を抱きしめ、泣き叫んでいた。
生身の私など、視界に入っていなかった。
彼にとって大切なのは、「生きた私」ではなく、「壊れた理想」だけだったのだ。
†
私は雨の中を歩いていた。
頬の傷が痛む。雨水が染みて、涙のように流れていく。
路地裏のゴミ捨て場には、壊れた傘や、片方だけの靴が捨てられていた。
私も同じだ。
誰にも必要とされない、壊れたガラクタ。
「……風邪を引くぞ」
頭上の雨が止んだ。
黒い傘が、私を覆っていた。
カイゼルが立っていた。
「……放っておいてよ。私は、魂が腐った女なんだから」
「人形師の戯言か」
彼は私の頬の傷に、そっと指を這わせた。
冷たい指先だったが、人形よりはずっと温かかった。
「過去など、死人と同じだ。……美化され、都合よく改変された記憶に、勝てるわけがない」
「……そうね。私はもう、聖女じゃないもの」
「ああ。お前は、ただの面倒くさい魔女だ」
彼はフッと笑った。
その笑顔は、雨上がりの空のように、少しだけ晴れやかに見えた。
「……でも、生きてるわ」
「しぶとくな」
カイゼルは傘を私に押し付けると、雨の中へ歩き出した。
その背中は、昔よりも少し小さく見えた。
あるいは、私が大人になっただけかもしれない。
私は傘を握りしめ、彼の背中を追った。
雨音はまだ続いているけれど、少しだけ優しく聞こえた。
……でも、龍神には後でお仕置きが必要ね。
ふと、視線を感じた。
路地裏の暗がりから、誰かが見ている。
カイゼルではない。もっと鋭く、冷たい視線。
殺気。
私は傘を握りしめた。
この旅は、ただのお見合い旅行ではないのかもしれない。




