第3話:砂漠の商人とのすれ違い
砂漠の陽炎が、視界をゆらゆらと歪めていた。
交易都市のバザールは、香辛料と熱気、そして欲望の匂いで満ちている。
(……ここ、昔も来たわね)
私はフードを目深に被りながら、記憶を手繰り寄せた。
三百年前、新婚旅行の途中でこの砂漠を通った。
あの時、私は熱射病で倒れて、カイゼルにおんぶされて歩いたのだ。
「重い」と文句を言いながら、彼は決して私を下ろさなかった。その背中の温もりを、今でも覚えている。
「そこの美しいお嬢さん! 運命の出会いを探している顔だね!」
突然、目の前に派手な男が現れた。
オイルで撫で付けた黒髪に、極彩色の絹のターバン。指にはジャラジャラと宝石の指輪。
いかにも胡散臭い商人だ。
「……間に合ってるわ」
「つれないなぁ。俺はザイード。この街一番の商人さ。……お詫びに、この「王家の壺」を特別価格でどうだい? 今なら金貨一枚!」
(……どう見てもただの素焼きの壺じゃない)
私は無視して通り過ぎようとした。
けれど、彼は私の腕を掴むことはせず、ただ静かに言った。
「……君、泣いているのか?」
え?
私は足を止めた。泣いてなんていない。ただ、砂埃が目に入っただけだ。
でも、彼は真剣な瞳で私を覗き込んでいた。
「その瞳……まるで、雨に濡れた宝石だ。……俺にはわかる。君は、とても悲しい嘘をついている」
ドキリとした。
三百年の孤独。裏切りの記憶。
それを「嘘」と言い当てられた気がして。
†
気がつくと、私は彼の店の奥に通されていた。
最高級の茶と、山のような菓子。
そして目の前には、目が眩むような宝石の山。
「全部、君にあげるよ」
「……は?」
「君の笑顔が見たいんだ。このルビーは君の唇に、このサファイアは君の涙に似合う。……そして、その流れるような銀髪には、ダイヤモンドの冠が必要だ」
ザイードはまるで子供のように、次々と宝石を私の前に積み上げた。
金貨にして数千枚。国が買える額だ。
「……何のつもり? 私を騙そうとしても、お金なんて持ってないわよ」
「お金? ハハッ、そんな紙切れ、俺には必要ない」
彼は笑い飛ばし、そしてふと、寂しげに目を伏せた。
「俺はね、ずっと探していたんだ。……この砂漠の乾きを癒やしてくれる、たった一人の女神を」
その言葉には、不思議な重みがあった。
商売人の軽薄さではない。もっと切実な、祈りのような響き。
(……カイゼルも、そうだった)
ふと、記憶が重なる。
「俺の全てを、この国に捧げる」と言った、あの日のカイゼル。
対象は違うけれど、その「全てを投げ出す覚悟」は同じだ。
(……この人なら、私を大切にしてくれるのかしら)
私が宝石の一つに手を伸ばそうとした、その時。
「ぬおおおお! 眩しい! 眩しいぞ!」
宝石の山が崩れ、中から龍神が飛び出した。
いつの間に埋もれていたのよ。
「アリア! こやつは良いぞ! 金がある! 金があれば子育ても安心じゃ! 養育費の心配はいらん!」
龍神はザイードの肩に乗り、親指を立てた。
最悪のタイミングだ。
「金」という言葉が出た瞬間、ザイードの表情が凍りついた――ように見えた。
「……養育費?」
彼は私と龍神を交互に見た。
そして、何かを決意したように頷いた。
「わかった。……全財産をやる」
彼は懐から、店の権利書と金庫の鍵を取り出し、テーブルに叩きつけた。
「これで足りるか? 足りなければ、俺の命もつけてやる。だから……俺と結婚してくれ」
必死だった。
なりふり構わない、懇願だった。
けれど、私の耳には、その言葉は別の意味に聞こえてしまった。
(……結局、金なのね)
三百年前の王子もそうだった。
「国のため」「金のため」。愛以外の何かを理由に、私を選んだ(あるいは捨てた)。
この人も、金さえ積めば私が手に入ると思っているのだ。
「養育費」なんて言葉に反応して、責任を金で買おうとしているだけだ。
「……馬鹿にしないで」
私は立ち上がった。
「私の心は、宝石なんかじゃ買えないわ」
「ち、違う! 俺はただ、君に不自由させたくなくて……!」
「さようなら。……お茶、ごちそうさま」
私は振り返らずに店を飛び出した。
背後で、彼が何かを叫んでいたけれど、砂嵐がかき消してしまった。
†
夜の砂漠は冷える。
私は砂丘の上で、膝を抱えていた。
昔、カイゼルにおんぶされた場所だ。あの時の背中は温かかったのに、今の砂は冷たい。
「……逃げたな」
風と共に、カイゼルが現れた。
彼は私の隣に座り、遠くの街の灯りを見つめた。
「あいつは本気だったぞ」
「……うるさい」
「商人が全財産を捨てる。それがどういう意味か、お前にもわかるだろう」
わかっている。
だからこそ、怖かったのだ。
そんな重い愛を受け止めて、また裏切られるのが。
信じて、期待して、最後に「やっぱり金が大事だ」と言われるのが怖かったのだ。
「……愛は金じゃ買えないわ」
「そうだな。だが、金を捨ててでも買いたい愛はある」
カイゼルは砂をひと掴みし、指の隙間からさらさらと落とした。
「お前は、その手を自ら振り払ったんだ」
その言葉は、砂漠の夜風よりも冷たく、私の胸に突き刺さった。
私は何も言い返せなかった。
ただ、こぼれ落ちる砂を見つめることしかできなかった。
「……行くわよ、龍神」
私は逃げるように立ち上がった。
ここにいたら、泣いてしまいそうだったから。
「次は……もっと、何も持っていない人がいいわ」
私は夜の闇へ消えた。
背後で、カイゼルが何かを言おうとして、口をつぐんだ気配がした。
「金では買えない愛」。
彼がそれを口にする資格があるのか。
それとも、全てを捨てた彼だからこそ、知っている真実があるのか。
砂漠の風が、答えをかき消すように吹き抜けた。




