第16話:温泉郷の湯けむり殺人事件
湯けむりが立ち込める温泉郷。
私たちは老舗旅館に投宿していた。
硫黄の匂い。川のせせらぎ。
(……ここ、覚えてる)
三百年前、新婚旅行で訪れた時、カイゼルは「混浴は無理だ!」と顔を真っ赤にして逃げ出した。
結局、貸切風呂に入ったけれど、彼は終始背中を向けていた。
「俺の理性が持たん」と呟いていたのを、私は聞こえないフリをしたっけ。
「キャアアアアア!」
悲鳴が静寂を切り裂いた。
露天風呂の方だ。
駆けつけると、湯船に男が浮いていた。
背中に短剣が突き刺さっている。
「……殺人ね」
私は呟いた。
湯船が赤く染まっていく。
その赤色は、三百年前の記憶――アークの儀式で流れた血の色を思い出させた。
「現場を荒らさないでくれたまえ」
眼鏡をかけた少年が、手帳片手に現れた。
コナン。この温泉郷に滞在していた探偵だ。
彼は死体を一瞥し、冷静に言った。
「犯人は、この旅館の中にいる」
†
数時間後。
大広間に宿泊客が集められた。
コナンが指差したのは、仲居の女性だった。
「犯人は貴女だ。……動機は、妹さんを守るためですね?」
女性が崩れ落ちる。
殺された男は、彼女の妹を脅迫していた借金取りだった。
妹を守るために、彼女は手を汚したのだ。
「……私がやりました。妹には、幸せになってほしかったから」
彼女は泣きながら告白した。
その姿に、私は言葉を失った。
殺人は許されない。
でも、愛する人を守るために罪を犯した彼女を、誰が責められるだろう。
(……カイゼルも、同じだったの? )
ふと、そんな考えがよぎる。
もし彼が、私を「裏切った」のではなく、私を守るために「世界を敵に回した(あるいは嘘をついた)」のだとしたら?
それは、この女性と同じ「愛のための罪」ではないのか。
†
「いい湯じゃああああ!」
ザパーン!
庭の露天風呂から、龍神が飛び出した。
頭に手ぬぐいを乗せ、茹でダコのように赤くなっている。
「極楽極楽! ……ん? 何じゃ、辛気臭い顔をしおって! ひとっ風呂浴びて忘れろ!」
「龍神! 空気読んでよ!」
私は叫んだ。
でも、その能天気さに救われた気もした。
罪も、罰も、温泉に流してしまえればいいのに。
†
事件が解決した後、私は縁側でカイゼルと酒を飲んだ。
彼は月を見上げ、自嘲気味に笑った。
「……愛のために人を殺すか。愚かな女だ」
「そう? 私は、少し羨ましいと思ったわ」
私は彼を見た。
「誰かのために、地獄に落ちる覚悟ができるなんて。……あんたには、できる?」
「……さあな」
彼は杯を干した。
「だが、もし俺がその女の立場なら、もっとうまくやる。……誰にも気づかれず、誰にも感謝されず、ただ一人で罪を背負って消える」
ドキリとした。
それは、まるで自分のことを語っているようだった。
誰にも気づかれず。誰にも感謝されず。
三百年前のあの日から、彼はずっとそうしてきたのではないか。
「……馬鹿ね。それじゃ、守られた方が報われないじゃない」
「守られた方は、知らなくていい。……幸せに生きてくれれば、それでいい」
彼は立ち上がった。
その背中は、夜の闇に溶けてしまいそうだった。
「行くぞ。……湯冷めする」
私は彼の背中を見送った。
その背中に、見えない「罪」の重さを感じながら。
彼が背負っているものが何であれ、私はそれを知りたい。
王都へ戻れば、きっと全ての謎が解けるはずだ。
夜空の月が、静かに私たちを見下ろしていた。




