第13話:港町の灯台守
港町は霧に包まれていた。
船の汽笛が、遠くで低く響く。
私は吸い寄せられるように、岬の灯台へと足を運んだ。
(……ここ、覚えてる)
三百年前、新婚旅行で船に乗る前、私たちはこの灯台に登った。
「ここから先は海だ。もう後戻りはできない」
カイゼルはそう言って、海を見つめていた。
その背中は、決意に満ちているようで、どこか震えているようにも見えた。
私は「大丈夫よ、どこへでもついて行くわ」と笑って、彼の手を握ったのだ。
「……おや、こんな朝早くに」
灯台の最上階で、老人がランプを磨いていた。
バルカス。この灯台を代々守る一族の末裔だ。
白髪に刻まれた皺が、年輪のように深い。
「昔を思い出してね。……この灯台、三百年も前からあるんでしょう?」
「ええ。私の曽祖父の代から、ずっとこの海を照らしてきました」
バルカスは目を細めた。
「言い伝えがあるんですよ。三百年前、ある高貴な男女がここを訪れたと」
「……へえ。どんな人たち?」
「女性は太陽のように明るく、男性は月のように静かだったそうです。二人はこれから長い旅に出るところだった」
心臓が跳ねた。
間違いなく、私たちだ。
「でもね、曽祖父は見たそうです。……女性が先に階段を降りた後、男性が一人で泣いていたのを」
え?
「声を押し殺して、子供のように泣いていたそうです。「行きたくない」「失いたくない」と、何度も呟きながら」
嘘だ。
あの時のカイゼルは、凛としていた。
私をリードして、自信満々に「行こう」と言ったのだ。
泣いていたなんて、そんなはずがない。
「……見間違いじゃないの?」
「さあ。でも、曽祖父はこうも言っていました。「あんなに悲しい背中を見たのは初めてだ」と」
バルカスはランプに火を灯した。
オレンジ色の光が、霧の中に道を作る。
「男には、泣いてでも進まねばならん道があるのでしょう。……たとえそれが、愛する人を傷つける道だとしても」
†
「眩しい! 眩しいぞ! 朝からハイビームはやめんか!」
バササササ!
巨大な蛾……ではなく、龍神が灯台のガラスに張り付いた。
光に引き寄せられたらしい。習性が虫と同じだ。
「アリア! 朝飯じゃ! 港の市場でマグロの解体ショーをやっておるぞ! トロじゃ! 大トロを食わせろ!」
「……雰囲気ぶち壊しね」
私はため息をついた。
でも、おかげで涙は引っ込んだ。
カイゼルが泣いていた?
そんなの、信じられない。
もし本当なら、彼はどうして私を裏切ったの?
泣くほど愛していたなら、どうして……。
†
市場で龍神にマグロを食わせた後、私は桟橋に立った。
カイゼルがいた。
彼は海を見つめていた。三百年前と同じ場所で、同じように。
「……泣いてたの?」
「は?」
「三百年前。この港を出る時」
私は単刀直入に聞いた。
彼は眉をひそめ、鼻で笑った。
「馬鹿を言え。……俺が泣くわけがないだろう」
「そうよね。……あんたは、冷血漢だものね」
私は彼の横顔を盗み見た。
無表情。鉄仮面。
でも、その瞳の奥が、わずかに揺らいだのを私は見逃さなかった。
(……嘘つき)
確信した。
彼は嘘をついている。
三百年前も、今も。
その嘘の下に、何を隠しているの?
私を傷つけてまで、何を守ろうとしているの?
「行くぞ。……次は「歓楽街」だ」
彼は背を向けた。
その背中は、灯台守が言った通り、どこか悲しげに見えた。
霧が晴れていく。
でも、カイゼルの心の霧は、まだ晴れていない。
それを晴らすことができるのは、きっと私だけだ。
私は杖を握りしめ、彼を追った。




