第0話:プロローグ・常闇の少年と光の少女
深い、深い、水の底にいるようだった。
寒くはない。寂しくもない。
ただ、自分という輪郭が溶けて、世界と混ざり合っていく感覚。
意識が消えかけた、その時。
一筋の光が、闇の底へ降りてきた。
――アリア。
声がする。
耳ではなく、心に直接響く声。
切なくて、愛おしくて、泣きたくなるような声。
――思い出してくれ。俺たちの、始まりの日を。
その声に導かれ、私の視界が白く染まる。
暗闇が晴れ、鮮やかな色彩が溢れ出した。
***
それは、遠い夏の日の記憶。
王宮の庭園。
まぶしい日差しと、濃い影。
私は迷子になっていた。
蝶々を追いかけて、誰もいない庭の奥へと入り込んでしまったのだ。
そこで、私は「彼」を見つけた。
樹齢千年の大樹の根元。
光の届かない影の中に、一人の少年がうずくまっていた。
黒い髪、黒い瞳。
まるで、夜そのものを切り取ったような男の子。
(……寂しそう)
幼い私は、そう思った。
彼が持っている分厚い本よりも、彼の周りに漂う孤独の色の方が、ずっと重そうに見えたから。
「ねえ、そこで何してるの?」
私は声をかけた。
彼は弾かれたように顔を上げた。
その瞳が、驚愕に見開かれる。
「……来るな」
彼は後ずさった。
拒絶ではない。恐怖だ。
彼は、私を怖がっていた。
「俺に近づくと、死ぬぞ。……俺は呪われているんだ」
彼の足元の草花が、黒く変色して枯れていく。
命を吸い取る呪い。
誰もが彼を恐れ、遠ざけた。
でも、私にはわからなかった。
ただ、彼が泣きそうな顔をしていることだけが、気になった。
「ふーん。そうなの?」
私は影の中へ足を踏み入れた。
彼が息を呑む。
「やめろ! 死にたいのか!」
「でも、私は枯れてないよ?」
不思議なことに、私の体はなんともなかった。
それどころか、私が歩くたびに、足元から光の粒子が舞い上がり、彼の闇を優しく照らした。
「……どうして」
「私ね、アリアっていうの。……君は?」
私は彼の手を取った。
彼がビクリと震える。
その手は氷のように冷たかった。
――ああ、温かい。
カイゼルの心の声が、今の私に流れ込んでくる。
あの時、彼が何を感じていたのか。
絶望的な孤独の中で、初めて触れた「体温」への衝撃。
そして、それが壊れずにそこにあることへの、震えるほどの歓喜。
「ほらね? 温かいでしょ?」
私は笑った。
彼の手を、両手で包み込む。
私の光が、彼の闇に溶けていく。
吸い取られているのではない。混ざり合っているのだ。
夜空に星が輝くように、私たちは二人で一つの世界を作っていた。
「……ああ。温かい」
少年は泣いた。
涙は流さず、魂で泣いていた。
その時、彼は誓ったのだ。
この光を、この温もりを、何があっても守り抜くと。
たとえ、世界中を敵に回しても。
***
――愛している、アリア。
記憶が遠ざかる。
再び、優しい闇が私を包み込む。
――必ず、迎えに行く。だから、それまで……。
声が途切れる。
でも、もう怖くはない。
私の胸の奥には、あの日の「温もり」が残っているから。
私は深い眠りについた。
いつか訪れる、再会の朝を夢見て。




