どうか、私を自由にしてください
よく見る悪女と入れ替わっちゃうストーリーの悪女側を書いてみたくなりました。
16歳を迎えたある夜。
王宮で開かれたパーティーで癇癪を起こした私は、この世で1番愛している人から残酷な事実を突きつけられた。
『いい加減にしろ、ミュゼティア。
婚約者でもないのに他の女がパートナーになるのが耐えられなくて癇癪を起こすなんて、普通じゃない』
昔は太陽のように暖かった黄金色の眼差しは、今では氷のように冷え切っている。
今の貴方が唯一私に向ける感情は憎しみだけ。
そう分かっていたはずなのに、馬鹿な私は貴方を諦められずしつこく付き纏った。
『でもっ、ランカルド兄様はいつも私と一緒にいないと………』
『お前、何か勘違いしていないか。
確かにお前の父ルーデガル公爵は宰相として陛下に仕え、兄のアズラスは私の側近だ。
しかし、お前は私にとっては何者でもない』
『そんな……』
『思い上がるな、ミュゼティア。
お前が私の婚約者になることなぞ、未来永劫ありえない。
お前の存在そのものが、私にとっては不快なのだから』
よりによって貴方に幼い頃から大切にしてきた恋心を粉々に打ち砕かれた私は、決して振り返らない貴方の背中を呆然と見送るしかなかった。
黄金色の髪と瞳を持つ、正真正銘の皇子様。
かつては私にも優しく微笑み、手を引っ張ってくれた5歳上のランカルド兄様。
……私を憎む、愛おしい人。
『貴方の幸せに、私はいないのね』
傲慢な私はこの時ようやく気がついた。
貴方には決して愛されないのだと。
⭐︎⭐︎⭐︎
ロッテンブルグ帝国の皇都の隅っこに新しくできたばかりの薬局屋の店主は、平凡だがどこか可愛らしい顔でプンプンと怒っていた。
「もうっ、ルーシスさん、この薬はちゃんと継続して飲まなきゃダメよ?」
「分かってるんだけど、これ苦くてさぁ……」
「"良薬は口に苦し"って知ってるでしょ?
ちゃんと飲まなきゃ治るものも治らないんだから、我慢して!」
「怒ったエリーちゃんは怖えなぁ…分かったよ、ちゃんと飲むからさ」
そう言って、薬代を払って去っていったルーシスの後ろ姿をエリーは心配そうに見守っていた。
パン屋の店主であるルーシスは1ヶ月前の火傷が原因で薬を飲んでいるのだが、どうも不精な性格をしていて、継続して薬を飲んでいないようだった。
そのせいか傷の治りも悪く、あのままでは感染症を起こす可能性もあるだろう。
そんな事態をルーシスの宣言だけで見逃すほど、エリーは甘くなかった。
「まったく、奥さんにちゃんと監視してもらうしかないわね」
心配をかけるから奥さんには言いたくないとルーシスは言っていたが、こうなっては仕方がない。
奥さんには他のお客さん伝いにコッソリ伝えようと考え、今はとりあえず他の薬を作りに店の奥へ戻ろうとしたその時、後ろからチリンと来客を告げるベルが鳴った。
「エリーちゃん、痛み止めくれないかしら?」
「マリアさん!また関節痛ですか?
関節が弱ってるから、立ち仕事は程々にしてって言ってるのに…」
新たに訪れた客のマリアは、店が開いた3ヶ月前から通ってくれている常連だ。
彼女は少しぽっちゃりとした愛嬌のあるおばさんで、働き者であるがために早くに関節を痛めてしまったらしい。
エリーとしては本当は痛み止めは身体に負担をかけるのであまり多用してほしくないのだが、困った顔で求められたら売らないわけにはいかなかった。
「ウチは主人の稼ぎが悪いからしょうがないのよ。それにエリーちゃんのところの薬は他のと違って副作用があまりないから助かるの。
さすが薬学先進国のペルーセン王国で3年も修行しただけあるわ。
この広い皇都でもエリーちゃんの薬より良い薬を売ってる薬局なんて他にないんじゃないかしら?」
「もう、そんなに褒めたって誤魔化されませんよ。
流石にペルーセン王国の薬でも全く身体に負担が無いわけじゃありませんから、気をつけてくださいね」
調子のいい言葉に苦笑しながら代金と引き換えに求められた痛み止めを差し出すと、おしゃべり好きなマリアはそれを受け取った後も話を続けた。
「私、エリーちゃんには本当に感謝してるのよ。
病気や怪我を癒す魔法を使える人もいるらしいけど、その恩恵を受けられるのは貴族やお金持ちの人だけでしょう?
薬だって良質なものは高く売られてるから、私たち平民は中々手が出せないの。
でもエリーちゃんは良い薬を信じられないくらい安く売ってるから、こっちが心配になるくらいだわ」
そう心配そうにこちらを見るマリアに、エリーは笑いながら首を振る。
「ペルーセン王国にいる師匠から安く薬草を譲ってもらってるので、薬の原価が安く済んでいるんです。
むしろご近所の皆さんが足繁く通ってくださるおかげで予想以上の売り上げですよ」
店を出した3ヶ月前は閑古鳥が鳴く可能性すら考えていたのに、実際は日々大盛況…とまではいかずとも、かなりの客入りがある。
おかげさまで店の家賃も難なく払えているし、生活も普通に暮らしていく分には何の問題もなかった。
「それなら良かったけど……そういえば、エリーちゃんってなんで薬師になったの?
ペルーセン王国へ留学なんて、普通の平民なら無理でしょうに」
「16歳の時、馬車に轢き逃げされたんですけど…その時、運良く帝国に来ていた師匠に拾われたんです」
「まぁっ、轢き逃げ!?エリーちゃんったら若くして大変な思いをしたのね……」
可哀想にと目を潤ませるマリアに、エリーはえへへと苦笑いを浮かべる。
確かに他人が聞くと哀れな話なのだろうが、私からすると自分で選んだことなのでどうも他人から同情されると気まずいのだ。
どうにかこの話題から話を逸せないものかと考えた私は、ふとルーシスさんのことを思い出す。
そうだ、おしゃべり好きのマリアさんならルーシスさんの奥さんにもあっという間に伝わるかもしれない。
「あの、マリアさん。パン屋のルーシスさんって知ってますよね?」
「えぇ、知ってるけど…何かあったの?」
「ルーシスさん、オーブンで腕に火傷をしてしまったみたいなんですけど、薬をちゃんと飲んでないみたいなんですよ。
あの様子だと塗り薬もちゃんとしてるか怪しいので、奥さんにこっそり伝えて監視してもらえないかなって」
「あぁ、そういうこと!それなら任せてちょうだい。ナリスには私が伝えとくから」
どうやら、ルーシスさんの奥さんはナリスさんという名前らしい。
パン屋で売り子をしてるので顔は知っていたが、名前は知らなかったので助かる。
「ありがとうございます。
じゃあ私はそろそろ薬作りに戻るので、マリアさんもお大事にしてください」
「こちらこそありがとうね…あ、そうだ。
エリーちゃん、明日は店閉めるんだよね?」
別れの挨拶をして、扉を開けてマリアさんを見送ろうとしたエリーはその言葉に首を傾げる。
「え?なんでですか?
いつも通りの時間に開けるつもりですが……」
「だって、明日は第二皇子様とルーデガル公女の結婚パレードじゃないか!
まさか、知らなかったのかい?」
第二皇子と、ルーデガル公女の結婚式…?
それって、つまり………
「え、ええええええ!!??」
「すごい驚きっぷりだね……とにかく、明日はどうせ客も来ないし閉めた方がいいよ。
せっかくの国をあげた祝い事だし、エリーちゃんも楽しみな」
それじゃあね、と手を振って去っていくマリアさんをなんとか笑顔で見送った私は、閉店の札をかけてから扉を閉めてその場に崩れ落ちる。
「エリーが、第二皇子と結婚?」
別にもう私の身体じゃないし誰を選ぼうと彼女の自由だが、まさかよりによって第二皇子を選ぶとは。
ミュゼティアは側室から皇后になった子爵令嬢の子である第二皇子のシュエルドを嫌っていて、シュエルドも同じくミュゼティアを嫌っていたはずだが、そんな2人がどうやって結婚に至ったのだろうか。
(ランカルド兄様は、今頃何を思ってるのかしら)
ミュゼティアがシュエルドを嫌っていたのは、彼がランカルドの皇位継承を邪魔する存在だと思っていたからだ。
皇帝も皇后も表向きは前皇后の子であるランカルドを皇太子として大切にしているけれど、内心は分からない。
シュエルドは皇位争いを避けるべく、12の頃から騎士団に入って国境付近の魔物討伐へしょっちゅう向かっていたようだが、むしろそれが彼を支持する者たちが増える要因となった。
ランカルドはシュエルドを邪険に扱うほど器の狭い人ではないけれど…かといって、彼らは互いを慈しむほど仲が良い兄弟というわけでもない。
シュエルドは公私関係なくランカルドの前では臣下のような態度で線を引いていて、ランカルドも同じく線を引いている…彼らはそうすることで上手くバランスが保たれるような関係だった。
ーーまぁ、そのバランスをいつも崩していたのは他でもないミュゼティアだったけど。
『ランカルド兄様に近づかないで!
貴方みたいな弟、ランカルド兄様には必要ないんだから』
『やだ、魔物の血の臭いがすると思ったらシュエルド殿下じゃないの』
『前皇后陛下の尊い血を受け継ぐランカルド兄様と貴方じゃ命の価値が違うのではなくて?
せいぜい国のため、ランカルド兄様のために辺境で頑張ってくださいませ』
宰相として皇帝を代々支えてきたルーデガル公爵家の権力を笠に着た私は、幼い頃から陰でそれはもう酷い言葉をシュエルドに投げつけてきた。
今思うと、激昂したシュエルドに殺されなかったのが不思議なくらいだ。
彼は変なところで我慢強く、皇帝や皇后に私のことを決して言いつけるような事もしなかった。
『お前だって、嫌われてるくせに』
幼い頃、そんな言葉に激昂した私と取っ組み合いの喧嘩をして、両陛下に怒られたのがよっぽど効いているのかもしれない。
あの時は流石に私も罰を受け、部屋からしばらく出ることができなかったのでよく覚えている。
「エリーったら、本当にすごい子ね……」
ミュゼティアがどんなに思い出を振り返ってもシュエルドとの良い思い出なんて一つもないのに、ミュゼティアの中身がエリーになっただけで結婚にまで至るとは。
彼女はやはり只者ではない。
『私の代わりに貴女が死ぬなんて嫌です!』
魂が入れ替わる時に何もない白い空間で会った彼女は、初対面の私のために泣いてくれた優しい子だ。
今も彼女は私がわざと彼女と入れ替わったのだと知らず、エリーの体ごと私が死んだという嘘を信じている。
16歳となった日に孤児院から追い出され、馬車に轢き逃げされた可哀想なエリー。
生まれた時に母を殺したことで家族から疎まれ、ただ与えられるお金と権力を使って好き勝手に振る舞った挙句、愛する人によって心が壊れたミュゼティア。
どちらの人生が良いかなんて私には分からないけど、ミュゼティア・ルーデガルの人生から解放されて自由に生き直せるなら私はなんでもよかったのだ。
結果として今の私は思った通り自由に生きることができていて、師匠など温かい沢山の人との交流を通して心の傷もだいぶ癒えた。
今の人生は、ミュゼティアとして生きていた頃よりも幸せだとハッキリ言える。
(結婚するってことは、本当のエリーもちゃんと幸せになれたのよね?)
「明日、少しだけパレードを見に行ってみようかしら…」
もう別人として生きると決めた以上ミュゼティアになったエリーに関わるつもりはなかったが、ほのかに抱き続けていたエリーへの罪悪感から少しだけ彼女の様子を見てみたいと思ってしまう。
もう入れ替わりから3年以上経ったし、どうせパレードはすごい人混みであちらからは顔など識別できないだろう。
そう思った私は、立ち上がって薬を作るために店の奥へと向かう。
明日は店を閉めるが、何かあった時のために予備の薬を作っておいた方がいいだろう。
それに、事故の後から飲み続けている自分用の薬もそろそろ無くなりそうだった。
エリーの身体は、事故にあってから常に眩暈や耳鳴りに襲われるようになってしまった。
薬を飲まないとまともに立っていられないため、毎日服薬が欠かせないのだ。
もしかしたら癒しの魔法で治せるかもしれないと師匠には言われたけど、もちろんエリーにそんなお金はないし、今後も難しいだろう。
(きっと、これは天罰みたいなものね)
一生付き合っていくことになる事故の後遺症は、自分が背負うべきものだ。
優しい彼女にこんな運命を背負わさないで済んだことが、私の人生で唯一誇れることなのかもしれない。
そんなことを考えて、エリーはかすかに微笑んだ。
⭐︎⭐︎⭐︎
パレードで皇子夫妻を一目見ようと集まった多くの人々によって騒がしい中、一際大きな声が聞こえた。
「見て、第二皇子夫妻が乗られた馬車が来たわ!」
誰かがそう言うと、人々が一斉に同じ方向を向いたので、エリーも慌てて同じ方向を見る。
するとそこには、馬に乗った護衛隊に囲まれた花で飾られた美しい屋根なしの馬車があり、黒い軍服に正装した第二皇子と白いウェディングドレスを纏ったミュゼティアが幸せそうに笑っていた。
2人は時折目を合わせて甘く微笑んでおり、それは誰がどう見ても想い合う恋人同士の姿だった。
「シュエルド殿下、ミュゼティア妃殿下、おめでとうございます!!」
人々はそう言いながら花びらを巻き、夫妻はそれに応えるように手を振っている。
私はその姿を見て、心底安心した。
(よかった、ちゃんと幸せになったのね……)
彼女が元々自分はミュゼティアではないとシュエルドに打ち明けたのかは分からないけど、それはもう私には関係のないことだ。
私も、これでやっと罪悪感から完全に解放される。
「おめでとう、エリー」
そう小さく呟いた私は観衆と同じように手を叩きながら、通り過ぎようとする馬車を涙目で見つめる。
(さようなら、ミュゼティア)
可哀想なエリーも、可哀想なミュゼティアも、もうここにはいない。
可哀想な2人の少女は、魂を入れ替えることで互いに幸せになったのだ。
(私たちの縁も、もうこれでおしまい。
きっともう2度と関わることはないでしょう)
「ありがとう」と声に出さずに呟いて立ち去ろうとしたその時、後ろから懐かしい声が聞こえた。
「ミュ…っ、エリー!!あなた、エリーよね!?」
突然の花嫁の声に、周囲は何事だと騒めく。
しかし第二皇子だけは花嫁の意図を理解したように馬車を止め、周囲に静かにするよう命じた。
当然平民たちは第二皇子の命令に逆らうはずもなく、すっかり静まり返った中でミュゼティアの澄んだ声が響き渡る。
「良かった、生きていたのね……」
エリーは死んだと嘘をついた私に対して、"生きていて良かった"と初めに言える彼女はやっぱり優しいのだろう。
だけど私は、決して再会を望んでいたわけではなかった。
「私のことは、忘れてください」
私は震える声でそう言って、逃げるためにその場から駆け出す。
行くんじゃなかった。
人混みだからと油断して、エリーが自分の顔に気づかないなんて考えがそもそも傲慢だった。
(とりあえず店に行って、必要なものだけ持って逃げないと)
彼女にバレた以上ここには留まれない。
とりあえずペルーセン王国へ行く馬車に乗って、師匠や知り合いを頼ろう。
そうやって頭で逃げる算段を立てながら曲がり角を曲がったその時、目の前に騎士たちが現れる。
「第二皇子殿下のご命令です。
どうか、我々と共に皇城へ来てください」
「……わかったわ」
シュエルドの部下は、どうやら私を逃してはくれないらしい。
(当たり前よね。シュエルドからしたら私は愛する女を騙した悪女だもの)
先ほどのシュエルドの様子を見る限り、彼はミュゼティアの中身がエリーだと知っている。
だからあんなに冷静に対応できたのだ。
「殿下は貴女が馬に乗れると言っていましたが…乗れますか?」
「……えぇ、乗れます」
その言葉に、私はシュエルドに自分がミュゼティアだとバレているのだと確信する。
ミュゼティアは幼い頃狩りに出かけるランカルドの後を追いかけるため、貴族令嬢にしては珍しく馬術を習得していた。
彼はそれを知っているから、私も馬に乗れると部下に言ったのだろう。
言われるがまま馬に乗った私は一瞬このまま逃げられないかと考えたが、自分を囲む騎士の数を見て諦める。
そもそも今日はパレードで街のそこら中に騎士がいるので、いくら馬に乗っていても逃げるのには限界があった。
(こんなめでたい日くらい、見逃してくれないかしら……まぁ、無理か)
めでたい日だからこそ、不安分子は確実に潰したくなるものなのかもしれない。
自分の愛する人が悲しそうな顔をしたのなら尚更だろう。
そうやって色々と観念した私は、大人しく騎士たちと皇城へと向かった。
⭐︎⭐︎⭐︎
何故か侍女服に着替えさせられてから、皇城にある客室にしばらく軟禁されていた私の前に現れた男は、母親譲りの赤髪を後ろに撫でつけて、皇族特有の黄金の瞳を細めながら私を見下ろした。
「それで、お前が本物のミュゼティア・ルーデガルか?」
「分かっているんでしょうに、なぜ改めて聞くの?」
「はっ。その口ぶり、間違いなくあの女だな」
正体を知っている相手にわざわざ取り繕う必要がないと判断した私に、シュエルドは呆れたように鼻で笑って返す。
そんなシュエルドにイラついた私は、つい昔の悪い癖が出た。
「それで、その女と結婚した感想は?
中身は入れ替わったけど、皮は変わらず私のままでしょう。
良かったわねぇ、散々貴方を詰った私と結婚できて」
そう言って片方だけ口角を上げて笑うと、シュエルドの目が殺気立つ。
「勘違いするな。俺が愛してるのはエリーだ。お前じゃない」
「知ってるわよ、そんなこと。
別に私も貴方に好かれたいだなんてこれっぽっちも考えたことはないわ。
エリーが貴方を選んだことを意外に思うくらいにはね」
「お前、言わせておけば……」
「もう、やめてください!」
エリーのことに触れられて怒ったシュエルドが私の胸ぐらを掴みかかりそうになったその時、扉の向こうからミュゼティアの姿をしたエリーが現れた。
焦った様子の彼女は慌てて私とシュエルドの間に入り込み、シュエルドをなだめる。
「シュエルド殿下、ミュゼティア様と何があったのかは分かりませんけど落ち着いて下さい。
争うためにミュゼティア様をここに呼んだのではないんですから」
「……すまない、エリー」
どうやら、私を皇城に連れてきたのはシュエルドだけの判断ではなかったらしい。
それを知った私は、かつては自分のものだった紫色の瞳を見つめる。
いかにも悪女らしくキツかったその目は、不思議なことに今では随分柔らかく見えた。
「ミュゼティア様。こうしてお会いすることができて、とても嬉しいです。
だけど、自分の姿を改めて見ると、なんだか気恥ずかしいですね」
照れくさそうにそう言って頬を染めた少女の、なんと愛らしいことだろう。
中身が変わることで人の纏う雰囲気はこんなにも変わるのかと驚く。
「…私には、自分の姿とは思えないほど全くの別人に見えますわ。
きっと、第二皇子殿下もそうだったのでしょう」
「あぁ、今のミュゼティアは昔とは全く違う」
「え?」
私とシュエルドの言葉に、エリーが分かりやすく戸惑う。
するとシュエルドは、エリーに甘く微笑みながら話し始めた。
「湖に身を投げる前のミュゼティアは、傲慢不遜で周りを振り回す最悪な女だった。
だがエリーと入れ替わってから尖った雰囲気がすっかり丸くなって…最初から記憶喪失にしてはおかしいと思ってたんだ」
「だ、だから私が本当のミュゼティア様じゃないって言った時にすんなりと受け入れてくれたんですか!?」
「当たり前だろう。別人じゃなきゃあの変貌ぶりは理解できない…が、エリーに打ち明けられるまでは確信が持てなかったんだ」
「そんな…私の演技がバレバレだったなんて……」
よく分からないことで悲しみ始めたエリーの背中を撫でて優しく慰めるシュエルドの姿に、私は鳥肌が立ちそうになる。
エリーがミュゼティアの姿をしているせいか、自分がシュエルドに慰められているようで気持ち悪いのだ。
お願いだから私の見えないところでいちゃついてほしい。
やがて互いの目を見て照れる2人の空気感に耐えきれなくなった私は、幸せそうな夫婦に横槍を入れる。
「邪魔するようで申し訳ないのですけど、お二人は何故私をここに呼んだの?
第二皇子殿下はミュゼティア・ルーデガルと結婚をしたのだから、今更元に戻りたいってわけでもないでしょうに」
エリーがミュゼティアとして結婚した以上、入れ替わりのことは互いに忘れた方が幸せなのだから、私のことは放っておくべきだ。
私がそう主張すると、シュエルドは再び苛立ちを露わにした。
「開き直ってエリーの身体を自分のものにするつもりか」
「ええ、そうよ。その代わりミュゼティアの身体も何もかもエリーの物になったわ。
それに貴方だって、私が入れ替わりをしなきゃエリーに出会えてなかったのよ。
そもそも私が入れ替わりをした時、エリーは瀕死の状態だったんだから」
そう言い返すと、シュエルドの表情は怒りから困惑した様子へ変化する。
そしてその隣にいたエリーも、悲しそうにこちらを見ていた。
「お前…エリーが死にかけているのを分かってて身体を交換したのか?」
「当たり前じゃない。入れ替わりは、魂が不安定な死にかけた人間同士じゃなきゃできないのよ」
入れ替わった後に生きるか死ぬかは賭けだ。
ミュゼティアは湖に飛び込むのを侍女が何人も見ていたから助かると分かっていたけど、エリーが助かるかは未知数だった。
だけど、それでも私はエリーと入れ替わることを望んだのだ。
「なんで、そんなことを……」
「別の人生を生きたかったから。
ただ、それだけよ」
本当は、それだけじゃない。
でも本当の理由をバカ正直に他人に話すほど、私は素直な女ではなかった。
「エリー、貴女の人生を奪ってごめんなさい。
でも、今ミュゼティアとして生きる貴女が幸せなら…これが私たちの正しい道だと思うの」
私は事の決着をつけるべく、エリーと真正面から向き合う。
「私はミュゼティアとしての人生に何の後悔もないし、未練もない。
貴女の結婚も見届けたし、これからはペルーセン王国で薬師として生きていくつもりよ。
だからお願い。エリーのことはもう忘れて、ミュゼティア・ルーデガルとして生きてちょう…」
「ダメです。ダメですよ、そんなの」
何故か私を見て泣きそうな顔をしたエリーは、私の手をとって両手でぎゅっと握り込む。
自分の記憶ではいつも冷たかったその手はとても温かくて、この子と私はやはり違うのだと少しだけ心が痛くなる。
「確かに今の私は幸せです。孤児の私には持てなかった優しい家族がいて、愛する人ができた……でも本当のミュゼティア様は生きてるのに、どうして平気な顔をして家族のフリができるんでしょうか」
「……父や兄は、貴女に優しいの?」
「えぇ、私のことをミュゼティア様だと思っていますから。
記憶喪失と言ってからは、かなり過保護になって…」
エリーの話に出てくる父や兄は、私の知っている父や兄とはまるで別人だった。
私の知っている父は決して私を視界に入れなかったし、兄は決して私を構うことはなかった。
それなのに、中身がエリーになった途端過保護になるなんて……どうやら彼女はとっくに壊れていた家族の仲さえも修復してしまったらしい。
幼い頃必死に父に怒ってもらおうとイタズラをしたり、兄の後を追いかけた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
(本当に……なんて、虚しいの)
私は、乾いた笑いを溢して話の際に緩んだエリーの手を解いた。
「ハハっ…なによ、全部私が問題だったのね」
「おい、ミュゼティアお前…」
「その名前で呼ばないで!!!」
突然叫んだ私に、シュエルドとエリーは驚いたように目を見開いて固まる。
しかし私はそんなことは構わず、言葉を続けた。
「皆が望んだミュゼティア・ルーデガルは、そこにいるじゃない……私じゃないわ」
お願いだから、これ以上私が要らない存在だったと突きつけないで。
愛されなかったのは自分のせいだと知ることが、どれほど苦しいか。
「私は孤児の生まれで、師匠に拾われてペルーセン王国で薬師になったエリーです」
大丈夫、大丈夫。
私はきっと別の場所でなら幸せに生きていける。
そう思い込みながらなんとか生きてきたのよ。
「だからどうか…私を自由にしてくれませんか?」
私は耐えきれず涙を一粒だけ流し、縋るように紫の瞳を見る。
すると、彼女は苦しそうな表情で微かに唇を噛み締め、そのまま深く頷いてくれた。
「…分かりました。それがミュゼティア様、いえ、エリーの望みならそうしましょう」
「本当に、それでいいのか?」
「はい。私は元々ミュゼティア様として生きていこうと考えていましたから、エリーには何の未練もないです。
ですから、シュエルド殿下もこれ以上追求しないでください」
「…分かった。だが、解放する前に一つ条件がある」
シュエルドはそう言って、どこか悩ましそうにこちらを見る。
「お前をここに連れてきたのは、会ってもらいたい人がいたからだ。
この国には、俺たち以外にお前が死んだと思っている人がもう1人いる。
本当は俺以外に本当のミュゼティアじゃないことを知られるつもりはなかったんだが…そうでもしなきゃ俺たちは結婚できなかったからな」
「結婚できなかった?」
本物の私だと思われてたらシュエルドと結婚できないなんて、意味がわからない。
そんなことをして得をする人間がどこにいるのか。
大体第二皇子の結婚を阻止できる権力を持つ者など、数少ないはずだ。
「いったい、誰がそんなことを…」
「本当に心当たりがないのですか?
私が思うに、あの方のミュゼティア様に対する執着は普通じゃありません。
心当たりがないのなら、このまま亡くなったことにした方がいいのではと思うのですが…」
そう心配そうに話すエリーに対し、珍しくシュエルドが厳しい表情をする。
「それはダメだ。今回の結婚式に出てこなかっただけで貴族に好き勝手噂されているというのに、このまま酒浸りの生活を送っていたら兄上は本当に廃されてしまう」
「兄上って…まさか、ランカルド兄様のこと!?」
噓だ。
何故、完璧主義のランカルド兄様が酒浸りの生活なんて送っているんだ。
あの人は私のことを憎み、何よりも嫌っていたはずなのに。
「違う…違うわ。ランカルド兄様は、私が死んで悲しむような人じゃない」
「俺もそう思っていたが…湖に身を投げて死にかけていたお前を見た時、誰よりも動揺していたのは兄上だった。
あの時から兄上はミュゼティアを気にかけるようになったが…中身は別人だ。
あれほど自分を慕っていた人間が何もかも忘れて弟と恋に落ちた姿を見て、兄上は少しずつおかしくなっていった」
「私たちが結婚をするという話になった時、皇太子殿下だけが強く反対しました。
宰相の娘は皇太子と結婚するべきだ、と頑なに主張して……」
「兄上に追い詰められた俺たちは、事実を話すしかなくなった。
今のミュゼティアはエリーという平民で、本当のミュゼティアは3年前に亡くなったのだと……最初は兄上も信じていなかったが、エリーの話を聞いていくうちに疑問に思っていたことの辻褄が合って、すぐにそれが本当のことだと理解した。
それから、兄上は俺たちの結婚に賛成すると宣言して…まるで人間が変わったかのように、酒浸りの生活を送るようになったんだ」
苦々しい表情で語るシュエルドの姿は、決して冗談を言ってるわけではないと分かる。
それでも、私は信じられなかった。
私が死んだことであの人が酒浸りになるほど絶望するなんて、そんなことはありえないはずなのだ。
「でも、ランカルド兄様は……」
「そこまで俺の言っていることが信じられないのなら、その目で見てくるといい。
エリー、少し待っててくれ。
この女を兄上の部屋まで連れていく」
「なっ、いたっ…!」
「ちょっとシュエルド殿下、乱暴はやめてくださいね!?」
シュエルドはそんなエリーの静止の声も聞かずに、私の腕を掴んで部屋を出て、ランカルド兄様の部屋の方へ向かう。
その途中、驚いた様子の侍従や侍女たちと何人もすれ違ったが、シュエルドは気にせずにどんどん進み、ランカルド兄様の部屋の前に辿り着くと部屋をノックしてから返事を聞かずに扉を開いて、私を中に押し込んだ。
「ちょっと…!」
「お前のしでかしたことだ。自分で責任を取れ」
そう冷たく言い放ったシュエルドはガチャンとしっかり扉を閉め…そして薄暗く酒臭い部屋に残された私は、部屋の主人と向き合うこととなった。
「…誰だ?」
何度も聞いた程よく低くて聞き心地の良い声が聞こえて、私はカーテンが締め切られた窓辺の近くに置かれたテーブルセットの方へ目を向ける。
すると、そこにはセットされていない髪に白いシャツを着崩した状態で、ソファに身を委ねながら気怠そうにこちらを見るランカルドがいた。
その手にはウイスキーがなみなみと入ったグラスが握られていて、頬も心なしか赤らんでいる。
(本当に、昼間から酒を飲んでいるのね……)
いつも完璧な姿しか周囲に見せなかった彼が、一体どうしてこうなってしまったのか。
実際にこの目で見ても、この事態が本当に私のせいだとは信じがたかった。
「あ…新しく配属された侍女です。
第二皇子殿下から直々に、皇太子殿下のお部屋をお掃除するようにと……」
「シュエルドが?
アイツ、自分の結婚式に俺を構うなんて…一体何様のつもりなんだ!」
私が咄嗟についた嘘に、ランカルドは苛立ちをぶつけるように手に持っていたグラスを地面に叩きつける。
それは、ガシャン!と大きな音を立て、中身のウイスキーはカーペットに染み込んでいった。
「出て行け、この部屋に誰も入れるな!」
普通の侍女なら、ここで立ち去る。
私にとってもこれは逃げるチャンスだ。
(でも……この人を、このままにはできない)
もう全部手放したはずだったのに。
どこまでも未練がましい私は、目の前で苦しむ彼のことを見捨てられなかった。
「…皇太子殿下、窓を開けさせていただきますね」
そう言って返事を聞く前に私は締め切られていたカーテンを開けて、そのまま窓を開ける。
すると涼しい風を吹き込んできて、私が大好きだった黄金色の髪と瞳が陽に照らされて輝いた。
やっぱり、ランカルド兄様はどんな時も太陽が似合う人だった。
「何故、勝手に開けるんだ。これもシュエルドの命令か?」
彼に嫌そうな顔で睨みつけられるのは、もう慣れっこだ。
最後にもう一度嫌われ役をするくらいなんてことない。
私は自分にそう言い聞かせ、顔に笑みを浮かべる。
「いえ、私の独断です。
皇太子殿下はただ陽の光を長いこと浴びてないせいで、心がおかしくなられてしまったのだと思ったのです」
「何を…事情も知らぬ侍女が好き勝手言うな」
「では、本当に亡くなられたミュゼティア様がお好きだったのですか?」
私がそう問いただすと、ランカルド兄様は驚いたように目を見開く。
何故侍女ごときがその事実を知っているのかという意味だろうが、私はそれを聞かれる隙を与えずに、彼が動揺しているうちに自分の悪口を言うことにした。
「皇太子殿下は、ミュゼティア様のことを酷く疎んでいたでしょう。
それに湖に落ちて死にかける前の彼女は、とんでもない悪女でした。
殿下に近寄る女にはあらゆる嫌がらせをして、自分が一番じゃないと許せないと癇癪を起こす。
第二皇子殿下と皇太子殿下の仲だって、ミュゼティア様が居なければもっと良かったかもしれない」
「お前に、ミュゼティアの何が分かる?」
私の言葉に怒ったランカルドは私をその場に押し倒して、首に軽くその手をかける。
しかし、それでも私は自分を罵ることを止めなかった。
「何が分かるですって?
ミュゼティア・ルーデガルは、孤独で愛を知らなくて、唯一優しくしてくれた人に嫌われても縋り続けた馬鹿な女よ。
そして貴方にとっては、皇后陛下が自殺なさった時、様子のおかしかった皇后陛下の元へ向かおうとした貴方を引き留めた憎むべき女。
それ以上でも、それ以下でもありません」
首に添えられた手に自分の両手を合わせ、上から徐々に力を込める。
(とっくに分かっていたの。
ランカルド兄様の私に対する気持ちは憎しみだけ)
憎むべき私が勝手に死んでしまったことで貴方がこんなにも苦しんでいるのなら、また殺せばいい。
それで貴方が幸せになれるのなら…私は喜んで新しく手に入れた人生も差し出す。
『ミュゼティア、大好きだよ』
そう言って花冠をくれた貴方に、幼い私の心は救われた。
人生で初めて…幸せだと思えたの。
(だから、貴方のことは私が幸せにしたかった)
「貴方の知るミュゼティアはもう死にました。
それでも許せないのなら、私を殺してください。
そして私を殺したら、ミュゼティアのことは忘れ、皇帝の座を手に入れて幸せになってください」
そんな私の言葉に、ランカルド兄様の瞳が揺らぐ。
こんなことで動揺するなんて、貴方らしくない。
貴方の望みは、誰よりも近くで見ていた私が一番知っている。
皇帝陛下が自分よりも側室を愛していることに気づいて絶望し命を絶った皇后陛下の姿をその美しい目で見た貴方は、母の望んでいた通りの完璧な皇帝になることを目指し生きてきた。
私はそんな貴方の隣に立ち、唯一の妻として貴方を支えることを夢見ていたけれど…
『思い上がるな、ミュゼティア。
お前が私の婚約者になることなぞ、未来永劫ありえない。
お前の存在そのものが、私にとっては不快なのだから』
それは私の役目ではないのだと、他の誰でもない貴方に突きつけられた。
「あなたのめざ、した、かん、ぺきな、こう、ていに……」
彼の手を通してかけられる自分の力によって首が締まり息苦しくなった私は、涙を溢しながら微笑む。
例え隣に立つのが私じゃなくても、貴方の目指した完璧な皇帝になってほしい。
……いや、これは噓だ。本当は、その隣は私が良かった。
どれだけ悪女と周りに謗られても、貴方の隣に立っていたかった。
(だけど、他の誰でも無いランカルド兄様が私に消えてほしいと望むのなら……)
このまま私がかけた力を彼が同じようにかけてくれれば、きっと死ねるはず。
邪魔者が死んだら、今度こそ本当のハッピーエンドだ。
そう思いながらさらに手に力を込め、心地よく意識を手放そうとした次の瞬間。
強い力で首にかけていた手は振り払われ、振り払われた手はそのまま地面に押さえつけられた。
「っごほっ、ごほ……」
「っミュゼティア、お前は何故いつもこんなに人を振り回すんだ!?」
急に気道が広がって咳き込む私に対して、ランカルド兄様は怒鳴り、ポトポトと私の頬に涙を溢した。
「だから、ミュゼティアは死んだと言って…」
「じゃあ、何故母上のことを知っているんだ。
あの日のことを知っているのは限られた人間だ」
そうだった。前皇后が自殺したことは、陛下の命令によって緘口令が敷かれて公には伏せられている。
その日皇城に居合わせたミュゼティアは知っているが、居なかったシュエルドは知らないのだ。
「あの日、お前は母上が私を道連れにしようとしていることを察して、頑なに私の手を離そうとしなかった。
それを分かっていたのに、私はお前を憎むことでその事実から逃れようとして、わざとお前を傷つけたんだ……」
そんなランカルド兄様の懺悔のような言葉に、私は皇后陛下が死んだ日のことを思い出す。
6歳の頃の話だというのに、不思議とあの日のことは鮮明に覚えていた。
『ランカルド、お母様と一緒にお菓子を食べましょう?』
『あ、母上、今行き……』
『ダメ!ランカルド兄様は、私といなきゃダメなの……皇后陛下、おねがいします』
何かポッカリと空いたような虚ろな目をした皇后が怖かった私は、ランカルド兄様を彼女に渡すまいと皇后の元へ向かおうとする必死にその手を引っ張った。
すると彼女は、思っていたよりあっさりと引き下がったのだ。
『…そう。貴女はランカルドのことが大好きなのね。
それなら、連れて行くのはやめましょう』
『そんな、母上待って……』
『ランカルド兄様、今はミュゼティアと遊ぶ時間でしょう?
はやく、花冠を作りに行こう』
去って行く皇后の背中を寂しそうに見つめるランカルド兄様を、私はそのまま庭園へと引っ張っていった。
その後しばらくして、ようやくランカルド兄様が皇后を訪ねた時。
皇后はすでに毒を飲んで死んでいたという。
それからだ。
いつも甘く優しかった彼が、氷のように冷え切った目で私を見るようになったのは。
「…それでも、私はミュゼティアじゃありません。
私はただの平民で薬師のエリーですから、どうかもう離してください」
過去がなんだというの?
私が貴方と皇后を引き離したのは覆らない事実なのに、今更美談として話すことなんてできるはずがない。
それに、私はもうミュゼティアじゃないのだ。
「構わない。お前がミュゼティアだろうと、エリーだろうと、それがお前自身であるならば……ずっと、私の側にいて欲しいんだ」
何よりも私が欲しかった言葉を吐きながら、彼は懇願するように私の肩に自分の額を擦り付ける。
分かっている。
彼はこうすることで、少しでも私の同情を引こうとしているのだ。
それが分かっているのに…心が揺らいでしまう私は、どこまで愚かなのだろう。
「…ランカルド兄様はずるいですわ。
いつも私が望んだものを奪うくせに、自分の望みは叶えてほしいなんて」
私が貴方の隣に立ちたいと願った時は私を突き放して、私が貴方から離れたいと願った時は私を掴んで離さない。
ランカルド兄様は私が人を振り回していると言うけれど、そんな私を振り回しているのはいつだってランカルド兄様だった。
「私は死でもなんでもいいから、貴方から離れて自由になりたかった。
それがランカルド兄様にとっての幸せで、私にとっての幸せだと思ったから」
あまりに長く、苦しすぎる恋だった。
もはや、依存に近かったのかもしれない。
『貴方の幸せに、私はいないのね』
だからあの日、貴方に突き放されて絶望した私は、母が私に遺してくれた魔術の本で見た入れ替わりの秘術を実行した。
死にかけた者同士の魂が入れ替わるという嘘か本当かわからないものに私は縋りつき、微かな希望を託したのだ。
どうか、ランカルド兄様が私から自由になれますように…と。
「だから、ランカルド兄様もどうか私を自由にしてくださいませ。
私がようやく貴方の手を離せたように、貴方も私の手を離してください」
今の私は平民で、そのうえ事故の後遺症を抱えている。
皇太子であるランカルド兄様の隣に立つには、到底相応しい人間ではない。
だからきっと、私たちはこのまま別れるのが正解だ。
そう、心の底から思っていたのに。
「…ミュゼティア。
辛そうに泣くくらいなら、嘘なんて吐くな」
困った顔をした彼は手を抑えるのをやめて私の体を起こし、知らぬ間にポロポロとこぼれ落ちていた涙を親指で優しく拭う。
その時浮かべる甘い表情は、幼い頃に私が恋をした彼にそっくりだった。
(あぁ、やめて。私は貴方を諦めようとしているのに)
「嘘なんて…嘘なんて吐いてません。
私はただ自由になりたいんです」
「なら、お前は自由になって一体何がしたいんだ?」
彼の真を突くような質問と真っ直ぐな視線に、私はたじろぎながらなんとか答える。
「薬師として、困ってる人々に安価で良質な薬を…」
「それなら薬師として働くより、私の隣に立った方がより多くの人に安価で良質な薬を届けられるだろう。他には?」
「私だけを愛してくれる人を探して、温かい家庭を…」
「私と築けばいい。他には?」
「ぺ、ペルーセン王国に行って、師匠たちに会いに…」
「頻繁には無理だが、会いに行くことは可能だ。私も会ってみたいし、今度一緒に行こう。他には?」
「他には…えっと……」
「無いのだな。それなら、ミュゼティアは私の隣にいても変わらず自由だということだ。
そうだろう?」
そう無理やり結論づけたランカルド兄様は、私を強く抱きしめた。
「愛している、ミュゼティア。
ずっと私の側にいてくれ」
突然与えられたずっと欲しかった言葉に、私は息が止まる。
(ランカルド兄様が、私を愛している…?)
そんな、夢みたいなことがあっていいのだろうか。
「お前を失ってやっと気づいたんだ。
私が間違っていた、どうか許してほしい。
もう2度とお前を失いたくないんだ……」
私を決して離しはしないと言わんばかりに強く抱きしめておいて、その声はまるで捨て犬のようにか細く震えている。
その必死さは、かつて彼を追いかけていた自分の姿を彷彿とさせた。
(本当に、私を愛しているのね……)
かつて私が縋りついていた人が、今では私に縋りついている。
たったそれだけで、ボロボロになったはずの心は満たされて……性懲りもなくまた目の前の光に手を伸ばしたくなってしまった私は、そっと彼の背中に手を添えた。
「ランカルド兄様ったら、本当に酷い人」
ずっと、自由に生きたかった。
こんな報われない恋心も、傲慢不遜な悪女の地位も、何もかも全部捨てて…新しくやり直すことで自由になろうとした。
…でも、本当は気づいていた。
自分の心に従って生きられない私は、永遠に自由になどならないのだと。
「もう2度と離さないでくださいませ」
ようやく手に入れた人を逃さないよう、涙をこぼしながらギュッと抱きしめる。
絶対に手に入らないと思っていたこの匂いも、温もりも、心も……全部、知ってしまったから。
「私も、貴方を愛していますわ」
私はきっと、貴方の側でしか自由に生きられないのだ。