先生の一番弟子
先生が怖い顔をしている。外からは夜になったのに、蝉の鳴き声が聞こえる。室内はエアコンが効いているが、蒸し暑い夜が始まろうとしていた。
「うん、スランプだな、うん」
そう言った先生に「違いますよ。いつものことじゃないですか、先生」そう言った私は、小説家の先生の弟子として弟子入りさせてもらっていた。あれから何年経ったのかはもう忘れた。
「だがな、ミサキ君」
「ミサキ君じゃありません」
「君はミサキ君だろ?」
「ミサキですが、そんなことはいいので、真剣に考えて下さい。怒りますよ?」
きっと睨むと、
「君は毎度手厳しいね」と、いつものやり取りだった。
そもそもは、私が先生の作品の大ファンで、いつか自分でも書いてみたいと思い、先生の家に行き弟子入りを志願したことからだ。
最初先生は、弟子を取ったこともないし、そんな身分でもなからと弟子入りは断られていた。しかし、私が毎日のように押しかけ、先生が折れて弟子入りを認めてくれた。その時は天にも昇る気持ちだったのを覚えている。
今では懐かしい思い出だ。
「先生、夜なのに蝉が鳴いていますね」
「そうだな。鈴虫なら風流というものだが、蝉というやつは…はっ、グッジョブだ、ミサキ君」
「私、何もしていませんけど?」
「集中するから静かにしてくれたまえ」
そう言うと、先生は驚異的な集中力を発揮し、原稿を書き上げてしまった。
「中々の出来だと思うぞ」
これがプロの作家なんだなと私は思い知らされた。
私も先生みたいに…。
「先生、お疲れ様でした」
「ああ、ありがとう」
「何かお飲みになりますか?」
「コーヒーを頼む」
「わかりました」
私は先生のお気に入りの銘柄の豆のコーヒーを淹れにキッチンに行った。今では慣れたものである。
キッチンから戻り、先生にコーヒーカップを手渡した。
「ありがとう。うん、美味いな。実に美味い。疲れが取れるかのようだ」
「お粗末様です」
「いや、コーヒーを淹れることに関しては、君は自慢してもいいと思う。それ程に美味い」
「そんなものなんでしょうか」
先生はコーヒーを啜りながら「それで君はいつデビューするのだ?」
「あ、嫌だ私ったら。言い忘れていましたが、来週の週刊新時代ですよ。連載です」
「そうか、それは目出たいな。おめでとうだ。それなら、いっそ引っ越して来ないか?家はムダに広くムダに空き部屋も多いからな。毎日のように通うのも大変だろう」
「ありがとうございます。でも、よろしいんですか?」
「ああ、連載を抱えるなら身軽な方がいいからな」
「それ…それだけですか?」
「いや、それもあるが、君は私の弟子であろう?しかも、唯一の弟子だ」
「それだけ?」
「君は私の唯一の一番弟子だ」
「う~ん、もう一押し」
「ええい、ずっと一緒にいて欲しい」
「まあ、仕方ないか。今回はそれで合格にします」
「手厳しいね」
「私は甘々ですよ」
「そうかね」
「そうです」
「傍にいてくれたまえ」
「はい、ずっとですよ」
「ああ、もちろんだ」
「はい」
先生の一番弟子