能面をどこに置いてきたのですか!? 侯爵様っ!
この国の筆頭侯爵であるルイス・キュヴィエ侯爵は、弱冠二十歳にして、アルフレッド王太子殿下の腹心の部下であり、宰相。
容姿端麗な彼は、アッシュゴールドの少し長い髪をポニーテールにしている。凛々しいオパールグリーンの瞳をひとたび向ければ、周りのご令嬢が卒倒するという逸話を持つ。
しかし、綺麗な顔立ちながら、その笑顔を見た者は誰一人いない。
彼は、「能面侯爵」と呼ばれていた。
☆☆☆
「エヴァ、よく来てくれたね。嬉しいよ」
「は、はひ……」
エヴァは目の前で甘く微笑むルイスに引いた。ドン引きである。
「俺は、君に出会うために生きてきたんだと思う」
「は、はあ……」
甘いのは言葉だけではなく、吐き出す言葉もだった。エヴァはライラック色の瞳を瞬かせながらも、心はどんどんと引いていく。
「562人目の君こそが、俺の唯一だ」
(562じゃなくて?!)
噂とまったく違う目の前のルイスをエヴァはじっと見る。
「どうしたんだい?」
「い、いえ……」
エヴァに気付き、優しく微笑んだルイスに慌てて目を逸らす。
(えっ? 誰?)
引潮のように引いていく自身の心に問いかけながら、エヴァはここに来た理由を思い返す。
エヴァは562人目のルイスのお見合い相手だった。
社交界で人気の彼は、引く手あまたながらも、恋人を作らない堅物だった。
そんな所がいいと、ご令嬢にいつも囲まれるが、その能面を崩すことなく、何人ものご令嬢が玉砕してきた。
爵位を継ぐ前から彼には山程のお見合いが設けられた。しかし、釣り合う家柄のご令嬢も、美人と有名なご令嬢も片っ端から断る彼に、両親も躍起になってお見合いをセッティングしているのは社交界きっての噂だった。
皆が次は自分だと期待し、玉砕していく。500人のご令嬢の屍が転がる頃には、下位の貴族令嬢にも声がかかるようになった。
エヴァはドノン男爵家の一人娘だった。
ドノン家は元々商家。先代の祖父が事業を大きくし、爵位を買ったのだ。それをエヴァの父が引き継いだ。
領地は持たないが、王都で手広く商売をし、成功している。
エヴァは父に連れだって社交の場に何度か顔を出したが、新参者の、しかも格下の男爵令嬢は悪意をぶつけられる恰好の的だった。
嫌気が差したエヴァは、社交界にあまり顔を出さなくなった。
ルイスのことは噂で知っていたし、実際に見かけたこともある。
(綺麗な顔だけど、冷たい人だと思っていたのよね)
死屍累々のご令嬢たちを見たエヴァが、ルイスに抱いていた印象を思い返す。
「エヴァ、君の家の商会が扱う焼き菓子ですまないが、俺は他に美味い店を知らない。さあ、食べてくれ」
「毎度ありがとうございます?」
エヴァが目の前のルイスに戸惑っているとも知らずに、彼はにこやかに焼き菓子を勧めてきた。
ドノン商会が扱う商品は手広く、このお見合いのテーブルに並ぶ焼き菓子もその一つ。
美味しいと王都では評判だが、とある令嬢からとんだ仕打ちをされ、苦い思い出もある物だった。
「エヴァ、この菓子は君の真心がこもっていて胸に染みるよ」
「キュヴィエ侯爵様、大げさです……って、私が作っているのをご存じなんですか?!」
相変わらず甘い表情でエヴァを見つめて話す彼に恥ずかしくなったが、ルイスがエヴァの仕事について知っていたことに気付き、驚いた。
エヴァは小さい頃からお菓子作りにはまり、多数のお菓子職人に弟子入りしては物にし、を繰り返すうちに、その道を極めてしまったのだ。
そんなエヴァに父は店を与え、瞬く間に人気店になった。
しかし、貴族の令嬢が職人、ましてや働くなど、社交界ではバカにされた。そのうちエヴァは店の職人であることを隠すようになったのだが……。
(まさかキュヴィエ侯爵様がご存じだったなんて……しかもバカにするどころか……)
自分の作ったお菓子をわざわざ購入してくれ、褒めてくれたルイスにエヴァは今更ながら顔が赤くなる。
「エヴァ……、俺のことはルイスと呼んでくれないか?」
「え、でも……」
赤い顔のエヴァに気付かないのか、ルイスは追い打ちをかけるように甘い言葉を吐いた。
「俺たちは結婚するんだよ? 名前で呼び合うのは当然だろう?」
(なんと!!)
お見合いして数分で結婚が決まっていたことにエヴァは驚愕した。
「エヴァ、お見合いに来てくれたということは、その気があるということだろう? どうか俺と結婚してくれないか?」
「……はい」
エヴァは逡巡したのち、すぐに返事をした。
自分もルイスに断られ、ご令嬢たちの屍の山に加わると思っていたのに。
(よくわからないけど、侯爵様の申し出をうちが断れないものね)
キュヴィエ侯爵家は商会のお得意様でもあった。前侯爵様の代から懇意にしてもらっていたが、お見合い話まで来た時はさすがにエヴァの父も驚いた。
「ではすぐにドノン男爵に申し入れをするから待っていて欲しい」
「はい」
エヴァの返事に顔を赤らめ喜ぶルイスに手を握られる。
「君のウエディングドレス姿が楽しみだ……」
「あの、婚約期間もありますし、気が早いのでは?」
貴族間の結婚は王族と教会の承認の元、半年以上の婚約期間ののち、結婚に至る。
エヴァはもしかしたらルイスが婚約期間中に気が変わるかもしれないと考えた。が、ルイスはそんな心内を否定するかのように言った。
「ああ。婚約期間最短の半年では式の準備期間など足りないくらいだから、早いということは無いだろう。君との恋人期間も魅力的だが、俺としてはすぐに結婚したい」
「そ、そうですか」
ルイスの直球な言葉にさすがのエヴァも心臓が跳ね上がり、赤くなる。
どうしてなのかわからないが、ルイスはエヴァとの結婚を強く望んでくれているようだった。
引き潮のように引いていた心が満ちるように、自身の胸が高鳴るのをエヴァは感じた。
「半年後、すぐに迎えに行くが、式の準備をしつつ、短い恋人期間も大切にしような」
「?!」
ルイスに握られていた手にちゅ、とキスをされてエヴァは飛び上がる。
「もう婚約者なのだから、いいだろう?」
そう言って綺麗な顔を怪しく微笑ませたルイスにエヴァは言葉が出なかった。
(結局、能面侯爵様はどこに行ってしまったんだろう……)
終始甘い態度のルイスに困惑しながらもお見合いは無事に終わった。
☆
「ただいまぁ」
ドノン男爵家の屋敷は王都の中心部にほど近い所にある。
ドノン商会の店が王都のあちこちにあるため、店が円滑に回るよう賜った土地だ。エヴァの店もここからほど近く、歩きで通えるほどだ。
「エヴァちゃん! どういうこと?!」
玄関に足を踏み入れると、使用人が出迎えるよりも早くエヴァの父が走りこんできた。
「お父様、只今戻りました。そんなに血相を変えてどうされたんですか?」
慌てる父に続いてやって来たメイドのウルに鞄を預けながらエヴァは尋ねた。
「キュヴィエ侯爵だよ! お見合いの返事! 是非ともエヴァちゃんと結婚したいって!」
「えっ?!」
父の言葉にエヴァはまたしてもドン引きする。
(え? 私、馬車でまっすぐに帰って来たわよね? それよりも使者が早く辿り着いたってこと?)
キュヴィエ侯爵家の馬車とはすれ違いもしなかった。
(すぐに申し入れると仰ってはいたけど……)
本当にすぐだったことにエヴァは呆然とした。
「何で? 何でそんなことになってるの?! 先代様からはどうせ秒で断るからって聞いてたのに!」
「それはそれで失礼な話を、お父様もよく受けましたね?」
子供のように駄々をこねる父にエヴァは呆れたように言った。
「だって、先代様の頼みを断れないじゃない。先代様も意地になってたけど、誰でもいいってわけじゃないからね? うちの可愛いエヴァちゃんでダメなら諦めたほうがいいって言ったら頷いてたし」
「お父様はお父様で何言っちゃってくれてるのかしら?」
「いや、だからね、現侯爵様は女嫌いなんだろう、って思ってたわけさ」
父の言葉を聞いて、エヴァは今日のルイスを思い返す。
(女、嫌い……?)
数々の甘い表情と台詞を思い出すだけで顔から火が出そうになる。
「ああ~、さすがの侯爵様もエヴァちゃんには陥落したか!」
「お父様は親バカを何とかされた方がよろしいですわね」
「私もお嬢様以上に素晴らしいご令嬢はいないと思いますよ」
鞄を手に静観していたメイドのウルが会話に入る。
「ええ? ウルも身内贔屓ね!」
エヴァはウルの言葉に喜びながらも、本気には取らなかった。そんなエヴァにウルは熱弁する。
「本当のことですから! お嬢様は私たちの孤児院にお菓子の差し入れや援助だけではなく、仕事まで与えてくれて……。私たちの神様なんです!」
「ええ、大げさだなあ。私のしていることなんてちっぽけだし、貴族なら当たり前じゃない?」
ウルの熱弁を受けて、エヴァは眉尻を下げて微笑んだ。
エヴァは自身の店を任されてから、売り上げの一部を王都にある孤児院に寄付をしていた。
休みの日には手作りのお菓子を持参し、子供たちと遊ぶ。
成長した子供たちの働き口が無いと聞けば、自分の店やドノン商会での仕事を口利きした。
ウルは最初に面倒をみた孤児院の女の子で、歳も近いことからエヴァ専属のメイドをやってもらうことになった。
「私は皆が頑張って働いてくれているおかげでお店を続けられているから、むしろ感謝するのはこっちの方なんだけどな」
「お嬢様……」
エヴァの言葉にウルが感動して泣きそうになりながら見つめる。
「それに、孤児院には匿名で多額の寄付をされている方がいらっしゃるでしょう? その方のおかげで孤児院は成り立っているわ。私なんて微々たる物だもの。しかもそれをひけらかすことなく、陰で支えてくださって……なんて奥ゆかしい方なのかしら」
「お嬢様、まるでその方に恋をしているようですね」
「ええ? 女性かもしれないでしょ?」
ウルの言葉にドキリとしながらもエヴァは笑ってみせた。
エヴァが密かにその匿名の人に会ってみたいと思っていたのは本当だからだ。子供たちの笑顔を守ってくれているその人が、どんな人だろうと想像してはときめいていた。
醜い争いばかりの社交界で、いつか出会えるかもしれないとも期待した。
それは、貴族社会にうんざりしていたエヴァにとっての心の支えだった。
「それに、私はキュヴィエ侯爵様との婚約が決まったから……」
エヴァは寂しそうに微笑んだ。
(会えるかわからない方を探すのも終わりね。ルイス様とのことを考えないと)
「お嬢様…………」
そんなエヴァにウルがかける言葉を迷っていると、父がエヴァのピンクブラウンの頭に手を置いて優しく微笑んだ。
「寄付額も必要だけど、エヴァちゃんは実際に足を運んで孤児院に携わってる。それも立派なことだよ」
「ありがとう、お父様」
エヴァの胸奥の淡い期待には気付かず、父はエヴァを慰めた。
「ふふ、それにキュヴィエ侯爵家ですもの。もしかしたら私の活動を援助してくれるかもしれないわ」
お見合い時のルイスの態度を見るに、エヴァに好意的なのは確か。エヴァはそのことを期待して目を輝かせた。
「う、うーん、しかしそれほどまでとは……困ったな」
「まだ何かあるんですか?」
歯切れの悪い父にエヴァが詰め寄る。
「実は、エテュアン侯爵家の一人娘、イザベラ様がルイス様に夢中らしくてね……。今回のお見合いが破談なら、イザベラ様と婚約する話が出ていたんだ」
「何ですって?!」
知らなかった情報を父から聞かされたエヴァは、ある推測に行き着いた。
☆☆☆
次の休日、エヴァは手作りのマドレーヌを持って孤児院に向かった。
我ながらいい出来だと、店から上機嫌で馬車乗り場まで向かう。近道だからと、人通りの少ない路地裏に入ると、向こうからも人がやって来た。
「あら、泥棒猫じゃない」
すれ違いざまに声をかけてきたのはイザベラだった。
(げっ!!)
ミルキーブロンドの長い髪を巻き上げ、赤い瞳は鋭くこちらを睨んでいる。イザベラが目深にかぶっていた豪奢な帽子を上げ、その顔を見せるとエヴァはつい嫌悪の表情を出してしまった。
エヴァはイザベラが苦手で嫌いだった。前にお茶会で自分の店の菓子を目の前で捨てられたからだ。
「相変わらず、汚らしい活動をなさっているのね? まあみすぼらしいそんなお菓子でも、あの汚らしい人種は喜ぶものね」
いつもは自分が何を言われてもエヴァは我慢した。
でも今日は言わずにはいられなかった。
「汚らしいってなんですか?! あなたと同じ人間ですよ?」
薄ら笑うイザベラをエヴァが睨みつけると、彼女はこめかみに青筋を浮かべながらも笑みを崩さなかった。
「一緒にしないでくださる? 私は侯爵家の人間なのよ」
「侯爵家とおっしゃるなら、彼らを守ることこそ使命ではありませんか?」
「男爵家の人間なんかに語られたくないわ。そんなの下賤なあなたがやることよ」
「あなたは…………っ!!」
イザベラの言葉にカッとなるも、エヴァは口を噤んだ。
(この人とは永遠にわかり合えないわ)
日頃の彼女の態度からも相まって、エヴァは話し合うのを諦めて馬車乗り場の方角へと身体を向けた。
「待ちなさいよ! 本題がまだよ!」
イザベラの叫びと共に、彼女の護衛にエヴァは腕を掴まれる。
「…………何ですか?」
腕を掴まれたまま振り返ると、眉を吊り上げたイザベラに迫られる。
「あなた、ルイス様との婚約、辞退なさい」
(やっぱり)
イザベラの言葉にエヴァは自分の推測が正しかったことを確信する。
(私が男でもこんな人と結婚なんて嫌だもの。侯爵様はきっと私との婚約期間を隠れ蓑にしたいのだわ。最短の半年と言ったのも、それまでにケリをつける、という意味なのだわ)
エヴァは確信する。間違った方向に。
(侯爵家ならばきっと慰謝料をくださるわよね? そうしたら孤児院を改築出来ちゃうかも?!)
自分が間違っていることに気付かないエヴァは、喜々としてイザベラに向き直った。
「お断りします!!」
「んなっ……?」
きっぱりと、なぜか笑顔のエヴァに、イザベラの笑みもいよいよ崩れる。
(そうよ! 侯爵様をこんな意地悪い人から守ってあげなきゃ!)
エヴァの強い決意の宣言にイザベラは少し怯んだが、すぐに護衛に合図をした。
「あっ!」
護衛に腕を掴まれたままのエヴァは彼にもう片方の手でマドレーヌを奪われる。
「あんな孤児院、捻りつぶすくらいわけないのよ?」
「返して!」
護衛からマドレーヌを受け取り、片手で掲げるイザベラにエヴァが近寄ろうとするも、護衛によって両手を強く拘束されてしまう。
「痛っ……」
エヴァが顔をしかめると、イザベラに笑みが戻る。
「さあ、この汚いお菓子のようになりたくなければ、ルイス様との婚約を辞退なさい!」
イザベラはマドレーヌを地面に叩きつけると、足で踏みつけようとした。
「なんてことを!! やめて!」
エヴァの叫びを無視してイザベラが嘲笑う。
「下層の男爵家の娘がルイス様にふさわしいと思って?! さあ、約束なさい!」
イザベラの言葉と同時にエヴァを締め上げる護衛の力も強まり、エヴァは苦痛で顔を歪めた。
「誰が誰にふさわしいって?」
この路地裏にいなかったはずの声がしたかと思うと同時に、エヴァを締め上げていた護衛のうめきがした。
「痛たたたたた!!」
護衛の拘束が緩まり解放されたエヴァは今度は逞しい腕に肩を寄せられた。
「侯爵様?!」
イザベラの護衛を片手で捻り上げていたルイスは、彼を地面に突き飛ばすと、エヴァに顔を向けた。
「エヴァ、大丈夫かい? ケガは?」
「大丈夫です。それよりどうしてここに……」
相変わらず甘い表情を向けてくるルイスにホッとしながらも、エヴァは疑問を口にした。
「君に何かあればすぐに伝令を飛ばすように部下に命じてあったからね」
「えっ?」
(それって、監視がついてたってこと……?)
当然のように話すルイスにエヴァが引く。
「それより、どうして名前で呼んでくれないんだい?」
「あの、えっと……」
顔を至近距離まで寄せられ、甘く懇願してくるルイスに、エヴァは赤く、しどろもどろになる。
(な、なんか、監視の話をうまくごまかされたような……!!)
「ルイス様!!」
エヴァがルイスから思いっきり目を逸らしたところで、イザベラが叫んだ。
「俺の婚約者に何の用だ、エテュアン侯爵令嬢」
ルイスの背中に隠すように追いやられ、彼の表情は見えないが、エヴァはひやりと冷たい空気を感じた。昔、ご令嬢たちを死屍累々にしていたルイスを思い出す。
「か、彼女との婚約はまだ承認されていないはず!! 私もあなたの婚約者候補ですのよ! ルイス様!」
他のご令嬢とは違い、イザベラは諦めずにルイスに訴えた。
(わー、本当に侯爵様に夢中なんだなあ。でもこの人だけはやめた方がいいです。うんうん)
ルイスの背中の後ろでエヴァは二人のやり取りを見守る。
「彼女との婚約披露パーティーは明日だ」
「「へっ」」
ルイスの言葉に、イザベラもエヴァも目を大きく見開いた。
「君も祝福に来てくれるのか?」
後ろのエヴァを引き寄せ、ルイスはイザベラに挑戦的な目を向けた。
「そんな、ルイス様……っ」
「ああ、それと、君に名前呼びを許可した覚えは無い。俺を呼んでいいのはエヴァだけだ」
ちゅ、とルイスの唇がエヴァの頭に触れる。
(ひええ!!)
エヴァが顔を赤く爆発させていると、イザベラは手にしていた帽子を唇に噛みしめながら、涙ながらに叫んだ。
「あんまりだわ!!」
バタバタと路地裏を去っていくイザベラの後を、座り込んでいた護衛が慌てて追いかけて行く。
それを見送り、エヴァがルイスに苦笑しながら言った。
「ルイス様の思惑通りとはいえ、少し可哀相でしたかね……?」
「エヴァは優しいな」
ルイスは優しい微笑みをエヴァに向けると、再びキスを頭に落とした。
(ひええ!!)
飛び上がるエヴァを尻目に、ルイスは先ほどイザベラが地面に叩きつけたマドレーヌまで歩いて行く。
(あ……。あれはもう、皆には持っていけないわね)
しょんぼりとするエヴァにルイスがマドレーヌを拾い、問いかけた。
「エヴァ、今日は別の菓子を用意させるから、これは俺がもらってもいい?」
「えっ! 汚いですよ?」
「中身は無事だよ」
ルイスはエヴァに微笑むと、マドレーヌの入った袋を開け、中身を取り出した。
(ええ?! 侯爵様ともあろう人が、地面に落ちた物を?)
驚くエヴァに近寄りながらも、ルイスはそのマドレーヌを口に頬張った。
(ほ、本当に食べちゃった……)
「うん。君が子供たちのために心をこめて作ったものだ。美味しくて、涙が出そうだ」
「大げさです……」
落ちたマドレーヌを食べ、手放しで褒めてくれるルイスに、エヴァの方こそ泣きたいような温かい気持ちになる。
「あれ? でも侯爵様、私の活動を知っていらっしゃったのですか?」
はた、とルイスに疑問を投げかけると、彼はにっこりと笑って言った。
「愛しいエヴァのことなら何でも知っているよ?」
「イザベラ様を退けたのだから、もうそんな甘いこと言わないでください」
「ん?」
ルイスの甘さに耐えられず、顔を赤くしながらもエヴァが訴えると、珍しくルイスが変な顔をした。
「イザベラ様との結婚が嫌だから私を隠れ蓑になさったんですよね?」
「……………………なるほど」
エヴァの言葉に数秒考えこんだルイスは、納得した。
「とりあえず、明日の婚約式には出席してくれるかな?」
「はい! お任せください! 最後まで気を抜けませんものね!」
エヴァはまた勘違いをしながらも、意気揚々と返事をした。
「明日が楽しみだね?」
含みのある笑顔でにっこりと笑うルイスにエヴァは気付かない。
(この人、本当に能面侯爵様?)
エヴァの前で色んな笑顔を見せるルイスに首を傾げるのだった。
☆☆☆
「ああ、思った通りだ。綺麗だよ、エヴァ。もちろんそのドレスはドノン商会から購入した物だよ」
「毎度ありがとうございます?」
婚約披露パーティー当日。ドノン男爵家に届いたドレスは、ルイスの瞳のように眩いオパールグリーンの上等な物だった。ドノン商会で扱う、最高級ブティックの物だ。
「キュヴィエ侯爵ってばエヴァちゃんを選んだことといい、わかってるよね」
あんなにごねていた父は馬車の中で上機嫌だった。そんな現金な父にもドン引きしながらエヴァはエスコートされ、会場で待ち構えていたルイスに引き渡された。
「今日でこんなに美しいなら、結婚式ではどうなってしまうんだろう……ああ、早くそんな君を見たい」
「あ、あ、あ……あの」
通常運転、もしくはそれ以上の甘い攻撃にエヴァは恥ずかしくなる。
(今は二人きりなのに、必要かしら?)
お菓子よりも甘いルイスに眩暈がしてくる。
「お―、本当に笑ってる!」
そこにやって来たのはこの国の王太子、アルフレッド。
「で、殿下!」
慌てるエヴァにアルフレッドは手で制しながらにこやかに笑う。
「いや―、コイツの能面を崩したご令嬢に会いたいと思っていたんだ。なんせこいつ、君のことずっと――」
「殿下」
ルイスがアルフレッドの言葉を遮る。
「え? 何? お前、まだ言ってないの?」
「無事に婚約が済めば言う」
「は―、先に足元固めようってか? 拗らせてんねえ」
「????」
二人の謎の会話にエヴァが首を傾げていると、ルイスが肩を抱き寄せた。
「何でもないよ。さあ、綺麗な君を本当は見せたくないけど、結婚のためだ。会場に行こう」
「は、はひ……」
ルイスに甘くはぐらかされ、エヴァは疑問が頭から吹っ飛んだ。
会場には侯爵家の婚約披露パーティーだけあって、多くの人が招待されていた。アルフレッドは王家代表として出席しているらしい。他に王家の者がいなくて良かったとエヴァは安堵した。
諸々の挨拶を済ませ、パーティーは進行していく。途中、イザベラの姿を見かけた気がしたが、何も言って来るわけでもなかったので、いよいよ諦めたのだとエヴァは思った。
そしてパーティーの大詰め、婚約の調印を皆の前で披露する。
これが済めば二人は晴れて婚約者。
「さあ、エヴァ」
ルイスに手を差し出され、エヴァも少し高く作られた壇上に登る。目の前には壇上に合わせて作られたテーブルに書類が置かれている。
それにルイスが署名をし、続いてエヴァにペンが渡される。
「その婚約は無効ですわ!!」
エヴァが名前を書き終えたと同時に、イザベラが前に歩み出て叫んだ。
ざわざわと列席者の間にも動揺が走る。
「その婚約は教会の神官長様の承認を受けておりません! 私こそが真の婚約者なのですわ!」
神官長の認め印付きの婚約書類を列席者に見せながら、イザベラが高らかに宣言した。
「確かに、家柄として釣り合うのは……」
「どういうことなんだ? キュヴィエ侯爵は二心を抱いていたと言うのか?」
列席者たちからはざわざわと言葉が飛び交う。
「侯爵様……」
どうしよう、とエヴァがルイスの方を見れば、彼は「大丈夫」と言うように微笑んだ。
「笑った……!!」
その瞬間、会場内にどよめきが走る。
イザベラはそのどよめきを押さえるように叫んだ。
「ルイス様は、私の気が引きたくてこんなことをされたのですわ! すべては彼による余興! その女はただの当て馬ですわ!」
まだざわめく会場を背に、イザベラがルイスに振り返り、微笑む。
「ねえ、ルイス様?」
勝ち誇ったように笑うイザベラは、この会場を制しているかのように見えた。
(こんなやり方……!)
エヴァが胸元で手を握りしめると、ルイスにその腕を取られ、引き寄せられる。
「侯爵様?」
ルイスを見て瞬く間にエヴァは彼からキスをされた。
一瞬の出来事にエヴァは頭が真っ白になる。しかしルイスはそんなエヴァの肩を抱いたまま、高らかに宣言した。
「これで婚約は完了した! エヴァ・ドノン男爵令嬢が私の婚約者だ!」
会場がシン、と静まり返る。
(あ、婚約の儀式……!! びっくりした!)
「な、な……、何でそんなにその女がいいんですの?!」
静まり返る中、イザベラが震えながら叫んだ。
「君に教える義理はない」
「……っ、でも残念ですわね? その婚約は正式なものではありませんわ!」
ルイスの言葉に顔を歪めたイザベラは吐き捨てるように言った。
「何を言っている。これは正式に認められた婚約だ」
「は……? そちらは副神官長の認印、こちらは神官長の印ですわ!」
ルイスの言葉にイザベラは持っていた書類を掲げる。
「ああ、|元≪・≫神官長のな」
「は……?」
イザベラは目を大きく見開き、顔色が悪くなっていく。
「エテュアン侯爵は神官長とグルになって孤児院への寄付金を着服していた」
「お父様が……?!」
「二人はもう牢の中だ」
「嘘よ!」
叫ぶイザベラを見て、ルイスはエヴァの父に目配せをする。
「最近、エテュアン侯爵様は浪費が増えていらっしゃったようで。キュヴィエ侯爵様からも調査を依頼され、我が商会の帳簿からお金の流れを確認したところ、そのような事実が浮かび上がりました」
(お父様ったら、そんなことを……)
説明を聞いたエヴァは、普段は子供っぽい父があの大きな商会を運営するやり手であることを思い出す。
「そんなの、我が家を貶めるための嘘に決まっているわ! 男爵家の言うことなんて……」
「今あなたが着ているドレスもうちの商会の物ですよ? お嬢さん」
「何ですって?!」
「エテュアン侯爵様はそんなことも気付かずに豪遊されていたみたいですが」
「そんな…………」
バカにしていた男爵家の店のドレスを着ていた事実からか、父の犯した罪へのショックからか、イザベラはその場に膝をついた。
「さて、君は私たちの婚約披露を邪魔した。そんな偽の紙切れをもってね」
「そんな、ルイス様……」
「私を名前で呼んでいいのはエヴァだけだ! 連れていけ!」
「ああ!!」
冷ややかに怒るルイスに絶望したイザベラはその場に倒れこむ。王宮の兵士たちに担がれ、この場を退場していった。
「あ~、容赦ないねえ」
アルフレッドがイザベラを見送りながらルイスに言った。
「元はと言えば、エテュアン侯爵令嬢との婚約にも王家が認印を出したせいだろう」
「えっ!!」
エヴァはルイスの言葉に驚いた。
「私との婚約で良かったんでしょうか……」
イザベラは嫌な奴だったが、侯爵令嬢だ。男爵家の自分と比べてエヴァは不安になる。
「何を言う、エヴァ。俺は君しか考えられないと言っただろう?」
「でも、王家もお認めになっていたのなら……」
「あ―、エヴァ嬢、心配しないで。エテュアン侯爵の不正をあぶり出すためだから」
「へっ……」
エヴァの心配をよそにアルフレッドが明るく言う。
「ドノン男爵家との婚約話もその一環だと思ってたのに、まさかルイスの長年の想い人だったとはね」
「へっ?」
「殿下!!」
アルフレッドの言葉に目を丸くするエヴァ。ルイスが怒ったように遮る。
「ルイスさあ、初恋拗らせてんのはいいけどさ、相手にはちゃんと伝えないと。――さあ皆さん、お騒がせしましたね。この二人は晴れて婚約しました! 引き続き宴をお楽しみください!」
アルフレッドはルイスに苦言を呈すると、列席者に向き直り、宣言した。
王太子の宣言に、皆が歓声をあげ、料理や歓談へと戻って行った。
事件など無かったかのような和やかな雰囲気になり、アルフレッドは壇上から降りる。
(ええと、今回の婚約はイザベラ様を遠ざけるでもなく、エテュアン侯爵の不正を暴くためでもなく??)
情報に追いつけず、呆然としているエヴァの隣のルイスにアルフレッドが呼びかける。
「エヴァ嬢、まだわかってないみたい。本当に大切なこと、履き違えるなよ?」
「……わかっている」
少し不満そうに返事をするルイスに手を取られ、エヴァは彼と一緒に壇上を降りた。
列席者の中へと消えていくアルフレッドを見送っていると、エヴァはルイスに手を取られた。
「エヴァ、急にキスをしてすまなかった」
「い、いえ……あの、儀式なので……」
思い出し、赤くなるエヴァだったが、ルイスの顔は浮かない。
「君が勘違いをしているのには気付いていた。でも、君がこの婚約を断ったらどうしようと怖くて、その勘違いを利用させてもらうことにしたんだ」
縋るようなルイスの瞳をエヴァは逸らすことも出来ず、話をじっと聞く。
「婚約さえしてしまえば、もう君は逃げられないと思った」
今までならドン引く台詞も、不思議と今日はエヴァの心に入ってきた。
「侯爵様は、どうしてそこまで私のことを……」
エヴァの質問に、ルイスは眉尻を下げて答えた。
「数年前から、我が侯爵家の寄付金の流れがおかしいことに気付いて、俺の方でも調査していたんだ。そして、孤児院で君を見かけた」
「え……?」
「子供たちと遊ぶ君の笑顔を見て、俺は一瞬で恋に落ちた。なんて美しいんだろうと。そこから君のことを調べた。そして、月日をかけて君にお見合いの話がいくよう、仕向けた」
「ええ?!」
「……また引いた顔をする……」
エヴァの態度に、ルイスが傷付いた表情を見せる。
「だって侯爵さま……ん? 待ってください、もしかして孤児院の匿名の寄付は………」
「俺だ」
ルイスの返事にエヴァは目を瞠った。
(なんと! まさか! こんなことってある?!)
ずっと会いたいと願っていたその人が目の前のルイスだったという事実に、エヴァの脳内はパニックになる。
「エヴァ、君からしたら突然で、引いてしまうかもしれないが、俺はその時からずっと君が好きなんだ」
お見合いで出会ったばかりのルイスの態度を思い返す。
(あ、あれ、本気だったの?)
隠れ蓑でも、汚職追及のためでもなかった。ルイスはただエヴァのことが好きなだけだった。
その事実を自覚し、エヴァの顔がどんどんと赤く染まってゆく。
「……もう、それならそうと最初から仰ってくださいよ」
ふはっ、とエヴァが笑いを溢すも、ルイスはまだ不安そうに瞳を向けている。
「すまない。エヴァが来てくれたのが嬉しすぎて……」
それからルイスは目を閉じ、小さく息を吐くとエヴァに告げた。
「エヴァ、その……君の気持ちを無視してきたことは謝る……もし君が嫌なら……」
ルイスが言いかけたところでエヴァはずいっと彼と距離を詰めた。驚く彼にエヴァは伝える。
「これは知らなかったみたいですね、侯爵様? 私、ずっと匿名の人に……あなたに会いたかったんですよ」
「……エヴァ!」
いたずらっぽく笑うエヴァを見て、ルイスのオパールグリーンの瞳に輝きが戻る。
「じゃあ、俺と結婚してくれるね?」
「はい……。ただ、侯爵様をもっと知りたいので、婚約期間を延ばしてもらえませんか?」
「……嫌だ」
「ええ?!」
ルイスに抱き寄せられ、エヴァはお願いを口にしたが、秒で断られてしまった。
「俺はまだ不安なんだ。そうだな、名前で呼んでくれたら考えよう」
ルイスは未だに「侯爵様」呼びするエヴァに不満だったようだ。甘い笑顔がエヴァに迫る。
「ル、ルイス……様?」
「エヴァ!!」
照れながらも名前を呼べば、ルイスの腕の中に閉じ込められる。
「ああ、やっぱり君と最短で結婚したい」
「ちょ、ルイス様、約束……」
耳元でそう囁くルイスに抗議しようと顔を上げれば、その甘い瞳に囚われる。
「君をずっと思い続けたんだ。もう待てない」
「ちょ、ちょ……」
グイグイ来るルイスに、もうドン引かないが、エヴァはタジタジだ。
(どこが能面侯爵なの?! その二つ名、返上したらどうかしら?!)
「こんな顔をさせるのは君だけだよ、エヴァ」
「!!」
エヴァの心を読んだかのようにルイスが言うので、驚いて飛び上がる。
「目の前の君以外、どうでもいい」
「それは引きます」
甘い表情で真面目に言うので、エヴァはさすがに口にした。
「それに、ルイス様はそんな方じゃないって、もうわかっていますから」
孤児院の匿名の寄付だけじゃなく、その用途もきちんと追っていてくれていたルイス。お見合いから日は浅いものの、彼の人となりもわかった。エヴァはもう彼に、匿名の人への憧れ以上の気持ちを抱いていた。
エヴァの言葉を聞いたルイスは目をぱちくりとさせた後、目を細めて言った。
「愛しているよ、エヴァ」
「私もです」
いつの間にかそのやり取りを見ていた列席者から歓声があがった。
「能面侯爵」は、奥方の前ではその仮面が外れる、という新たな噂が社交界を駆け抜けるのは、もう少し後のお話。
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