泡沫の手紙
「祭り好きか?」
「でら好き! 楽しいもん!」
「へへっ! 俺も」
「楽しい?」
「ああ。かんこーしとったけどおかげで吹っ切れたわ。ありがとう」
「行っちゃうの?」
男がこくりと頷く。
ふうと童女がしゃぼん玉を吹く。
「元気で」
◇
江戸時代中期。8代将軍徳川吉宗は幕府の財政難を『享保の改革』で乗り切ろうとしていた。
「っはー。まっこと将軍様の言うことは固いでかんわ。なーにが『享保の改革』。質素倹約。幕府も民百姓も金がのーて困っとる。んだぎゃ、締めたらわやだわ。もっと貧乏になるがや」
男がぼやきながらド派手な衣装に身を包み祭りで賑わう城下町を歩く。
この男、尾張徳川家第7代当主にして、名古屋藩第7代藩主徳川宗春。派手好きで奇抜。
国を挙げての節約生活に反対し、質素になっていた盆踊りを盛大に行うなど民の楽しみを奪わぬ政策で城下町名古屋に繁栄をもたらしている。
「ん?」
どこからともなくしゃぼん玉がふんわり舞ってきて、宗春の鼻先でぱちんと弾けた。
「おお! 面白い」
次から次へ飛んでくるしゃぼん玉。宗春は童の如く両の手をぱちんと打ち鳴らし割っていく。
〜♪
あそれ、あそれ
しゃぼんの世界はいとおかし
丸い世界に虹かけて
誰も彼もの心の雨を
空へ空へと連れて行く
現に残るは弾けたあとの
息吹、ほほえみ、優しい音色
「きゃ」
「おっと」
曲がり角で女とぶつかる。
一目惚れの瞬間である。
女が吹いたしゃぼん玉が空へ舞う。
「御免。怪我ないか?」
「申し訳ございません。はっ、お殿——」
宗春は人差し指を立て女の口元に近づける。
「今日はただ、お前と呼んでくれないか」
「滅相もない」
「ね」
「お、御前様」
「よし。其方名は?」
「いくにございます」
「いく」
「はい」
「手をかしてみい」
「はい」
「あったかいの」
「熱いです」
「愛い奴。まわるか」
「はい」
宗春といく。叶わぬ恋と知りつつも、今だけ夫婦として祭りを思い切り楽しむ。
「祭りは好きか」
「好きです」
「俺も。こうして皆が楽しむ姿が、好きだがや」
「はい。私も」
夕暮れ。烏が帰る頃合いを告げる。
「もう行ってしまわれますか」
宗春がこくりと頷く。
ふうといくがしゃぼん玉を吹く。
「お元気で」
秋風があの日のしゃぼんを運んでくる。
「懐かしい。いく。あの日から縁はつながっていた」
いくは再度しゃぼんを吹く。
「真実を言ってしまえばしゃぼん玉 ぱちと弾けて 跡形もなし」
「しゃぼんの手紙とは粋よ」
「何も残りません」
宗春は頭を振る。
「しゃぼん玉 幾重幾年うつくしむ 跡形なくも いくは確かに」
夜の帳が下りる。
消え失ったものは、もう消え失うことはない。
いつでも心に。一番そばに。