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*異世界恋愛*

氷屋へ嫁ぐことになりましたが、旦那様は冷たいどころか溺愛してきます。




 留学から帰国すると、婚約者が決まっていた。







(あきら)様は心底残念そうにしておられたんですけどねぇ」


 むしろ、発言主の方が心底残念そうに溜め息をついた。

 はつらつとしたこの女性は、単身訪ねてきた(つき)を歓迎し、()()と名乗った。髪にほどよく白いものが混じっているということは、存命であれば月の母と近い年頃だろう。


 ちりりん、と窓辺の風鈴が同意するように鳴る。


「ちょうど一年で最も忙しい時期でしょうから、仕方ないと思います」

「月様はなんとお優しい方なのでしょう! もう少し怒ってもよいのですよ?」

「いえ、流石にそれは」


 突然決まった月の嫁ぎ先は、四大貴族のひとつ・夏越(なごし)家だった。

 夏越家の現当主、夏越(なごし)(あきら)

 まだ見ぬとはいえ将来の夫ではあるものの、月が怒っていいような相手ではない。もし不興を買えば、月だけではなく藤堂家(実家)が滅びかねない。


(というか、どうして一商家の娘を嫁にしようと思ったのかしら)


 実家からは、花車柄の振袖を着せられて送り出された。

 伸ばしている黒髪も立派に結い上げられ、飾られた簪は少し重たい。

 これらがいつ用意されたのか驚いたものの、この婚約自体が本人の知らぬ内に決まっていたのでつまりは()()()()()()なのだろう。

 なお、おてんばな性格はなるべく隠しておけと、父からは再三注意された。商家としては、貴族と繋がりを持てる願ってもない好機なのだ。


 そして現在。

 月は、婚約者の到着を待つことなく急用で外出したという現当主の帰りを、乳母であるるゐと共に待っているところである。


 話は冒頭に戻る。

 この国の四季のうち『夏』を司る夏越家は、春の終わりから宮中行事で忙しい。

 子どもでも知っている事実だ。


 夏越家の家系図を建国まで遡ると、氷龍という伝説の生き物に辿り着く。

 氷龍の力を受け継ぐ一族は、熱だけでは決して融けない氷を作ることができる。

 そのため、夏が始まろうとするこの時期は、皇室へ氷を献上するのが習わしとなっている。


(上流階級しか口にできない、夏越家の氷。一体どんな味なんだろう。というか、嫁になったからといって食べられるかどうかは分からないけれど)


 特別な氷の恩恵は庶民へも与えられている。

 その名も『氷匣(こおりばこ)』。大きさは様々で、食材を冷やすことができるおかげで食事情が昔に比べて改善されたという。

 現当主の麗こそが、非食用ではあるものの、これまで上流階級しかあやかれていなかった氷の恩恵を庶民まで普及させた偉大な人物。


(食材を冷蔵保存しておけるようになったことはありがたいと、大人たちは口を揃えて言う。だからこそ、両親も今回の婚約を心から歓迎していた)


 月はぱたぱたと団扇を仰ぎ、るゐが出してくれた冷たい緑茶を口に含む。

 ふたりが他愛のない世間話をしていると、廊下を走る音がだんだん大きく響いてきた。


「あら、お帰りになられたようですよ」


 るゐが言い終わるか終わらないかのうちに、勢いよく障子が開かれた。


「待たせてすまない。私が夏越麗だ」


 うなじ辺りでひとつに束ねられている薄水色の髪の毛が、さらりと揺れる。

 初めて目にする夏越家の現当主は、月の想像の何倍も眉目秀麗な男性だった。


(……! なんて美しい御方なのかしら。比喩ではなく、眩くて目が開けていられない……)


 鼠色の着物に、紺色の羽織を羽織っている。少しだけ乱れているのは、足音通り走ってきたからなのかもしれない。それでも透き通るような白い肌には汗ひとつかいていない。


 慌てて月は立ち上がる。

 背筋のすっと伸びた麗と向かい合うと、彼の方が頭ふたつ分背が高いことが分かった。

 月は、袖と裾を整えながら深く頭を下げる。


「藤堂月と申します。この度は……」


(どう言うべき?)


「わたしには勿体ない申し出をありがとうございます。謹んでお受けいたします」


 というか、それ以外に言いようがなかった。

 月が恐る恐る顔を上げると、麗はやはり眩しすぎる笑顔で月を見つめていた。


「快諾に心からの感謝を。君が留学から帰ってくる今が好機だと考えたのだ。生家では、酷い目に遭わされてきたのではないか?」

「いえ、そんなことはありません。義母……正妻と父との間には子どもがおりませんので、わたしは義母から実の娘のように愛してもらえています。今回の留学も」


 麗は月と婚約を結ぶため、しっかりと身元調査を行ったのだろう。

 月は父親と妾の間に生まれた庶子であり、実母は病気で他界している。陰で義母から虐げられてきたのではないかと麗は心配しているのだ。


「本来であれば、藤堂家の跡を継ぐために商いを勉強するものでした。巷でよく耳にするような継子虐めは一切ありませんのでご安心ください」

「……そうだったのか」


 虚を突かれたように、麗が目を見開いた。


「すまない、出過ぎたことをしたようだ。将来もきちんと考えていただろうに、我が家へ来てくれたことを再度感謝する。生家以上に穏やかに過ごせる場所となるよう、誠心誠意努めよう」


 麗が月の両手を取る。

 男性の手とは思えない滑らかで、少し冷たい手。

 だけど、力はしっかりと込められていた。


 不意に、月の心臓が跳ねる。


 美しいから、だけではない。

 こんな風にしっかりと見つめられるのが初めてだったからだ。

 月の頬から耳まで、一気に朱く染まり熱を持つ。

 そしてふたりの視線が合う。

 黒髪黒目の月と違って、祖先が人ならざる者なのだと教えてくれる麗の瞳。

 吸い込まれそうになる、深い青。


(まるで、蒼玉(サファイア)……)


 静かに、月は息を呑む。

 麗は破顔したまま、月の名を呼んだ。


「月」


(やわらかくて、澄んでいて。まるでわたしの名前じゃないみたい)


「きみのことを、大事にする」


 麗は恭しい仕草で月の手の甲へと口づけた。




 ――それが、ふたりの顔合わせだった。







 おそらく初日は無理やり時間を作って帰宅したのだろう。

 それから五日ほど経つというのに、月は(あきら)の姿を屋敷内で目にすることがなかった。

 るゐ曰く、泊まり込みで働いているらしい。


(そんな多忙な時期にわたしを屋敷へ招いたなんて、却って申し訳ないばかりだわ)


 雑巾の水をしっかりと絞り、両膝を床につけ腰を上げる。


「月様!」


 長い廊下を勢いよく拭いていると、慌ててるゐが飛んできた。


「この屋敷の奥様になる御方なのですから、掃除なんてなさらなくても」

「手持ち無沙汰になるのが耐えられない性分なんです」


 袖をまくり、襷をかけた月。えへん、とるゐへ胸を張ってみせる。

 掃除をしていた使用人に頼み込み、桶と雑巾を用意してもらったのだと説明した。


「今日こそ旦那様は帰ってこられますよね。料理もしたいのですが、いいでしょうか」

「も、勿論ですけれど」


 初めは狼狽えていたるゐだったが、ふと、何かを思いついたように両頬へ手を当てた。


「そうですね。麗様もきっとお喜びになると思いますわ」

「因みに、旦那様のお好きな食べ物はありますか?」

「鶏肉を炊いた物は好んで召し上がります。それから、甘味も」

「甘味、ですか」


(それならば、作ってみたいものがある)







「ようやく……ようやく帰れた……」

「お帰りなさい、旦那様!」


 どことなくやつれて見える(あきら)

 月は玄関先で出迎え、革製の鞄を受け取る。ずっしりと重たく、月は一瞬眉をひそめた。

 その些細な表情の変化に気づいたのか、麗はすぐに鞄を持ち直した。


「誓ったにも関わらず、すぐ放ってしまうことになり申し訳ない。不自由がたくさんあっただろう」

「いえ。お屋敷を探検できて楽しかったです。それに、今晩の食事はわたしが腕を奮いました」

「きみが……?」

「はい、わたしが」


 するとやつれていた麗の瞳に、急に生気が点った。


「それはすぐに食べないと! 着替えてくる!」

「だっ、旦那様?」


 鞄を抱え、麗は慌てるようにして廊下を走って行った。


(全くもって、わからない。どうしてそんなにわたしに対して甘いのだろう)


 当然ながらふたりに接点はなかった。藤堂家にも、繋がりはない。

 月は決意を新たにする。


(早々に、尋ねてみなければ)







 宣言通り、たちまち(あきら)はよそゆきから小紋へ着替えて広間に現れた。

 そして高足膳の上はあっという間に空になった。


「どれもこれも美味しい。きみは料理が上手なんだな」

「お褒めいただき光栄です」

「甘味もお好きだと伺いました。水菓子がそろそろしっかり冷えたと思うので、お持ちしますね」


 月が中座して土間へ向かうと、るゐと食事係が満面の笑みで待っていた。


「麗様はもうすべて召し上がられたのですか。よほど、月様の手料理をお気に召されたのでしょうね」

「よほど空腹だったのかもしれません」

「ご謙遜を。麗様は元々食が細くて、すべて召し上がるのに半刻(一時間)はかかる御方なんです」


 るゐが氷匣の扉を開けた。

 月の背丈と同じくらいの氷匣。なかなか一般の家庭では見かけない巨大なそれは、迫力がある上に扉を開けるだけで涼しい風が奥から流れてくる。

 月は仕込んでおいた水菓子の器を確認して、少し揺らす。


「固まりましたね」

「えぇ。麗様の氷匣に冷やせないものはありませんから」


 水菓子を黒い丸皿へと滑らせる。

 月の拳よりも一回り小さな、透明の立方体。

 閉じ込めたのは色とりどりの食用花だ。


 歩く度僅かに揺れる水菓子を、月は盆に載せて慎重に運ぶ。


「お待たせいたしました、旦那様」

「何だこれは。初めて見る」


 麗が丸皿と月の顔を交互に見た。

 ふるふると皿の上で芸術作品が揺れる。


ゲラァレ(ゼリー)といって、隣国では広く知られている水菓子です。そこに、庶民の間で流行っている食用花を入れてみました」

「げらぁれ。耳慣れない響きだ」

「夏越家の氷に憧れている人々は多いです。わたしもそのひとりなのですが、留学中にゲラァレを知り、見た目が氷のようだと驚きました。せっかくなので、旦那様にも知っていただきたくて作りました」


 ほぅ、と麗は感心したように呟く。

 匙で掬って口に運び、そっと瞳を閉じた。


「砂糖の甘さを感じる。それから、僅かに柑橘類の爽やかな香りも」

「果汁を入れて風味や味を変化させることもできるので」

「詳しい材料と作り方の手順を教えてもらえないか?」

「勿論です」


 すると早速、食事後。

 月と麗は土間でゲラァレの試作をすることになった。

 物珍しそうに、麗が粉寒天の紙袋を覗き込む。


「寒天、というのか。海藻から出来るとは到底思えない見た目だな」

「不思議ですよね。海に接していないこの国と違って、隣国は海産物が豊富なんです」

「いつか行ってみたいものだ。そのときは案内をしてくれるか」

「はい、かしこまりました」


 基本の材料は粉寒天、水、砂糖。

 そこへ果汁や色素を加えて味や見た目を変化させる。


 激務で疲れている筈なのに、麗は手順を覚えると次々ゲラァレの試作をしていく。氷匣のおかげで、あっという間にゲラァレは固まった。


「ゲラァレ。これは、とても面白い。人々へ提供できるようになれば喜ばれると思わないか?」


 どうやら麗は氷に似た隣国の水菓子へ商機を見出したようだ。


(流石、氷匣を発明して普及させた方だけある。旦那様がわたしへ求めているのは、ひょっとして留学で得た知識なのかしら)


 仮説を立てる月。

 それでもずっと立ちっぱなしで竃へ向かう麗に不安を覚え、尋ねてみた。


「旦那様。休まなくてよいのですか?」

「問題ない。月の手料理で、復活した」


(……絶対に、そんなことはない筈)


「信じていないな?」

「どうして分かったんですか」

「顔に書いてある」


 水へ粉寒天を振り入れ溶かす手を止めて、麗が月の頬に触れた。


「月と話しているだけでもどんどん力が漲ってくるのだよ。抱きしめたら、もっと元気になれるかもしれない」

「だ、旦那様」

「……駄目か?」


 突然、月が仔犬のように機嫌を窺ってくる。

 わざと背中を丸めて、上目遣いで月を見た。


(そんな表情もするなんて反則です!)


 しゅっとした格好よさとは真逆の可愛らしさ、あざとさ。


(旦那様といると、心臓がもたない……)


 しかし、肯定するまで麗は待ち続けるに違いない。

 じっと麗は蒼玉の瞳で月を見つめている。


「月。つ、き」

「……駄目じゃ、ないです……」


 そこへ、るゐの大声が響いた。


「あらあらまぁまぁ! 五日ぶりにお帰りになられたというのに、寝室ではなく土間にいらっしゃるなんてどういうことですか?」

「しっ、……」


(るゐさん、いきなり何てことを!)


 いくら婚約中の身とはいえ、正式に結婚するまでは純潔であるべきなのだ。そう教えられてきた月は、恥ずかしさで顔が熱くなってくる。


「るゐ。月が困っているだろう」

「そういう麗様だって、頬が朱に染まってますよ」

「るゐ!」

「はいはい。邪魔者はさっさと退散しますね」


 どたどたとるゐが去って行く。


「やれやれ」


 ふぅ、と麗が溜め息を吐き出し、薄水色の髪の毛をかき上げた。


「続きをしてもいいか?」

「あっ、はい」


 動揺していた月は、ゲラァレ作りのことだと信じきっていた。

 ところが違った。

 麗は月の背へ両腕を回して、引き寄せ、ぎゅっと抱きしめてきた。


「だだだ、旦那様!?」

「食べたものと、同じ香りがする」


 それはそうだ。食事を作ったのは、月なのだ。

 月の頭の上で、すんすんと麗が鼻を動かす。


「美味しい香りだ。月の本当の香りも、きっと心地いいのだろうな」


 抱きしめられているから耐えているものの、そんなことを耳元で囁かれて自力で立っていられる自信がない。

 今腕を離されたら、確実に腰が抜けて座り込んでしまう。


(……ずるい)


 まだ、二回しか会っていないというのに。

 月は、白皙の美貌を持つ婚約者に振り回されっぱなしである。







 あれよあれよという間に、ゲラァレ専門の甘味処が開店することになった。

 連日の蒸し暑さに、目でも口でも涼を楽しめる色とりどりのゲラァレはすぐに人気を博した。

 何といっても、夏越家による新商品。話題と涼を求めて、甘味処には連日行列ができている。今やゲラーレは氷匣と並ぶ知名度となり、夏越家現当主の地位をますます確固たるものにしていた。

 月の父と義母も来店し舌鼓を打ってくれた。(あきら)によるあらぬ誤解はきちんと解けていて、改めて結納の儀を行う方向であると説明された。


「いらっしゃいませー!」


 そして、月はその甘味処で働いている。

 最初は麗からもるゐからも反対された。しかしゲラァレを教えたのは月だし、何よりも、働きたいと主張した結果、珍しく麗の方が折れた。


(だって屋敷で静かに旦那様を待つより、割烹着を着て体を動かしている方が性に合うんだもの)


「つ、月様ぁ」


 一緒に働く給仕の(すい)が月を呼んだ。

 おかっぱ頭の好はいつも元気で、月とはすぐに気が合った。ただ、同い年だし共に働く仲間だからと言っているのに、夏越家当主の婚約者ということで敬称を付けられていることには少々不満を抱いている。


「好さん。今日こそ誘うって言ってましたよね?」

「それは、そうなんですけど……」


 好の語尾が消えていく。

 理由は単純明白。

 好は恋をしているのだ。お相手は甘味処の常連客である、小説家の小鳥遊(たかなし)。すらりと背が高くて、黒縁眼鏡をかけている。彼は今日も甘味処の隅で、ゲラァレを頼んだところだった。


(わたしからすれば、小鳥遊さんも好さんへ恋していると思うのに)


 月が好へ何回言っても信じてもらえない。小鳥遊は忙しいなかでも笑顔を絶やさない好へ、熱のこもった視線を向けているということを。近頃は忙しい時間を避けて来店することが多いことを。

 今も、店内に客は小鳥遊ともう一人だけだ。


「分かりました、好さん。一緒に行きましょう。そしてわたしは好さんを置き去りにします」

「おおお、置き去り?!」


 月は好の手首を無理やり掴んだ。

 そして勢いよく小鳥遊の席へ進み、好の後ろへまわると両肩へ手を置いた。


「小鳥遊さん、本日もご来店ありがとうございます」

「あああ、ありがとうございます」


 つられるように好が口を開くも、既にしどろもどろだ。

 小鳥遊が顔を上げて、好へ視線を合わせた。


(やっぱり、小鳥遊さんは好さんのことしか見ていない)


 確信した月は言葉を続ける。


「本日のこの後のご予定はいかがですか? ちなみに、好さんはあと四半時(三十分)もすれば今日の仕事はおしまいです」

「そう、ですか」


 ゆっくりと小鳥遊が口を開いた。


(初めて声を聞いたけれど、旦那様よりずっと低い声をしているのね)


 小鳥遊が何か考えるように口元へ手を当てる。


「この後は取材が入っているのですが……」

「ですよね。売れっ子作家さんはお忙しいですよね!」

「取材後は空いています。よかったら、牛鍋屋にでも行きませんか」

「……はい」


 重要任務、完了。


(しっかりとふたりだけの世界ができている。あとは詳細を詰めるだけね)


 くるりと踵を返して、月は厨房へ戻る。

 月が皿を洗いながら遠目に眺めていると、どうやらうまくいきそうな雰囲気に映った。


(よしよし。結果がどうだったかは、また次の出勤日に尋ねてみよう)


 洗い終えた皿を清潔な布巾で磨き上げる。


(……お出かけ、か)


 不意に手を止めてしまう。

 麗は相変わらず多忙で、なんとか帰宅しても夕食後には出かけてしまう。


(いいなぁ。って、今わたしったら何を)


 そもそもどうして月を婚約者として迎え入れたのか、まだ訊けていない。


(それなのに、出てきてしまっている、欲が。もっと一緒にいたいとか、もっと旦那様のことを知りたいとか……)


 ふるふると首を横に振り、月は心のもやを晴らそうと努めた。







「久しぶりに丸一日休みを取れそうなんだ」


 帰ってくるなり、(あきら)は顔を綻ばせた。


「何かしたいことはあるかい」

「ゆっくり休んでください」

「月、私が問うているのは、きみのやりたいことだよ? いや、正しくは、きみが私としたいことだ」


(うっ。考えていたことを読まれていたんだろうか)


「わたしは旦那様のお体が心配なんです。ゆっくりと過ごして、英気を養っていただければ。それがわたしの望みです」

「分かった。それならば街へ行こうか。月に似合いそうな装飾品を選んであげよう。佩物(おんもの)でもいいな」

「旦那様?」


 お互い、会話がかみ合っていない。

 しかしこうなると麗は決して譲らないのだ。


(嬉しいけれど、休んでほしいのも本心。すぐに決めて帰ってくればいいかな)







「月様は青色が似合いますこと。最初の振袖も青でしたね。(あきら)様の髪色とお揃いで、お似合いですわ」


 るゐは今日も満足そうだ。目尻の皺が日増しに深くなっているのは気の所為ではないだろう。

 笑顔の理由は、めったに私用で外出しない麗が久しぶりの休日に外出するからだった。どうやら子どもの頃の麗は日光に弱く、すぐ体調を崩していたらしい。るゐが月へ対してそんな説明をしたとき、麗はるゐに向かっていつまで子ども扱いするのだと不満そうにしていた。


「あの、るゐさん」

「なんでしょう?」


(るゐさんは知っているんだろうか。旦那様が、わたしとの婚約を決めた理由を)


「……いえ、何でもありません。それにしても、旦那様は支度に手間どっていらっしゃるのでしょうか?」

「そうですね。ちょっと見てきます」

「あ、わたしも行きます」


 玄関にいたふたりは、最奥にある麗の部屋へと向かう。

 月は未だに麗の部屋へ入ったことはない。招かれることはあったものの、やんわりと断ってきたのだ。


(今日はるゐさんもいるから、いいよね)


 ということで、月はるゐの後ろを静かについて行く。


「麗様、入ってよろしいですか?」


 返事がない。月とるゐは、顔を見合わせて首を傾げた。


「麗様ー? 入りますよ。裸だったらごめんなさいね」


 恐らく幼少期を知るるゐにしかできないことだろう。

 一切の躊躇いなく、勢いよく襖を開ける。


「!」


 そして、るゐは慌てて部屋へ飛び込んだ。


「旦那様っ」


 麗は畳の上に倒れていた。息苦しそうに胸の辺りを押さえている。瞳は閉じたまま、眉間に皺が寄っていた。傍らには羽織が無造作に落ちている。


 月もなりふり構ってはいられなかった。

 入室して麗へ駆け寄り膝をつく。


「大丈夫ですか、麗様」


 るゐが、失礼しますと言って麗の袖をまくった。


(えっ)


 月は目を見開いた。

 麗の腕の一部に、鱗のような模様が浮かび上がっていた。きらきらと静かな光を帯びている。


「ただの疲労ですね。布団を敷いて寝かせましょう。月様、手伝ってもらえますか」

「は、はい」


 るゐは、一切動揺していない。

 月は両手で頬を叩き、気を取り直す。


(ということは驚くべき事象ではない。しっかりするのよ、月)


 立ち上がると、指示に従って布団を敷き、るゐを手伝って旦那様を寝かせた。


「水枕を持ってくるので、麗様を見ててください」

「はい、分かりました」


 ばたばたとるゐが駆けて行く。

 麗様は、苦しそうに時々体を動かしている。

 やがてうっすらと瞳を開けると、月の姿を認識したようだった。


「……すまない」

「いえ、やはり今日は静養なさってください。お出かけはいつでもできますから」

「そうじゃない」


 麗の声が僅かに掠れている。


「驚いただろう」

「と、いいますと」


 鱗模様のことを指しているのは月にも理解できた。

 だけど、わざと首を傾げてみせた。


「……申し訳ない。本来ならば最初に話しておくべき事柄をぎりぎりまで黙っていた」


 麗の説明によると。

 この模様は本物の鱗であり、夏越家の一族が氷龍の子孫である証。

 普段は制御しているため現れないが、数年に一度、体調を崩すと鱗が出てきてしまうのだという。


「気味が悪いと、感じただろう」

「驚きましたけれど、気味悪さは感じませんでしたよ」


 月は、布団から伸びた麗の人間の皮膚のままの手の甲へ、そっと手を重ねる。

 そのまま、ゆっくりと指を動かして。

 麗の腕の、鱗に触れる。


「硬くて、冷たいですね。まるで蛇のような――」


 そのとき、月のなかに記憶が蘇ってくる。


「もしかして、あのとき助けた蛇が……」


(わたしは、確かに見たことがある)


 薄水色の鱗が輝く蛇の姿を、月はまざまざと思い出していた。







 それはまだ月の実母が存命だった頃のこと。

 月はよく、家の近くにある森で木の実や虫の採集研究に勤しんでいた。


 長雨が続き、久しぶりに雲の間から陽の光が覗いたとき。

 木の実を拾おうと入った森は、地面がぬかるみ、空気もじっとりと湿っていた。


 そこで月は遭遇した。

 木の幹に結ばれて、途方に暮れているように見える蛇を。

 薄水色の鱗が露に濡れて輝く、美しい蛇だった。


(これは、人間の悪戯? だとしたらひどすぎる)


 月は昆虫や爬虫類を触ることに抵抗のない子どもだったため、何のためらいもなく解いてあげた。


「もう、人里に出てきちゃだめだよー」


 逃がしてあげると、蛇は、月を何度も振り返りながら去って行った。

 後でその話を両親へしたところ、蛇が毒を持っていて咬んできたらどうするつもりだったのだと叱られた。しかし、そのときは大丈夫だという確信が月にはあったのだ。







「……そうだ。子どもの頃は体が弱くて、度々あの姿になってしまっていた」


(つまり、この婚約は)


 記憶と同時に、すとん、と腹落ちする。


(蛇ならぬ、龍の恩返し?)


 まさかすぎる話ではあった。

 しかし、月の推測を裏付けるように(あきら)は掠れた声で告げる。


「あのときから、ずっときみに恋している」


 麗が腕を裏返した。

 月の指先が、鱗から離れる。そのまま、麗は指を絡めてきた。


「月。ひとつだけ、頼みがある」


 声が、甘い。

 熱で浮かされているのだろうか。

 にわかに月の心臓は早鐘を打つ。


(鼓動が、うるさい。胸が詰まって、息苦しい……)


「な、何でしょう」

「名前を呼んでくれないか」


 ……ぎゅ。

 麗が、絡めた指を曲げてくる。


 月は、じわり、と心の奥が疼くような感覚に襲われる。

 なんとか正気を保たなければと本能が告げていた。必死に、唇を動かす。


「あ、麗、様」


 いや、却って逆効果だったかもしれない。

 身の内から生じた情を帯びる声は、どうしても上ずってしまう。


「麗様。わたしも、あなたのことが好きです」


 名前を呼ぶ度に、自分のなかに知らない自分が湧きあがってくる。


「好きです」


 麗は満足そうに口角を上げると、そのまま、眠りに落ちてしまった。


(……よかった)


 その安堵は、麗が安らかに寝息を立てているからだけではないことに、月は気づきながらも蓋をした。







「目覚められましたよ!」


 日もとっぷりと暮れた頃、るゐが告げた。

 月は急いで(あきら)の部屋へ向かった。

 布団は畳まれ、片づけられていた。


「体調はいかがですか?」

「すまない。本当に、申し訳ないことをした」


 麗の眉尻が下がっている。


「謝らないでください。わたしの願いは、もともと旦那様にゆっくりと休んでいただくことでしたから」


 月は両手でしっかりと抱えていた、大きな花瓶を床へ置く。

 大ぶりの花。茶色い花の周りを黄色い花びらが見事に彩っている。


「それは?」

「隣国の、向日葵という花です」


 麗が寝ている間に、月は実家から一輪の花を取り寄せていた。

 実際は畑で無数に咲き誇っているのだが、その大きさ故に一輪でもなかなか見応えがある。


「なかなかお出かけはできなくても、こうして、隣国のものを眺めたら……ふたりで旅行している気分になれるかな、と思いまして」


 適度に距離を保ちつつ、月は麗へ話しかけた。


「月……」

「たくさん話をしましょう。これまでのことも、これからのことも」

「それならば、もっと近くに来ておくれ」

「えぇと、それは」


(照れるので)


「月」

「……はい」


(参りました。というか、最初から勝てたことはありませんが)


 そして、何故だか後ろから抱きしめられたまま、月はおてんばだった子どもの頃の話をすることになるのだった……。







 やがて、本格的な夏が訪れた。

 今日も空は青く晴れ渡っている。

 汗が流れるのを感じながら月は思う。こんなに暑いのに、蝉はどうしてあんなに激しく鳴けるのだろう。

 さらには、もし月がふつうの氷だったら、あっという間に融けてしまうに違いないとも。


(暑い……)


 空を見上げて目を細める。

 (すい)はお休み。昨日の帰り際、小鳥遊(たかなし)と出かけるのだと嬉しそうに言っていた。暑いとはいえ今日はお出かけ日和だろう。

 ということは、甘味処にたくさんの客が来店するということでもある。


(よしっ。わたしは、気合を入れて働こう)


 月は柄杓を持つ手に力を込める。


「いらっしゃいませ、開店までもう少しお待ちください。って、旦那様。どうされたんですか」


 店の軒先で打ち水をしていると、やって来たのは(あきら)だった。


「少し時間ができたから、月の働いている姿を見に来た」

「ご覧の通りです」


 袖を捲り、襷をかけている上に、両手には冷水の入った桶と柄杓。

 確実に、貴族の婚約者には見えない姿である。


「ずっと眺めていたが、活き活きとしていてとてもよい」

「ずっと!?」


 麗は口元に拳を当てたまま、くすくすと笑う。


「月」

「……はい」


 わざと月が少しむくれてみせると、麗は、懐から何かを取り出した。

 そのまま月の髪に何かを挿す。


「うん、よく似合う」

「わたしからはまったく見えないのですが」


 すると麗は再び懐から何かを取り出す。

 手鏡で、月の顔を映してくれる。


 ――見慣れない銀色の簪の先に、見たことのある花の、飾り。


 月は麗を見上げた。


「これはもしかして、向日葵ですか」

「ご名答。取引先にたまたま隣国の行商が来ていて、見せてもらった中にあった」


 向日葵から伸びた細い鎖の先には、小さくても眩い宝石が揺れている。


金剛石(ダイアモンド)だよ」

「それは、とんでもなく高価な品物ということでは」


 麗は微笑んだまま、唇の前で人差し指を立てた。


「今日も頑張って働いておいで。私の可愛い可愛い月」


 月は照れながらも頷いた。


「旦那様も、お気をつけて」


 頷くと、麗は歩き出した。

 ひらひらと手を振ってくれる。歩く度、薄水色の髪が揺れている。


(一生、敵う気がしないなぁ)


 その姿は月には煌めいて映った。

 最愛の婚約者の背中へ向けて、月は声を張る。


「行ってらっしゃいませ!」










 

読んでくださってありがとうございました。

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