ありふれた婚約破棄とその顛末
「オリヴィア・オルコット!」
楽団の奏でる優雅な音楽が、一人の青年の良く通る声によってぴたりと止まる。王家主催の舞踏会の広大な会場の誰にも届くよう、何らかの細工でもしていたのであろう。その声の主を皆が探すも、いざ無粋な人物に目が留まると、抗議の目をそらさざるを得ない。
燃えるような赤毛と、黄金の瞳。その色彩は、逆らってはいけない一族のものだからだ。
「王太子ジョナサンの名において、お前との婚約は今ここで破棄する!」
国の次代の王は、美しい令嬢に向けてそう高らかに宣言した。オリヴィアと呼ばれた令嬢は、夜空を閉じ込めたような艶やかな黒髪を揺らし、透き通った藍色の瞳をそっと細め、好奇の目をまるで無いもののように気丈に口を開く。
「……理由を、お伺いしても?」
「ふん、とぼける気か。その無神経な高慢さが、どれだけリリィの繊細な心を傷付けたか、まるで自覚がないようだな!」
興奮冷めやらぬといったジョナサンが、声を拡散させたまま更にもう一人の令嬢の名を口にする。ジョナサンはそこでようやく大声を止めると、リリィ、と柔らかに件の令嬢に向けて呼びかけ手を差し伸べた。
周囲の好奇の目が、その手の先、桃色のドレスの令嬢へと移動する。輝く金の柔らかな巻き毛は震え、大きな宝石をはめ込んだような緑の目は潤み、華奢な体を小さくするようにその場に立ち尽くしていた。
「で、殿下……」
「リリィ、ジョンと呼んでくれ。その方が、お前の傲慢な姉にも、状況がよくわかるだろう?」
「……なるほど。……リリィ、またなのね。」
オリヴィアは呆れたように、震えるばかりの妹に視線を向ける。その途端にびくりと肩を跳ねさせる彼女は、まるで捕食者に睨まれた小動物のようだ。それを庇うようにジョナサンが二人の視線の間に体を入れる。
幼い頃から、オリヴィアの物は事ある毎に、リリィの元へと渡った。誕生日に父からプレゼントされたアンティークのテディベアも、祖母から母、母からオリヴィアへ受け継がれた手鏡も、生まれた頃から仕えていた気の利く侍女でさえも。
リリィはその度に、ごめんなさいとオリヴィアに謝る。だが、ものは全てリリィの元に残った。それを周囲は、姉の持ち物を羨み可愛い我が儘を言う妹と、それを譲ってやる良く出来た姉だと評価した。
しかしその実、お茶会や夜会などでは、話の種にされた。公爵家姉妹の醜い争いだと。
そしてついに今夜、姉の婚約者さえも妹は奪っていくのだと、群衆は理解した。
「リリィ。これでもう障害はない。……今度こそ、私の求婚を受けてくれるね?」
「殿下……!」
恥知らずな妹だと、誰かが囁き笑う。感動的な求婚を周囲が祝わないことが不服であるのだろう、ジョナサンはキッと周りを睨んだ。しかし、拍手の音は聞こえない。代わりに、オリヴィアの小さなため息がひとつ落ちた。
自分に向けられた悪意と嘲笑に気付いた妹は、ジョナサンではなく姉のオリヴィアへと駆け寄る。
「お姉さま、聞いて下さい……、私は、」
「もう、結構よ。……邪魔者は、消えるといたしましょう」
リリィの言葉を遮ってオリヴィアは冷たい声を出す。自分の事を障害だと称するジョナサンへのささやかな意趣返しは、しかして全く通じていないようだった。ジョナサンは、オリヴィアが早々にこの場を去ることに満悦の表情を浮かべている。
「ご婚約おめでとうございます、殿下。リリィ。」
公爵令嬢として、次期王妃として。研鑽を重ねた末の最上級の美しい礼を披露すると、周囲のどこからとなくほうと溜め息が漏れた。そのまま踵を返すと、振り返ることなく、オリヴィアは会場の扉を潜る。
残されたジョナサンとリリィに向けられるのは、あからさまではないにせよ、軽蔑と嘲りだった。婚約破棄という大仕事を終えたジョナサンは、恋に浮かれ、リリィしか見えていないようだが、リリィの顔は蒼白であった。
「オリヴィア・オルコット公爵令嬢。ちょっといいかな?」
「……ヒューバート、第二王子殿下」
オリヴィアが会場を出たところで、高く澄んだ声がかけられる。声変わりを前にした少年は、年相応の衣装に身を包みながらも、年齢以上に洗練された振る舞いでエスコートの手をオリヴィアへと差し出した。
つい先日までは、未来の義姉弟として、親しみを込めて呼び合っていた。しかしヒューバートは、オリヴィアを他人行儀な名で呼び止めた。オリヴィアは、切なげな表情を浮かべた後、それに倣って恭しく礼をした。そして、令嬢としてはやや背の高い自分よりも小さな紳士の腕に、そっと手を添える。
二人が歩くのは、会場外の庭園だ。夜とはいえ、明かりがあちらこちらに灯され、昼とは違う幻想的な雰囲気が演出されている。やがてガゼボへと辿り着くと、腰を落ち着けたところでヒューバートが口を開いた。
「君はこれから、どうするつもりなの?」
「……領地に、行こうかと。継ぐのは私になりそうですから。」
「そうなんだ。」
明るい声音で話すヒューバートに、オリヴィアは僅かに怪訝そうな表情を浮かべた。彼も当然、たった今起こった事態を把握しているはずだ。だというのに、労いの言葉も、赤と黄金を纏う同じ王族としての謝罪もない。
「どうして、“要らないもの”を妹に押し付けるの?」
「ッ!!」
オリヴィアは、今度こそ息を呑んだ。しかしヒューバートの顔は変わらない。幼気な笑みが、オリヴィアには、毒を垂らしたように見えた。
「な、にを……」
「兄上は近々廃嫡になる。知らなかったわけじゃないだろう?」
甘やかされた王太子。忠言は聞かず、傍若無人に振舞い、問題を起こしては擦り付け隠蔽。国庫の横領が発覚したのは、極一部の人間しか知らない事実だ。そして、その一部の人間には、婚約者であり次代の王妃となるオリヴィアも、含まれている。
父のくれたテディベアは、古臭くて気に入らなかった。代々受け継がれてきた手鏡は流行遅れだった。幼い頃からオリヴィアを育てたに等しい侍女は、その本性を知っていた。
だから、要らなかった。邪魔だった。捨てたかったから、押し付けた。
「彼女は、リリィは、屑籠じゃない。」
ヒューバートの声が変わる。幼い高い声だというのに、冷たく鋭かった。
完璧に演技してきたはずだった。気の弱い妹に反論させず、リリィがねだるから仕方なかったと、周囲に思わせてきた。それらはずっとずっと、成功してきたはずだ。
テディベアを譲った褒美は素敵なドレス。手鏡を奪われた慰めは流行のジュエリー。侍女は御しやすく若いセンスの良い者になった。だから、要らない婚約者の代わりには、より良い次の話がある筈だった。
だが、立ち上がったヒューバートは、もうオリヴィアを振り返ることもなく去って行く。
オリヴィアは一人、ガゼボで呆然とするしかなかった。
***
リリィは、いつでも素敵なものに囲まれていた。たったひとつ、姉以外は。
姉のオリヴィアはいつも、リリィが如何に我が儘で甘やかされているかと、自分はそれに耐えているかのように振舞う。反論したとしても、口の上手いオリヴィアの手にかかれば、それすらもリリィが如何に悪質かという話に持っていかれてしまうのだ。
幼い頃。姉妹で初めてのお茶会に向かう時、オリヴィアはテディベアを持っていた。馬車の中で貸してくれるというので抱いていたら、会場までずっと自分が持つことになった。
『あら、リリアン様。素敵なテディベアね。』
『あ、これは……、』
『お父様が、誕生日にと下さったの。……私に、だったのだけれど。』
オリヴィアがそう憂い顔で言えば、令嬢たちは笑顔をさっと曇らせた。しかしリリィは、それを察せるだけの年齢ではなかった。何となく、自分に向けられる目が、厳しいと感じる程度だった。
自分と、テディベアが見られている。あっと思ったオリヴィアが、姉にテディベアを返そうと差し出した。
『おねえさま、ありがとうございましたっ!』
『……そう。そんなに喜んでくれて、嬉しいわ。……お願い、大事にしてね。』
『え……、』
奪い取ったテディベアを、誇らしげに掲げる我が儘な妹。それを、切なげに、しかし責めることなく、静かに見つめる姉。
周囲から、非難の目が強くなる。ひそひそと話す声がする。なんて子なの。ひどいわ。オリヴィア様、おかわいそうに。
そんな風に、ひとつひとつ、積み重ねられていった悪評。オルコット公爵家の姉妹の話は、優しい姉の美談と我が儘な妹の醜聞で、貴族に好まれた。
そんな昔を思い出しながら、リリィ、リリアンは、何とか抜け出してきた会場を振り返る。今頃あの中では、あの日のお茶会のように、自分が酷く言われているのだろう。
ひと気のない場所へ行こう。そう思ってリリアンは明かりのない方へ、ない方へと進んでいると、不意に声がかけられた。
「リリィ」
「っ、ヒュー、バート、殿下、」
リリアンが振り返ると、そこには先ほどまで見ていた赤と黄金があり、咄嗟に身構えてしまう。そんな自分を痛ましげに、そして気遣わしげに見ているのは、同じ色彩を持っていても全く違う、心優しい人だった。
ヒューバートは、年相応の不安げな顔をして、距離を詰められずにいた。しかしリリアンが、自分の顔を見て肩の力を抜いたのを確かめると、ほっとして歩み寄る。華奢で小柄なリリアンは、まだ幼さの抜けないヒューバートよりも目線が低かった。
ドレスが触れないギリギリの距離まで近付くと、二人は見つめ合う。
「ねぇ、約束、覚えてるよね?」
「……あの、本気なのですか?」
数年前。オリヴィアによる姉妹の寸劇は、王家主催のお茶会の席でも構わず行われていた。特に酷かったそれにたまらず逃げ出したリリアンは、その先で、勉強から同じく逃げ出していたヒューバートと出会った。
『ねえ、どうして、ないてるの?』
リリアンの手には、あのテディベアがあった。オリヴィアに、耳を千切られた上に持たされたのだ。そしてオリヴィアは、奪い取ったくせに大事にもしないとリリアンをこきおろし、胸を痛める自分を演出していた。
『せっかくっ、おとうさま、がっ、おねえさまにって……、それなのに、それなのにっ、』
『うん、うん』
『だいじに、してたの、言われたから、……でもっ、バートのみみ、とっちゃったの……』
自分よりも随分幼い子に慰められながら、リリアンは堰を切ったように泣いた。きっとこの子も、姉と話せば離れていってしまうと、そう思いながら。それでも、抱え込むには辛過ぎた。
天使のような少年は、ふわりと笑ってリリアンの頭を、ゆっくりと撫でた。そして、ポケットに入っていたハンカチを差し出して言う。
『ぼくも、バートだよ。ヒューバート。おなじだね、よろしくね?』
可愛らしい少年は、自分の名前がテディベアと同じだと、あどけなく笑った。リリアンは、その眩しい笑顔に慰められ、ハンカチを受け取り泣き止んだ。
『……ありがとう、ヒューバート。こんど、お礼をするわ。』
『じゃあ、およめさんになって?』
『あははっ、いいわ。わたし、あなたのおよめさんになるわ!』
ヒューバートが第二王子だと後に知ったリリアンは慌てたが、オリヴィアがジョナサンの婚約者に、次期王妃に選ばれたことで、幼子の約束は流れてしまった。同じ公爵家と二つも縁談が成立するはずもない。
しかし、リリアンが一番恐れていたことは、起こらなかった。
ヒューバートはオリヴィアと話しても、変わらなかった。
「一目で惹かれて、話して惹かれて、……もう、君以外は考えられないんだ。」
「……殿下……、」
ヒューバートは、あの日と同じように、ふわりと笑う。そしてそうっと、宝物に触れるように、リリアンの頬に触れた。リリアンも、それに応えるように、その手に手を重ねる。
「愛しているよ、リリアン。……僕と、結婚してくれますか?」
「……はい。私も、愛しています……!」
誰にどう思われていても、この人は、自分を見てくれる。知っていてくれる。
その幸福にリリアンは、花が綻ぶように微笑んだ。
誤字訂正しました。報告ありがとうございます!