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苦手な方はご注意ください。

僕と私の生きる道

作者: 神鳥葉月

 陽がつるべ落としのように沈んでいった晩秋、小さな街の小さな病院の一室に、女の絶叫が響き渡る。

 LDR(Labor Delivery Recovery 陣痛分娩室)に入ってからずっと、彼女は息も絶え絶えに荒い呼吸を繰り返し叫び声を上げていた。

 苦しみながら爪を立て、寄り添った男の太い腕を血が滲みそうなほどに掴むか細い彼女の腕を、男が反対側の手で優しく、しかし力強く包み込む。

 全身から汗を流し、彼女はただひたすらに戦っていた。


「ぐあああああああ!!!!!!!!」


 何度も何度も訪れる陣痛に顔を歪める女。

 男はただ黙って手を包み込み続ける。


 やがて…


 病室から彼女の叫び声が消え、代わりにかすかな、だが確かな生命を感じさせる泣き声が聞こえてきた。


「おめでとうございます!可愛い女の子ですよ!」


 付き添っていた男は立ち上がり、包み込んでいた女の手を自分の掌と腕でギュッと握りしめると、


「おつかれさま」


「ありがとう」


 男は女を抱きしめて軽くキスをした。


 助産師が赤ちゃんを取り上げて産着にくるみ、だっこして女の顔もとまで寄せる。

 男は女が最初とばかりに赤ちゃんから笑顔で離れると、母子の初対面を写真に収めようとスマホを取り出す。


 息も絶え絶えに疲れ果てやつれ果てていた女…母親は、ゆっくりと、けれど力強く顔を赤子に向けると一言、


「生まれてきてくれてありがとう」


 と涙を流しながらくしゃくしゃの笑顔で呟いた。

 妊娠が分かってから、そして腹を蹴り上げられるたびに感じていた生命の存在。

 この世にただ一人、かけがえのない私たちの子供として生を叫んだ瞬間を目の当たりにした。


 こんな「不完全だったわたし」から生まれてきてくれた。

 わたしはお母さんになれたんだ。

 わたし本当に女になれたよ。

 生まれて二十数年、女として七年、その間の様々な思いが彼女にこみ上げた。


 男はそんな愛おしい存在の祝福された二人を見て、改めて父親としての決意が心の中に生まれた。


 本来なら有り得なかった生命の誕生。



 彼女は子供を産める体ではなかった。


 七年前に彼女に襲いかかった悲劇。けれども彼女はそれを男と共に乗り越え、今ここにいる。


 愛する家族のツーショットをしっかりと撮影し、その後自分も雄叫びを上げて家族の輪の中に入っていった。






 数日後。

 ようやく体調が安定した母親の元に友人たちが祝福に訪れていた。

 母親の名は小鳥遊晶(たかなしあきら)(旧姓:月見里(やまなし))。

 黒髪のロングを首裏でまとめ、ノーメイクで友人たちを横に寝ながら迎えた晶は、胸に白い産着にくるまれた赤ん坊を抱いていた。


「寝ころびながらでごめんね」


「無理はしなくていいから」


 晶の顔は出産後だというのにあまりそれを感じさせることはなかった。が、訪れた友人たちはそれを指摘しない。当たり前だと思っているようだ。


 訪れた友人は三人。いずれも女性だ。

 小原小百合(こはらさゆり)二十三才。

 黒澤美緒(くろさわみお)二十三才。

 竹宮桃華(たかみやももか)二十二才。

 三人とも母親の高校時代の同級生。

 父親(小鳥遊涼(たかなしりょう))の姿はなく、赤赤ん坊を含めた五人の女性が部屋に集まっていた。


「いやぁ、まさか晶が私たちの中で最初にお母さんになるとはな!」


 小百合が楽しそうに言い、晶の胸の中で目をつむって寝ている赤ん坊を慈愛のこもった目で見つめる。


「今はあのカプセルみたいなところに赤ちゃん入れないんだね~」


「それに畳の部屋なんて、ちょっと意外」


 美緒が不思議そうに部屋の中を見渡し、桃華は今自分たちが座っている畳を撫でながら言う。


「お産も分娩台じゃなくて、この畳の上だったんだ」


 晶が友人たちに囲まれて、クッションで体を楽な姿勢にして、上半身を起こしながら言う。


「フリースタイル出産って言うの」


 あいにくまだまだ出産のあてがない三人は晶の言葉に素直に耳を傾ける。もちろんこれからの自分のためにも興味津々だ。


「いざ出産!ってとき、どうしても体に力入っちゃうけど、そういうとき人間楽な姿勢取りたがるじゃない?お腹痛かったらお腹押さえて背中丸めたり」


「うん」


「分娩台だと姿勢固定されちゃうから変な風に力入ったり子宮への血流が減少しちゃうんだって。フリースタイルだと畳の上で楽な姿勢でいきれるから母体にも子供にも優しいみたい」


「なるほど…」


「フリースタイル出産って名前ついてるけど、昔のお産なんて畳の上が普通だったからさ、当たり前のことなんだけどね」


「そうだねぇ~」


「もちろん分娩台での出産のほうが今の日本ではまだまだ主流だけど、皆が出産するときはこっちをオススメするよ」


 流暢に話す晶に三人はただ相づちを入れるしかない。

 どこからどう見ても晶は母親だった。



 彼女、晶の悲劇。

 もちろん三人とも今さら何も言わないし否定なんてもっての他だ。

 それでも出産という女の一大ライフイベント、聞いてみたくなるのが悲しい人間の(さが)だろうか。

 意を決して小百合が口を開く。


「出産ってやっぱり辛かった?」


「辛かったよ。なんか痛くて叫び声が獣になってた気がする」


「獣って」


 みんなから笑いが起きる。


「でも一番しんどかったのは陣痛かな」


「そうなの?」


「今まで生きた中で一番痛い生理痛の三倍くらい痛いのと一番痛い腹下しが両方同時に来てて、なのにトイレに行けない状態がずっと続く感じ?まだ子宮口6cmくらいしか開いてませんね、って言われるんだよ」


「うわぁ」


 思わず下腹部を押さえてしまう三人。

 晶が抱っこしている赤ん坊の頭が自分の中から出て来るのを想像しようとするが全然出来ない。


「男のアレですら大きいと感じちゃうのに、赤ちゃんの頭なんて比べものにならないよな」


「その奥も開くのよ、小百合」


「人体すげー!」


 再び笑いが巻き起こる。

 赤ん坊はこんな環境の中、ぐっすりと寝ている。


 やがて小百合がしみじみと言う。


「晶はさ…やっぱすごいな」


「?」


「『七年』でアタシたち追い越しちゃってさ」


「ああ~」


 『七年』という単語に、晶は合点がいったように嬉しそうに大きく頷く。

 彼女たちの間で『七年』という単語はとても大きな意味を持つ。


「私はさ、性転換してから皆にすごく助けてもらったから」


 目を閉じて感慨深げに言葉を紡ぐ。


「私の居場所もクラスの皆が守ってくれたから」


 そこで一息つくと


「クラスメートとは今も仲が良くて、女友達もたくさん出来て、彼氏も出来て、結婚して、子供も産んで、こんな可愛い子がいて」


 後半の言葉に少し半目になる独り身の女性二人。


「こんな素敵な親友も出来たんだから女になって良かったよ」


 そう言って太陽みたいな笑顔で小百合、美緒、桃華を見渡す晶。


「ホントにこのたらしは…」


「晶ちゃんもっと言ってやってよ~、この二人に~」


「小百合たら何聞くかと思えば…。こうなるに決まってるでしょ」


 桃華はわざとらしいため息をつくと、そう言えばと


「もうこの子の名前決まったの?」


「うん!」


 晶は嬉しそうに答えた。


「この子の名前はねー」






 小鳥遊晶(たかなしあきら)月見里晶(やまなしあきら)は元男だ。

 読書が趣味で学校の成績は上位。ただし運動は苦手。

 そんなどこにでもいるような彼は高校一年の時、突然一晩で女へと性転換した。


 世界でも数十年に一度の症例、しかも二十一世紀では初の症例の性転換症に罹患し、晶は世界規模の大騒動に巻き込まれた。


 小鳥遊涼(たかなしりょう)は晶の幼なじみの男だ。

 幼い頃から家が隣同士、お互い一人っ子、そして家族同士の交流も合ったこともあり、家を行き来しては遊び合う仲だった。

 晶とは違いスポーツが得意で、子供の頃よくいじめられていた晶を助けていたのが涼だった。

 ただし勉強は得意ではなく、よく晶に教えられていた。


 平凡な生活が続いていたある日、晶が一晩で眉目秀麗な女の子へと変化した。

 最初こそ自分の体の変化を受け入れない晶の行動に涼は右往左往し、ときには晶の見た目に女らしい仕草が伴わないために大胆に見せる赤裸々な肢体に赤面もしていたが、やがて彼女に惹かれていき、晶も常に隣で自分を守る彼の姿に次第に惹かれ、恋仲となった。


 晶の女体化は様々な分野で議論を巻き起こした。


 ゆっくりと性別が変わるならともかく、一晩にして性別が変わるなど自然界でも有り得ない。


 そして見た目も問題となった。

 平凡な男性であったはずの晶は素晴らしいスタイルと美貌を兼ね揃えた魅力的な女性へと変化していたのだ。

 このことに多くの人が、とりわけ美を求めてやまない女性たちがその秘密を求めて騒ぎとなった。


 そして極めつけは若返り。

 晶は性転換した際に若返っていた。

 身体の精密調査から導き出されたその結論、『若返り』こそが世界を巻き込んだのだ。

 多くの社会的地位を持つ人間や死をただ待つだけの人間がそれを求めた。


 がそれも過去の話。

 彼女たちは約一年で奇跡的にそれらの大騒動にケリをつけ、平凡な元の生活へと戻ったのだった。


 晶が女になった事実だけを残して。






 三ヶ月後。

 晶と赤ん坊は無事に退院し、マンションの一室にある小鳥遊家へと帰って来ていた。


「さくら~~」


 だらしない声で赤ん坊ーさくらーの顔をのぞき込む涼。

 涼は大学卒業後、地元の商社に入社した。

 学生時代から鍛えていた体は服を着ると全く感じられなくなってしまう。いわゆる細マッチョだ。

 ショートの黒髪をワックスで固めて通勤している。

 そんなナイスガイも一人娘のさくらの前には相好を崩しひたすら甘やかしている。

 いや、甘えているのかもしれない。


 キッチンに立つ晶はそんな旦那と子供の様子を背中で感じて苦笑する。


 キッチンからリビングに晶がお盆を持って入ってくる。

 涼はリビングのソファに座ってさくらを胸に抱いていた。

 さくらは両親の会話もなんのその、グッスリと寝ていた。


「すごいよなぁ。こんなちっちゃな手にちっちゃな指があって、俺の指を握ってる。体もあったかいんだ。いのちってすごいよなぁ」


 涼は自分の小指を握ったまま寝ている我が子を見てしみじみと呟く。


「そうね」


 晶はお盆をテーブルに置くと、涼の横に座ってさくらの寝顔をのぞき込む。


「まだ三ヶ月しか経ってないのに、もうこんなに大きくなって。泣くのと寝るのが仕事だものね。いのちってすごいわ」


「いつもお疲れ様、晶」


 涼はそう言って晶にキスをする。


「夜の授乳大変だろう。俺ももう少し子育て出来たらいいんだけど」


「みんな生活あるもの。涼はお仕事、私は家事、さくらはおっぱい。だから外で働いてしっかり私たちを養ってね、アナタ」


 晶が涼にキスをする。


「さくらに旦那取られてるから、私先にご飯食べちゃうね」


「おいおい、娘にヤキモチやくなよ」


 冗談めかした晶の言葉に涼がツッコミをいれる。


「ふふっ」


「ははは」


 どちらからともなく笑い出すと、晶は立ち上がり、テーブルの椅子に座ると先に食事を取り始めた。

 せっかく二人いるのだ、さくらの世話も二人で。


 小鳥遊家ではあらかじめ子供が生まれるにあたり、ルールを作っていた。

 お互い家事をしよう。

 お風呂もどちらも入れられるようにしよう。

 二人揃っているときは交代で休憩しよう。

 聞けば当たり前のルールを、二人はしっかり守っていた。


 そもそも母親である晶も元は男だ。

 女として生き始めてまだ七年。

 それまでは家事なんて母親に任せっきりだった。


 そんな晶も女になってから料理を覚えお弁当を作って涼にアタックしたり、ファッション雑誌を読みあさって涼とのデートに披露したり、女性の所作を覚えたり、ついでにイケない奉仕の仕方も覚えてしまったり。


 閑話休題。

 短い期間で同世代の女の子と女子力で肩を並べ、心を身体に合わせ、芽生えた気持ちを素直に育てて恋に愛に昇華し。

 とにかく晶は努力した。


 その姿を知っているからこそ、涼も「俺には出来ない」なんて口にはしない。

 彼女の頑張りを隣で見、その成果を享受した彼は、だから同棲していた頃も一緒に家事を手伝い料理を覚え、今では子育てを一緒にしている。


「ごちそうさま」


「ふえええん…ふぎゃあああああ」


 晶がそう言うと同時にさくらがむずがり間をおかず泣き始めた。


「あらあら…、ちょうど良かったわ。涼、さくら受け取るね」


 晶は椅子から立ち上がると改めて涼の隣に座ると、泣きじゃくるさくらを涼から受け取った。涼は入れ替わるようにテーブルの椅子に座ってご飯を食べ始めた。


「おはようさくら。どうしたのかなー?」


 晶はさくらに話しかけると持ち上げてベビーウェアに包まれたお尻を匂ってみる。


「臭くない。今まで寝てたし おっぱいかな?」


「さくらも晩ご飯だね」


 二人で笑いながら晶は授乳服の授乳口から胸を出し、さくらの口元に近付ける。

 さくらは口元の乳首に気が付くとすぐに泣き止み、乳首を口に含んで母乳を飲み出した。


「一心不乱に乳首吸ってるのを見ると本能ってすごいわ」


「いのちは本当に不思議ですごいよ」


「アナタが乳首吸うのも本能かな?」


「ごふっ!」


 晶の言葉に涼がご飯を吹き出す。


「げほっけほっ…。いきなりそんなこと言うなよ」


「つい?」


 舌を出しておどける晶にやれやれといった感じで大きく肩をすくめる涼。


「本能だよ本能。男はおっぱいには逆らえないよ。晶だっておっぱい好きだったろ」


「まあねぇ。あの頃は二人ともエロガキだったし?」


「俺は尻派だったけどお前は胸派だったからな。どうだ、さらに大きくなった胸の感想は?」


「大きいと母乳がたくさん出る気がして嬉しいかな。出来ればさくらは母乳で育てたいもんね」


 晶のママ目線にツッコミをいれる涼。


「お前から振っておいてそれはないだろう」


「あはは。ごめんごめん。男の頃はおっぱいに幻想持ってたけど、女になってからは自分の胸は自分の体だから特に感慨もなくって。大きさや形で同性の胸見てたくらいかな」


「そんなもんか」


「そんなものですよ」


 両親の馬鹿馬鹿しいやりとりをよそにさくらはただひたすらに母親の胸で幸せな一時を過ごしていた。






「ありがと…」


 桃華がスマホを鳴らして一分ほどすると、ドアの鍵が開く音がして、チェーンの向こうから疲れ切った晶が顔をのぞかせた。


「こういうときのための私だから気にしないで」


 チェーンが外されると桃華はドアを開け、晶から寝ているさくらを預かった。

 そして小鳥遊家へ入っていく。


 涼は数日前から遠距離の国内出張に出ており、晶はさくらの面倒を一人で見ていた。

 桃華からはそれとなく手伝いの申し出があったのだが、晶はそれを遠慮していた。


「まずは一人で頑張ってみたくて…」


「気持ちは分かるわ。ちゃんとSOSくれてありがとうね」


 桃華はこのマンションの管理人である。

 仲良し四人組の中で唯一大学院まで進み、未だ学生の身分である。


 涼と晶は地元から離れるつもりはなかったが、さりとて両親と二世帯で生活することも選択しなかった。

 大学時代、地元を離れて一人暮らしや同棲をしていて、親の介入のない生活に慣れてしまったのだ。


 どこに住むか悩んでいた二人に、同じく店子を探していた桃華が声をかけた形だった。


 そして在学中に慎ましい結婚式を挙げた二人は、晶の妊娠が発覚するまでのわずかな短い間、時折桃華も呼んで三人で宅飲みをしていたりする。


「晶はしっかり寝てね、おやすみ」


「うん、おやすみ…」


 赤ん坊は空気を読まない。場をわきまえない。

 ただひたすらに自分の欲求を、泣き声という唯一の手段で周りに伝えてくる。


 それに晶は振り回されてKOされてしまった格好だ。

 桃華におやすみの挨拶をすると、ふらつく足で寝室に引っ込んでしまった。


 桃華は寝室から離れたリビングの隅に移動すると、可愛い天使の寝顔を見つめる。


「鼻ちっちゃいなー。眉毛もあるかないかくらい。可愛いなー赤ちゃん欲しいなー」


 桃華は仲良し四人組の中で唯一の彼氏なしである。

 とびきりの美人でスタイルも愛想も良く、ナンパも告白もよくされているが全部お断りしている。


 口の悪い周囲の男たちからは「白馬の王子様を待ち続けるお姫様(シンデレラコンプレックス)」から「シンコン」だの「デレコン」だの「百合姫」だの華麗なあだ名を頂戴している。

 本人曰わく「心に決めた人がいる」とのことなので、やはりお姫様だと周囲に生温かい視線で見守られているのは秘密である。

 斯様に頑なに彼氏を作らないのに、そのくせ赤ちゃんを可愛がるのだから困ったものである。


「もうすぐ美緒のところも産まれるんだっけ…」


 頭の中のカレンダーを見ていると、腕の中で動きがあった。

 見下ろすと目をぱっちりと開けたさくらと目があった。


「あ」


「ふえ…ふぎゃああああああ」


 次の瞬間にはさくらが顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。

 桃華は慌ててさくらのおしりの匂いを嗅ぎ、すぐに離して顔をしかめた。


「ウンチだぁ」


 勝手知ったる親友の家、すぐに紙おむつとおしり拭き、ビニール袋を準備すると、さくらをバスタオルの上に寝かせ、ベビーウェアのボタンを外し、おむつのマジックテープを剥がす。

 さくらの両足を片手で持ってそのままおしりを持ち上げ、おむつを手前に滑らせる。

 おむつの内面が包まれるよう片手で器用に畳み、おしり拭きでさくらのおしりの汚れを丁寧に拭い取る。

 使ったおしり拭きはビニール袋へ。

 何回か拭う内にさくらの泣き声は止み、両手はバタバタと動き、今まで泣いていたのが嘘のような顔で桃華をまっすぐな瞳で見つめていた。


「だうー」


「現金だよねー」


 そううそぶきながら念のためもう一度おしり全体を拭って新しいおむつを履かせ、股間のボタンを留めた。


 ここまで約三分。

 桃華は手際良くなってきた自分を誉めながらさくらを毛布の上に寝かせ、その間にゴミをまとめて専用のゴミ箱に入れ、洗面所で手を洗った。


 ここまで一分足らず。

 手を拭いている間にリビングから聞こえてきたさくらの泣き声に「おおぅ」と口から小さな驚きをもらしながら、桃華はさくらの元へ向かった。






「あー、あ」


「今パパって言った!言ったよな!?」


「言ってません」


 ある夜のリビング。

 涼はさくらを抱いて顔を見つめながら、さくらの声を聞いて晶に興奮した様子で問い掛けた。

 この質問も今日で何度目だろうか。



 今日はひさしぶりに家族で近くの公園に出掛け、さくらはベビーカーの中で終始ご機嫌だった。


 晶は涼をママ仲間に紹介し、涼は照れながらも公園デビューを果たした。


 晶は有名人だ。

 そもそもここは地元である。

 あの大騒動の早いうちに小さい地方都市である大神市内に晶の噂は流れ、騒動になり、やがて晶を守る人の輪が出来上がった。

 男から女に性転換した話は国連でも発表されたし、テレビやネット、マスコミも連日報道していたため、あの当時晶の顔を知らない者はいない。


 二人が実家に住まないのも、親友が管理するマンションに入っているのも、少しここらに理由がある。


 実家であればお互いの両親に迷惑をかけてしまうのも少しはあるだろう。

 親友が管理するマンションならば情報漏洩もなかなか起きないだろう。


 公園の丸く設置されたベンチに座りながらママたちは談笑していた。


「晶ちゃん旦那さんにどうやって口説かれたの?」


「口説かれたというか、もう私が惚れちゃってて…」


「あらあら~。どこに惚れたのかしら?」


「私男だったじゃないですか。なのに涼ってば私を一人の女の子として見てくれて…。今思えば当時はブラしないまま彼の背中に抱きついたり、彼の背中に不用意に乗ったり…。恥ずかしっ!でも涼はラッキーとは思わずに私のために、ちゃんと私を叱ってくれたんです。そのときはなんとも思ってなかったんですけどね」


「「「あら~」」」


 この場はマズい。

 涼はゆっくりこの場を逃げ出そうとしたが、ベビーカーの持ち手は晶が、指をさくらが握っていたため振り解くことは出来なかった。


「で旦那さんは晶ちゃんのことどう思ってたの?」


「え?いやー恥ずかしいですね」


 急に、やはり話を振られた涼は心の汗をかきながらごまかそうとしたが、晶が顔を赤くしながらも自分をじっと熱のこもった視線で見つめていることに気付き、腹を括った。


「晶は幼なじみの親友で、女になるまではもちろん恋愛対象に見ることはなかったんですよ?女になってからの晶は自分が女だっていう意識が全然なくて。さっき晶が言ったように距離感も男のままで。最初は仕方がないからフォローしてやるかと思っていただけだったんですが、町で晶が野郎どもに無理やりナンパされてたときに助けたことがあって。そいつら晶のことを男女(おとこおんな)とバカにしてて、つい『俺の彼女を悪く言うな』って殴りかかってしまって。そのときに『彼女』という言葉がストンと心に収まって。あ、俺こいつに惚れてたのか、と気づきまして」


 ふと一人でベラベラとしゃべっていると涼は我に返り、周囲を見渡すと、周りのママさんたちはにこやかな笑顔を浮かべて聞き入っており、晶は先ほどよりも顔を真っ赤にして目を潤ませていた。


「それで俺から晶をデートに誘ったんですが、そのときがまた晶が」


「涼!もういいから!」


 恥ずかしさの限界を超えた晶が涼の口を両手で塞ぐ。

 そんな二人を見て可笑しそうに笑うママさんたち。

 ベビーカーの子どもたちも泣くことなく笑っているようだった。



 ああもう恥ずかしい。

 お昼の様子を思い出して晶が再び熱くなった頬を両手で冷やしていると、さくらが涼の手の中から顔を出していた。


「マーマ」


「「!?」」


 さくらの口からこぼれた言の葉に二人は驚いた。


「さ、さくら?もう一回言ってみて?ほらママだよー」


「さくら!パパだよ!パ・パだよ!!」


 驚きから我に返った二人は一生懸命さくらに語りかける。


「だーだ?」


「違う!パ・パ!」


「あうー」


「さっきはママって言えたよね?ほらマーマだよー」


「だうー」


 両親が必死な顔で構ってくれるのが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべるさくら。手をバタバタさせて喜んでいる。


 数分後。


「だめかなぁ」


「そうね…。急ぐことじゃないのかも」


 あれからあやし続けても「ママ」とも「パパ」とも言ってくれないさくらに、二人が根負けする。


「私お風呂入れてくるね」


「パーパ」


「「!?」」


 二人が気を抜いてさくらから注意が離れたとたん、さくらが言葉を発したのが聞こえた。今度こそ間違いなく聞こえた。


「あ、晶…今、さくらパパって…」


「ええ、言ったわね…どうしよう、嬉しいんだけどこの子小悪魔な子に育ちそう」


 嬉し泣き笑いで涙を人差し指で拭い、そう言う晶。

 涼は再びさくらのご機嫌取りに入る。

 晶は改めてお風呂の準備のため立ち上がった。






「ほらさくら。ちゃんと挨拶なさい」


「こんにちは…」


「こんにちは!」


 小さな女の子と小さな男の子が向き合って丁寧にお辞儀する。

 今日は美緒が初めて息子の麗緒(れお)を連れて晶の家に訪れていた。

 小百合は今妊娠九ヶ月で今日は不参加。

 桃華はもちろん参加していた。



「麗緒くん今いくつ?」


「三才!」


 桃華の質問に男の子が嬉しそうに右手の指を四本立てて見せる。


「麗緒~、三才は三つ、い~ち、に~、さ~ん、よ~」


「やっ!」


 美緒が教えようと指を触ると嬉しそうに手を自分の胸元に持っていく麗緒。


「さくらちゃんは今いくつかな?」


「四つ。桃華おばさんいつもそれ聞いてるよ」


 桃華はさくらの言葉を最後まで聞かずに髪の分け目に軽くチョップを入れる。


「桃華ちゃんかおねえさんって呼びなさいっていつも言ってるでしょう」


「桃華、無茶言わないで。せっかく正しい言葉覚えてるのに間違って覚えたらどうするの?」


「未婚でおばさんは嫌あぁ」


「分からないでもないけどね。私たちはおばさんでもいいけど」


「そうだね~晶ちゃん、子どもたちに言われるのは慣れちゃうね~」


 主婦二人は余裕綽々である。

 桃華は未だ独り身。まだおねえさんで大丈夫だと己を信じている。


「さくらちゃん、何して遊ぶ?」


「わたしこの絵本読みたい」


「さくらちゃん麗緒くん一緒におままごとしよっかー」


 桃華が一人で遊ぼうとするさくらの手を引き、三人で客間へ行った。あそこにはおもちゃ箱が置いてあるのでそれを取りに行ったのだろう。


「桃華ちゃんって今何してるんだっけ~?」


 紅茶カップを手に取り首を傾げて晶に質問する美緒。

 一児の母となってもクセは消えないらしい。

 美緒は高校生の頃から付き合っていた彼と大学卒業と同時にゴールインし、しばらくキャリアウーマンとして活躍していたが、妊娠を機に寿退社している。


「桃華は大学に就職かな?研究したいんだって」


「すごいね~」


「その割にはよく遊びに来るんだけどね」


「当たり前じゃない!」


 桃華が子どもたちとおもちゃを引き連れて帰ってきた。


「ここに来れば晶や涼、さくらちゃんと遊べるし。晶のご飯美味しいんだよね」


「わかる~」


 桃華の言葉に美緒も同意する。


「桃華が一人でご飯食べるよりかは、ここで一緒に食べてくれたほうが楽しいし嬉しいからいいんだけどね」


 晶がわざとらしいため息をつきながら言う。


「ご飯代もいただいてるし」


「私もご飯代払えば晶ちゃんの手料理食べられるのかな~?」


「あいにくデリバリーはやっておりません」


「残念でした」


「おばさん早く遊ぼ~!」


「麗緒くんっ!?私のことはおねえさんと呼びなさいっ!?」


 笑いが巻き起こる小鳥遊家のリビングであった。






 大神市内、私立西園寺高校付属小学校入学式。


 さくらは新品の真っ赤なランドセルを背負い、学校名の銘板の前で着物姿の母親と一緒に並んでいた。


「撮るよ!はいチーズ!」


 父親の持つカメラがフラッシュを焚き、さくらは眩しそうにしながらも笑顔でなんとか目を瞑るのをこらえた。


「もう一枚撮るよ!」


「はーい!」


 さくらは自分の肩に合わないランドセルを何度か揺らしてポジションを整え、もう一度笑顔を浮かべる。


「はいチーズ!」


 再びフラッシュが焚かれたが今度は割と目を開けていられたなとさくらは思う。


「ありがとうございます」


 母親は周囲に頭を下げながら銘板の元を離れ、父親の元へさくらと連れ添っていく。

 さくらが周囲を見渡すと自分と同じような格好の子どもたちが集っている。


「ねえママ、麗緒くんは?」


 顔を見上げ、手をつないでいた母親に聞いてみる。いつも遊んでいる子がここにはいない。


「麗緒くんは来年入ってくるのよ」


「そうなんだ?」


 母親の言うことは難しい。

 麗緒くんが一緒じゃないことだけは分かった。


「よーし今日は外で食べようか!」


「ホント!?」


 外でご飯食べると父親が甘いお菓子をいっぱい買ってくれる。

 それを知っているさくらは父親に抱きあげてもらうと父親の頬にキスをした。


「パパ大好き!」


「パパもさくらが大好きだぞー!」


「もう、みんな見てるから早く行きましょ」


 呆れた母親がさくらを抱っこした父親を急かすと、三人は少し離れた駐車場へと移動した。


「お父さんあんまり無理しないでね?」


 母親が父親を気遣ってそう言う。


「さくらは軽いから大丈夫。なんならお母さんも一緒に抱っこしてやろうか?」


「バカ言わないの。ほらさくら。お父さん車出すからこっちおいで」


「うんっ」


 さくらは父親から降りると母親と手をつなぐ。


「ねえママ」


「なあに、さくら」


「みんながね、ママのこと変だって言うの。どうして?」


「どうしてかしらね?ママが昔男の子だったからかしら」


「ママにおちんちん付いてたんだよね。どうして取れちゃったの?」


「それはママにも分からないの。ねえさくら。ママ変かな?」


「ううん、ママは素敵なレディだと思うの!」


 さくらが母親を振り返って言う。

 その顔は溢れんばかりの笑顔だ。


「ご飯は美味しいし、服も作ってくれるし、いつも綺麗で優しいもん!」


 さくらが感情を爆発させる。

 さくらから見て母親はまるで魔法使いのようだった。

 さくらが出来ないことを何でもこなしてしまう。

 お店で出てくるようなケーキも作れるし、誕生日にはドレスまで作ってくれた。

 母親はすごいからさくらに分からないことを言うけれど、さくらにウソをついたこともない。

 怒るともちろん怖いけど、悪いのはさくらだし、しっかり考えて謝れば笑顔で抱きしめてくれる。

 絵本も読んでくれるしお勉強も一緒にしてくれる。

 だからさくらは母親の手をぎゅっと握りしめ、全身で母親の体に抱きつくと笑顔でこう言ったのだった。


「お母さん大好き!!」

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