第三話
冬のフェイウォンは冷える。窓や扉を閉め切っても、石造りのこの城も例外なく、どうしても冷え込んでしまう。だがそんな中を、普段の服装でリンは歩いていた。夕食を済ませ、灯り持って向かう先は、城から渡り廊下で繋がっている西の棟。魔法使いの部屋だ。扉を軽く叩けば、幾分顔色の良くなったルイが顔を覗かせた。事前に出向くことは伝えてあってので、そこに驚きはない。
「こんばんは」
「殿下……」
「ったく、なんて顔してるんだよ。食事は届いた?」
「……はい、さきほど」
「その様子だとまだ食べてないんだろ。とりあえず、入っていい?」
ルイの部屋へは初めてではない。リンは勝手知ったるなんとやら、何度も通ううちにいつの間にかできた自分の定位置へ、持ってきた灯りを置く。
「ルイさんが作ったこの魔法の灯り、冬は暖かくて夏は冷たい空気が広がるの、すごく便利だよな。城の皆も助かってるよ」
リンはそう言いながらさっと目配せする。この部屋はルイの魔法研究のために設けられたので、壁は窓以外すべて棚が作りつけられており、ほぼすべてにぎっしりと本が詰まっている。時には本だけではなく、瓶に入った何かとか薬草やら、魔法に使うであろうものが陳列されており、鍵のついた奥の間は女王でも滅多に入ることはないという。もちろん、リンも見たことがない。
いつもは整然と片付いているこの部屋が、今日は少し様子が違った。机の上に本は散乱し、栞代わりに紙が挟まれた本が積みあがっている。片付けと整理整頓は魔法使いの基本だと聞いたが、これは。
「ルイさん、ご飯食べよう。フィーさんたちも心配してたよ。昨日からあんまり食べてないって」
と、リンは簡易的な応接セットへ向かう。運ばれてきた食事は取り合えず置かれた、という感じがあるが、周りの本を適当に動かして、きちんと食べられるように整えた。片手間に食べられるように考えられたのだろう、パンに野菜や肉を挟んで串に刺したものがいくつかと、皮ごと食べられる葡萄が盛られていた。きっと氷室に保存していたのを出してきたのだろう。紅茶のポットがまだ熱いことを確認して、リンは配膳してやった。紅茶をカップに注いで、呆然と立ち尽くすルイの腕を引っ張る。
「ほら、座って。あったかいうちに食べなきゃ、俺怒るよ」
「え、あ……」
「フィーさんだけじゃない。これ作ったの、きっとダンでしょ。彼はルイさんの好みを良く知ってるから」
本を読みながら、仕事をしながらでも食べやすく、かつ栄養も補給できるもの。でも料理人としては美味しく食べて欲しいから、食べる人の好みを考える。ルイには塩と胡椒でシンプルに。これがリンなら少し香辛料を加えて。食べる時間もいつもより遅いから、肉等は少なめに、全体的に軽く揃えてある。
気遣いのこもった差し入れに、ルイは手間をかけさせた申し訳なさと、それでも自分のことを気にかけてくれる人がいることにありがたさを感じながら席についた。ほんのりとした野菜の瑞々しさと紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。静かに深く呼吸をして、ルイはカップに手を伸ばした。
穏やかに咀嚼して飲み込むルイの様子を、リンは向かいに座って、自分も片手に紅茶を楽しみながら眺めていた。ルイの暗色の髪は、部屋の灯りに反射して、不思議な銀色に波打つ。半分ほど伏せられた瞳は薄氷のようでいて、開くと意外とぱっちりとした猫目だ。昔、じっと見詰められて、見透かされたような気分になったことがある。その時はただ見惚れていただけらしかったが、それ以来、ルイの目には何か不思議な力があるような気がしてならなかった。余談だが、リン自身、見惚れられてぼうっとされることは慣れている。
ルイはその小さい口に合うように切られた食事を、順番に飲み込んでいった。もぐもぐと動く頬は小動物のようで可愛らしくもある。自分よりいくつか年上と聞いているが、リンより拳一つ分ぐらい背が低く、線も細くて華奢なため、使用人たちからは心配されることが多い。特に食の面で。
心配しているのは使用人だけではない。主であるリディアだって、彼の線の細さは心配していた。生まれつきゆえに気にしなくて良いと本人は言うが、それでも研究に没頭すると食事を忘れたりもするので、そういう時は何気なさを装ってリンが部屋を訪れ、こうして食べる時間を作るようにしていたのだ。
それももう、なくなってしまう。
こうしてルイが食事をするのを見守りながら、魔法使いの話を聞いたり、書物を読むのがリンは好きだった。自分には魔力が無いので使うことは出来ないが、知識として基本的な事を教えてもらったり、ルイが魔法を使う所を見るのはやっぱりわくわくするものだった。
「おいしい?」
「……はい」
最後の一口を飲み込んだタイミングで声を掛ければ、幾らかちゃんとした声の返事が返ってきた。
「夕食に来なかったって聞いた。今日は何に集中してたんだ?」
「……それ、は」
研究の事となると、雄弁になるタイプだが、今日は歯切れが悪い。
「……僕は、ずるい」
「ルイさん?」
俯いて、声を絞り出すように話す彼は初めてだ。リンは持っていたカップを置いた。
「ローディナイトとして、僕は貴方を一族に渡さなければならない。でも、それが嫌で、どうにかならないかって、ずっと考えてしまう。合わせる顔もないのに、それでもリン君に会いたくて、夕食を抜けば君がこうしていつものように来てくれるんじゃないかって、自分から会いに行けないからって、こうして」
ぱたり、と、ルイの膝に涙が落ちて服に染み込んだ。握られた拳が震えている。
「僕は、ずるい」
気付いていたのだ。リンがこうして部屋を訪ねる意味を、ルイはわかっていたのだ。何年もの付き合いになるのだから、気付かない方がおかしいのかもしれないけれど、あえてそれを口にすることはなかった。だって義務ではなかったから。心配の気持ちと、友人として遊びに来る口実と、リンにとって、理由はそれだけではなかったから。
「……そう、だね、ルイさんはずるいよ」
びくりと震えたルイの体に、リンはそっと語りかける。
「ルイさんは、これからの姉さんを、ずっと見ていられるだろう?この国を、姉さんが治める姿を、ずっと。……うらやましいよ」
本当ならば、そこに自分も並んでいるはずで。
その絵を想像したことは、何も一度ではない。
そうなったらいいな、と漠然とした希望を、リンだって持っていたのだ。
口に出して、やっとその事に気付いた。
この国のために死ぬ。
冷静に受け止めていたようでいて、分かっていなかったのだと気付いた瞬間、胸の中が真っ黒になりそうだった。
このままここにいてはいけない。
本能的にそう判断して、「おやすみ、ルイさん、また明日」と出来るだけ穏やかに言い残し、リンは部屋を後にした。
渡り廊下から見上げた夜空には、無数の針のような星。眩しいな、と吐いた息が白く溶けて、灯りを置いてきてしまったことに気付く。
まあ、いいか。
あのまま部屋にいたら、自分も泣いてしまいそうだった。そしてそれはきっと、ルイをもっと傷付ける。
「寒いな」
冷たい風が首筋を撫でた。早く部屋に戻ろう。
聞きそびれたことがあったが、それはまた明日だ。
踵を返し、リンは城の中へと戻っていった。
リンが去った後、魔法使いの部屋では鼻をすする音と、小さな嗚咽が響いてた。
一族の命令だとしても、一人の友人として、彼を助けたいと思うのはいけないのだろうか。散乱した本の中には、ルイに絶望を突きつける内容のものしか見つからなかった。どうしても助けられない。その事実を確認することで、自分を許してしまいそうになるのも嫌だった。仕方がないと、思いたくなかった。彼を見殺しにすることを、肯定したくない。
呼吸が整う頃には、リンが注いでくれたお茶はすっかり冷めてしまっていたけれど、ルイはそのまま一気に飲み干した。袖で涙を雑に拭いて、食べ終わった食器を出入口へ運ぶ。それから両手で自身の頬を、ぱん、と叩いた。
まだ、眠るな。眠るのは、全部終わってからだ。
何もできなくてごめん、なんて、言いたくないし、きっと彼も、そんな言葉は望んでいない。自分のことより、他人のことを考えてしまう人だ。そうでなければ僕は既に殴られていたって、罵られていたっておかしくない。
まだ、何か、出来ることがあるかもしれない。それを、探して必ず見付ける。
絶望の色を、塗り替えるために。
*
国の為に死ぬということは、愚かでなければ誇りになる。この国の王子として生まれたその時から、自分の人生はフェイウォン国の為にあると自負していた。第一王子とはいえ王位継承権は二番目。歳の離れた優秀な姉がいた。だから内乱や戦争に駆り出されて死ぬことも十分考えられたし、生まれてこのかた身の危険が全くなかった訳でもない。その時、自分の状況を鑑みて、どのような判断をするべきか。王家の血を引く者としての決断の仕方を、リンは分かっているつもりだ。
だから今回も、間違ってはいない。
寒くて暗い廊下を迷わずに歩く。城の中、いや、敷地内であれば、目を閉じていても歩ける自信はある。進む歩みとは裏腹に、リンの心は、後ろから何かに引っ張られているようだった。ルイの部屋に、灯り以外の何かを、置いてきてしまったような気がする。
「………………………………」
胸に手を当てて立ち止まる。どうも自分の様子がおかしかった。平常心を保つことが難しい状況だと理解はしているが、どうにも落ち着かない。心が波立っている。そしてその原因は、ひとつではないだろう。確固とした自信が持てない時は、姉に話を聞いてもらう事が多かった。だが、今回は流石に止めておこう、とリンは再び足を自室へ向けて歩き出した。夜も更けてきた所で、只でさえ忙しい姉にこれ以上頼るのも気が引けた。もう少し、自分の中で整理が出来てからにしたい。
そうと決まれば眠ってしまおう。リンは思っていたより自分の体が冷えていることに気付いて、自分で腕を摩りながら足早に部屋へと戻った。
暖炉の火の番をしてくれていたフィーに挨拶をして、灯りを忘れてきてしまったことを笑いながら話すと怒られた。
「冷え切ってるではありませんか。ほら、こちらへ。それからこれも」
暖炉の前に置かれた椅子に座らされると、既に暖かいそれに包まれてじんわりと体がほぐれた。その上更に肩から羊毛の織物をぐるぐるに巻かれる。
「ぷはっ、フィーさん、大袈裟だよ」
「大袈裟なものですか!そんな薄着で灯りも持たずに廊下を歩いて!」
フィーが腰に手を当てると、部屋の扉がノックされた。「ああ、来ましたね」と彼女は言うが、今夜は来訪の予定は特に無いはずだ。そんなリンの疑問はお見通しらしく、何でもないようにさらっと放たれた言葉に、リンは絶句した。
「陛下が、時間が出来たからたまにはと。私はこれで失礼いたします」
「え」
フィーと入れ違いに部屋へ入ってきた姉の姿を見て、リンは色々と諦めた。長い髪はばさりと流して、服装もゆったりとしたものだ。あ、これはもうこの部屋で寝るつもりなんだな、と。
そして、逃げられないな、と。
リンとしては、あと一日待ってほしかった。けれど、そんな弟のことなど、この姉はお見通しなのだろう。意地が悪いと言ってしまえば簡単だが、優しいのだ。この姉も。
「お前、そんなに寒がりだったか?」
暖炉の前でぐるぐる巻きになっている弟を見ての開口一番に、リンは情けなく笑い返した。
*
「そうか、ルイが」
経緯を掻い摘んで話しながら、リンはいつの間にか用意されていた薬草茶を淹れていた。カップへ注ぐと、ふんわりと優しい香りが広がる。心地よく眠れそうな、安心する香りだ。ふと、今日はよくお茶を淹れる日だなと思った。
姉へソーサ―ごと手渡しして、自分もお茶を手に椅子へ腰かけると、「良い香りだ」と満足そうな声がして嬉しかった。リンがこうしてお茶を淹れるようになったのも、元はと言えば姉のためだった。
たまには従者を伴わず、姉弟水入らずで話をしたい、そんな時に、簡単でも自分が給仕できれば良いと思ったのがきっかけだったように思う。自分が淹れる分には姉も気を遣わなくて済む。ただ、やはり侍従長からの合格点が貰えなければ駄目だということになり、結構な練習をする事にはなったが。
「あいつは、まだ諦めていない」
横から聞こえた平坦な声に、リンは顔を向けた。リディアの瞳の中に、暖炉の火が揺らめいている。
「それは私も同じだ。お前が死なずに済む方法があるのなら、それを選びたいと思う。だが」
落ち着いた声色に、リンは聞き入った。
「どうしても、いや、恐らくだが、王子としてのお前には、死んで貰わなければならない。仮にお前が幸運で、万が一に生き延びたとしても、『フェイウォン国第一王子のリン』は死ぬからな。王位継承権はいとこのリヴィウスに繰り上がる。……お前がいなくなるのは、この国にとって、正直痛手だ」
「姉さん……」
ぱちり、と小さく薪が爆ぜる。リディアの声に波は無い。
「この国は、女神フェイウォンを祖としている。だから代々女系が強いのだが……まあ今は良い。その女神の血を引くと言われているのが、我々フェイウォン家だ」
この国の成り立ちは、リンも諳んずることができる。幼子が読む物語として、広く国民にも知られている話だ。女神フェイウォンが人間の男と恋をする。様々な試練を乗り越え、二人は結ばれ、国を建てるまでになるのだ。
「我々は神の血を引いている、なんて、もう誰も信じてはいないだろうが……。お前を見ていると、本当なのかもしれんと思うよ」
「……どういうこと?」
掴みかねて首を傾げれば、リディアはふと微笑んだ。
「女神フェイウォンは美神ともいう説があってな。その美貌は、ある種の先祖返りなのではないかと。そうすると、ローディナイトがお前を指名した理由が分からんでもない。欲しいのは、神の血なのかと思ってな」
「神の、血?」
「あくまで私の推察だ」
そう言って、カップに口を付ける姉の姿を、リンはぼうっと見詰めていた。いつもは鋭く、すべてを掌握するように光る目も、今は柔らかく細まり、涙の膜が煌めいている。
「姉さんも、綺麗だけどな」
「はは、ありがとう、お前の高潔さには敵わんよ。……と、こんな話をする為に来たのではなかったな。リン、その様子だと、ルイからは何も聞いていないな?」
何も、とは。
リンが首を傾げると、リディアは承知したとばかりに普段のように足を組んだ。
「我が国と、ローディナイトとの関係だ」