第二話
2020/1/5 修正の為一部削除。
国のために死ぬ。
その言葉を、王子は恐ろしいほど静かに受け止めていた。その静寂に耐えきれなくなったのは、続きの間に控えていた魔法使いの方だった。
「なんとか、言ったらどうなんですか」
ふらふらとした足取りで、ルイは二人の元へ近付いた。
「なんとか、と言われてもな。姉さんがそう言うなら、俺はそうするべきだと思っているよ」
整った眉を下げて、ほとほと困った様子のリンに、ルイは自分の方が子供になったような錯覚を覚えた。
「俺は姉さんを信じているし、姉さんを信じている俺自身を信じてる。女王が最善だと選んだ結果なら、俺はそれを疑わない」
はっきりと言い切った王子は、足元の覚束ない魔法使いの肩を両手で支えてやった。
「ルイさんは、心配してくれたんだよな。ありがとう」
無礼とか言われてももうどうでもいい、と、ルイはしがみ付くように王子を抱きしめた。
*
「痛っ」
うっかり小さな声が出た。でも仕方ない。痛いんだから。リンは手に持っていた針と布を置いて、指先をじっと見詰めた。たった今針を刺してしまった所は、幸い血が滲むようなことはなかった。だが念のため、手当て用の小さい布を巻きつける。他のものに血が着いたら大変だ。一瞬の痛みはじわじわと緩和され、リンは作業に戻る。紫の布を、巾着にしているのだ。お針子に道具を借りた時、手伝いましょうかと言われたけれど、これは自分ひとりで完成させたかったから断った。
いくら姿勢を良くして、明るい所で作業をしていても、だんだんと肩や背中が重くなってくる。根の詰めすぎは良くないかもしれない、と伸びをしながら立ち上がった。自室の扉を開ければ、侍女がいつものように待機している。廊下に椅子を置き、今日は刺繍をしていた。
「殿下、如何しましたか」
「その刺繍、姉さんの?」
白いハンカチの角に、淡い紫の文様が糸によって描かれていた。白と紫は、リディアの好きな組み合わせだ。
「ええ。ご自分ではなさりませんからねぇ」
「姉さん、針仕事はからきしだもんな」
「淑女たるもの、とは言いますが、まあ良いです。お忙しい方ですから。私が代わりにお作り差し上げれば」
「でも、フィーさんがここにいるの、珍しいね?」
侍女の中でも最年長のフィーは、侍女長を務めているため、このような待機役になることは最近減っていた。
「たまたまですよ。さ、なんです?濃い紅茶にミルク多め、砂糖は控えめで香辛料配合の王子ブレンドをお持ちしましょうか?」
笑顔で言い当てられてリンは言葉に詰まったが、それでもなんとか立て直した。
「うん、それと、フィーさんの好きなお茶を一緒にお願いできるかな」
っていうか王子ブレンドって呼ばれてるのか。知らなかった。
リンの注文にフィーは一瞬目をぱちりと開いたが、すぐに腰を折って受け止め、歩き始めた。それを見送ったリンは扉を閉めて部屋へ戻ると、彼女が戻るまで作業を再開させた。
フィーと話がしたい時は、今回のようなお茶の頼み方をする。もう何年も続くやり取りだ。彼女にはリンも、女王のリディアも幼い頃からそれはそれは世話になってきた。いわば生活指導とでも言えば良いのだろうか。普段はしないが、炊事洗濯、身の回りの生活において必要なことを、知識と実践で教えてくれたのが彼女だ。もちろん、王家であるリンたちが、それらを完璧に出来ることは必要ではない。が、知っておく必要はある。鍋ひとつ洗い上げることがどれほど大変で、毎日当然のように出される食事を準備するのにどれだけの手間と時間が掛けられているか。お針子たちの仕事は魔法のようだとも思ったし、横で端切れを貰って作ったハンカチは、全然綺麗には出来なかったけれど、その後フィーに姉の処女作を見せてもらったら少し安心した覚えがある。銀食器磨きや、廊下の掃除は大変だった。少しでも汚れが残っていたり埃があると、フィーはすぐに見付けてやり直しを言い渡す。でもそれ以上に驚いたのは、「今日の廊下はいつもに増して綺麗だな」と姉がこぼしたことだった。リンが掃除したのは、リディアの部屋の前の廊下だったのだが、特にその話は伝えられていないはずだった。常に周りに目を向け、変化を見逃さない姉に感銘を受けたことを、リンは今でも忘れていない。
暫くして、巾着がなんとなく形になってきた頃、フィーがお茶のセットを持って戻ってきた。
「もうすぐ夕食ですけど、厨房の者から是非味見をと持たされました」
「わ、なになに、美味しそう」
「秋に採れたクリを長期保存できるようにしたそうです」
テーブルに並べられた皿には、一口サイズに切られたパンに、クリのペーストが塗られたものがちょこんと存在を主張していた。薄茶色のペーストに、粗く刻まれた実が混ざっている。
「クリって、あの棘に包まれた木の実だよな。収穫祭で見たことがある。その時は実をそのまま蒸かして食べたからほくほくしてた」
「今年は豊作だったようですよ。お茶もそれに合わせてみました」
と、フィーがポットから注いだのは緑色のお茶だ。紅茶よりも淹れるのが難しいため、飲む機会が少ないのでリンは思わず歓声を上げた。
「やった、緑茶!」
「……殿下、私しかおりませんから構いませんけれど、もう少しシャンとなさいませ」
「…………はい」
リンは姿勢を正して席についた。給仕を受ける側のそれ。
「フィーさんの前だと、どうしてもなぁ」
「お気をつけなさいませ。もし他国の姫君が知ったら、甘えん坊王子と呼ばれてしまいますよ」
「……ねえ、やっぱりお見合いの話って」
リンが恐る恐る切り出すと、フィーはちらりと一瞥をくれてから、手は止めずに口を開いた。
「殿下は王子ですから、貴族と違って縁談は慎重に進みます。家柄、年齢、王子のお立場を配慮し、女王と共に国政に参加できる器量があるかどうか、それと……」
「それと?」
「その見目に、発狂しないかどうか、ですね」
至って真面目に、しかしさらりと述べられた最後の条件に、リンはぴしりと固まった。
「…………いや、そんな、発狂て。フィーさんたちは普通じゃないか」
「我々は王子が幼い頃より見ております。言うなれば慣れているのです。公務で外泊している姉の姿が見えずに泣いていた男の子に、どうして発狂したりしましょうか」
「そのこと覚えてたの……」
幼い頃の、恥ずかしい思い出だ。あの時は本当に寂しくて恐くて、泣いて周りの大人を困らせてしまった。そして帰ってきた姉に叱られもした。
苦笑いを浮かべるリンに、フィーはさらにとんでもない事を言ってのける。
「もちろんです。新しく採用する使用人には、必ず聞かせていますよ。貴方の美しさは人間離れしている所がございますから、これでもかと失敗談を聞かせて、親しみと、庇護欲を持たせなければ。とうてい新規で人を採用することなどできません」
「フィーさん嘘だろ!?」
ぎょっとしたリンに、しかしフィーは黙ってお茶を啜った。いつの間にか配膳は済んでいた。しかしそんなことより。リンには大問題が転がってきたのだ。
新規採用、ってどこからだ?お針子は半分以上、かもしれない。それと侍女と侍従と……ええ?
「美しくても貴方は人間であると、きちんと理解できる者でなければ。姫を迎えるとあればそれは慎重にもなります。使用人は最悪入れ替えが可能ですが、伴侶はそうはいきませんからね」
なんだろう、この短時間にさらっと凄い事を、知らなかった事を聞いた気がする。リンは戸惑いながら、フィーが淹れたほろ苦くも甘味のある緑茶に口をつけた。
「貴方はただ美しく、守られているだけの王子ではない。寂しければ泣き、大切な姉が侮辱されれば怒り、魔法使いの友人と面白いものを見付ければ笑って、剣の稽古で負ければ悔しがって特訓をするような、普通の人間なのだと。畏怖の念を抱くような、肝の座ってない姫では話になりませんからね」
「肝……」
「ええ、大切ですよ、肝は」
「……覚えておくよ」
途中までは良い話っぽい語り口だったが、やはりフィーの気になる所は迎える姫になるようだ。
「まあでも、女王がそんな軟な姫を選ぶとも思いませんからね。最後は貴方に選ばせるかもしれませんが、どんな姫が嫁いできても、私たちは歓迎する心積もりでおりますよ」
そう、とリンは曖昧に笑って、クリのペーストが塗られたパンをつまんだ。
俺、あと数日でいなくなっちゃうんだけどな。
あまりにも唐突で、他人事のように湧いてきた不思議な気持ち。持て余してしまいそうになって、リンはパンを口の中に押し込んだ。