城塞都市の英雄
「戦争?」
それから長い月日が経った。
少年は彼の父と同じく騎士になっていた。
もう少年は、あの日の小さな少年ではない。
彼の体は力強い筋肉に覆われしなやかで、眉は凛々しく、赤い瞳には深い知性の色を湛えている。
さらに剣技では彼に並ぶ者無く、矢を放てば百発百中、誰よりも疾く馬を走らせ、都で開かれた馬上槍試合で優勝した事もある街の英雄だった。
申し分の無い若者になった彼の元には次々と婚姻の話が舞い込んだが、彼は一度も首を縦には振らなかった。
彼の友人たちは、あいつは剣と契を結んでいるのさと笑ったが、彼の心にはずっと一人の少女の面影があった。
彼は、連絡が途絶えて10年以上の月日が経った今でも片時も少女の事を忘れはしなかったのだ。
流星の下、あの夜の丘でのたった一度の少女との思い出だけが、ただ彼の愛の全てだった。
彼は連絡の途絶えた少女を、遠い国まで探しに行くつもりだった。
武術も、学問も、全て彼女の為に鍛え続けた。
今の自分であれば、どんな困難にも打ち勝てるだろうという自信が彼にはあった。
――それでも
それでも、と彼は思う。
もし遠い国で少女を見つけて、そして彼女が自分でない誰かと幸せに暮らしているのなら。
――それでもいいさ
と、彼は思う。
その時は黙って立ち去ろう。
そして誰も見ていない所で泣けばいい。
彼女の墓を見つけるよりは、そのほうがずっとマシなはずだ。
「戦争?」
「ええ、旦那様が都から来たお偉いさんと話してましたよ。多分あの国とは戦争になるだろう、って。もう隣の国にまで攻め込んでるらしいです。もしお隣がやられたら、国境沿いのこの街が最前線ですよ」
ある時、彼が密かに少女を探す旅に出るための準備をしていると、小間使いの男がやって来て彼にそう言った。
そして彼が調べてみると、確かにその話は事実であるようだった。
(今、街を離れる事は出来ない)
戦争は晴天の霹靂だったが、彼の心に恐れは無かった。
騎士ならば国を守る為に戦う義務があるし、このタイミングで立ち去れば逃げ出した臆病者と後ろ指をさされるだろう。
名誉を失う訳にはいかない。
それに街も。
ここは自分だけでなく、少女の故郷でもあるのだ。
隣国は二月と経たずに敗北した。
敵国は戦乱続く大陸の統一を大義名分に掲げ、さらには天啓を受けたと自称する神の使いを名乗る一騎当千の戦士の下に団結し、正に破竹の勢いを得ているという。
「守ってみせるさ」
しかし敵の軍勢が街に迫る頃、彼の槍の一突きはどんな鎧も貫くほど鋭くなり、剣は比類ないほどに冴え渡っていた。
あの時、二人を夜の丘に運んだ馬がたった一頭だけ産んだ雌馬が今では彼の愛馬だった。
彼はその雌馬にだけ、何度も少女の話をした。
その馬の母親に跨って二人で丘に向かった事を、丘の上で少女と星を見た事を、彼女が遠くに行くと知った事を、流れ星に再会を願った事を、一度だけ不器用な口づけをした事を、そして自分が今でもどれだけ彼女を愛しているか……。
彼がその話をする時、その馬はいつも静かな目で身動きせずに彼の話を聞いていた。
そして彼が最後に、いつか一緒に彼女を探しに行こう、そう言うと、馬は嬉しそうにブルルと鼻を鳴らすのだった。
やがて戦いが始まった。
最初の攻撃で防衛戦の指揮官だった彼の父親が負傷し、それからは彼が代わって指揮を取った。
彼は一気呵成に攻め立てる自軍に数倍する敵軍を街の強固な城壁を活かして追い返し、更に夜になると少数の手勢を率いて敵の野営地を襲い、食料庫に火を放ち、前線指揮官を討ち取った。
彼は戦い続ける。
ある時は味方の増援と連携し打って出て敵を挟撃し壊滅させた。
またある時は、敵の苛烈な攻撃の合間を縫うように突撃し、敵の攻城兵器を破壊した。
またある時彼は、突出しすぎて敵陣に一人取り残されたが、それでも立ち塞がる敵を全て切り伏せて悠々と街に凱旋しさえした。
戦場での彼は味方にとっては神がかり的な勇者であり、敵にとっては恐るべき戦士であり死神だった。
どんな強者も彼の前には数秒と立てず倒れ伏し、矢はまるで彼を避けているかのように当たらず、その指揮は的確で彼と彼に率いられた騎馬隊は常に鋭く敵の急所を突いた。
橋頭堡を確保できない事に苛立った敵国は幾度も増援を送り大規模な攻勢を幾度も仕掛けたが、彼と彼の指揮する少数の軍勢の守りは鉄壁そのものでどんな攻撃にも耐えた。
いつしか彼は城塞都市の英雄と呼ばれるようになり、敵軍には槍を振るう燃えるような彼の姿を見るだけで怯えて逃げ出す者すら現れるようになった。