少年と少女
「知ってる?流れ星にお願いするとね、どんな願いごとでも一つだけ叶えてくれるんだって。今日は10年に一度のね……」
壁の上に立ち、少年に背を向けたまま、少女はそこで言葉を途切れさせた。
――流れ星が願いを叶えてくれる
少年はそんなおとぎ話を信じてはいない。
少女だって、本気で信じている訳ではないのだろう。
二人はもう14歳なのだ。
何がおとぎ話で、何がそうでないのか、もう区別のつく歳だった。
それでも少年は少女に笑いかける。
「夜中にこっそり家を抜け出そう、噴水広場で待ち合わせだ」
「……うんっ!」
振り返り、弾けるように笑う少女。
少年はその笑顔がとても好きだった。
青く澄んだ深い海の色をした少女の瞳が、とても好きだった。
その時、彼方から吹きつける西風が街の城壁にぶつかって砕け、それが立ち昇るような強風に変わって城壁の一番上のフチに立つ華奢な少女の体を揺らし、彼女の金色の髪をまきあげた。
「あっ」
一瞬、くらり、とバランスを崩した少女の細い手を、しかし少年の薄く筋肉の付き始めた手がしっかりと掴む。
「バカ、落ちたら助からないぞ」
「……えへへ」
心配なやつ、僕が見ていないとどうなるか分からないぞ。
はにかむ少女を見て、少年はそう思った。
けれどそう思うのは、いつも不思議と嫌な気分ではない。
その夜、二人はこっそりと街を抜け出す。
「すごい、いつの間に馬に乗れるようになったの!?」
「喋ると、舌を噛むぞっ!」
遠くまで行くつもりはなかった。
乗れるようになったのを褒めてほしくって、少女に見せるためにだけに少年は家の厩からこっそり父親の馬を連れてきたのだ。
馬上でうかつに喋ると舌を噛む、というのも少年が最初に父親に教えて貰った事だった。
「あははっ、はやーい!」
びゅうびゅうと夜の風が顔に吹き付ける。
はしゃぎながらも、自分の背にぎゅっと掴まる少女の体温を少年は感じる。
――このまま、どこまでも二人で行ってしまおうか
突然、そんな思いが少年の胸を過る。
だがそれは一瞬の事で、そんな気持ちは風と共に夜の彼方へと消え去ってしまった。
「ここなら誰も来ない」
二人は、小さな丘の上で馬を降りた。
あちこちで鈴虫がりんりんと鳴いている。
目を細めると、闇の中の遠く遠くに、街の壁の上に立つ歩哨の持つ松明の灯りがちらちらとかすかに見えた。
思ったよりも遠くに来てしまったようだ。
少年はこんなに遅くまで起きていたのも、夜中に勝手に遠くまで出てきたのも始めてだった。
もう街の門は閉まっているだろうな、と少年は考える。
戻ったらきっと、こっぴどく叱られる事だろう。
なんとか自分が無理やり誘って連れ出した事にしないと――
「あっ、見て!」
「うわぁ……」
少女の声に空を見上げると、一筋の眩い光が夜空を切り裂くのが少年の瞳に映った。
思わず子どもっぽい声が漏れてしまい、慌てて少女の方を伺ったが、彼女は夜空を見るのに夢中でそんな事は少しも気にしていないようだった。
「あっ、また!」
更に1つ。更に更に1つ。
更に更に更に――
次々と流れる星はその数を増し、見とれる二人の頭上にはいつの間にか数え切れないくらいの星が流れていた。
■■■
「あのね……」
どれくらいの時間、星を眺めていただろうか。
空を見上げて寝転ぶ少年の指先に、少女の指先がそっと触れる。
とん、と少年の胸が微かに高鳴った。
「私ね、引っ越す事になったの。もう、会えないかもしれない……」
どくん、と、今度は強く少年の心臓が音を立てた。
「……どうして?」
言ってから少年は後悔した。
少女が小さくごめんね、と言うのを聞いて……
そんな事を言うべきでは無かったのだ。
――けれど、なんて言えばいい?こういう時に、どんな事を言えば……
流れる星の下の丘の上で、ただ沈黙だけが二人の世界に満ちる。
「元気で、ね」
とてもとても長い時間の後に、やっと少年は、たったそれだけ言う事が出来た。
「……うん」
少女も短く、それだけ答えた。
二人の手は、いつの間にかどちらからともなくきゅっと握られていた。
「私ね、お願いする。きっとまた会えますようにって、あの星にお願いする……」
少年はそんな話を信じてはいなかった。
少女もきっと、本気で信じている訳ではないのだろう。
それでも二人は願った。
空を流れる星に向けて、もう一度僕達が、わたし達が――
しかし流れ星は光ったかと思うと一瞬で消えてしまう。
願いを心の中で言い終わるまで待ってくれない。
流星の数はピークをとうに過ぎ、遠くの空はかすかに白みはじめてさえいる。
「このままじゃ……」
「あっ!」
少女が泣きそうになったその時、突然、今までで一番大きな流星が空を切り裂いた。
それは馬鹿みたいに明るくて、冗談みたいにゆっくりと流れてゆく。
((また、会えますように))
二人は尾を引く流れ星に、何度も何度もお願いをした。
「きっと、叶うよね」
「ああ」
そして二人は見つめ合う。
少女の青い瞳にはまだどこか頼りない少年の姿が、少年の赤い瞳には儚げであぶなっかしい少女の姿が映る。
やがて、どちらからともなく身を寄せ合った二人はそっと抱き合い、一度だけぎこちない不器用な口づけを交わした。
それから――
「あんまり、痛くしないでね」
「うん」
どこまでも広い空の下の小さな丘の上で、絞り出すような少女の初めて聞く小さな言葉の数々を、少年は半ば夢の中にいるような気持ちで聞き続けた。
やがて、流星が1つも見えなくなり、空がすっかり白くなった頃、二人は寝ていた馬を起こして街に戻った。
少年はこっぴどく叱られて、少女はその月の終わりに家族と共に遠い国へと引っ越して行った。
■■■
二人はそれからもしばらく手紙のやり取りをしていたが、ある時を境に、少女からの返事は突然ぱたりと途絶えた。