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見守る男

作者: 加藤

女性の方にとって非常に不快感のある表現が含まれている可能性があります。どうかご容赦ください。

 身も心も凍えるような、寒い冬の事だった。

 自分は頭が潰れた男の死体を眺めていた。顔と体の原型が判らない程にグチャグチャになっているが、少なくとも女性には見えないので、男だと判断する。少し離れた所でトラックが標識にぶつかっていた。周りには野次馬が群がり、酷く騒がしい。携帯カメラで写真を撮っている者もいる。車の中に、頭から血を流して運転席に伏せている運転手らしき男が居るにも関わらず、だ。

おそらくあの車に轢かれてしまったのだろう。等と、自分の事なのに妙に淡々と考えている。

 そう、この死体は自分だ。例え顔が潰れていても、それだけは直感的に確信できた。なのに……自分についての他の事は、全く判らない。この死体が自分だという事以外は何も判らなかった。性別でさえ、死体を見てやっと自分は男なのかと気付く程だった。

 一人称すら安定しない。俺、僕、私、自分。音を出さずに口を動かしてみる。どれも合っている様な、しっくりこない様な。自分は自身の事を何と呼んでいたのか。今は自分等と言っているが、これも本当にそう呼んでいたのか怪しい。

頭が潰れた際に、記憶まで潰れてしまったのか? 自分は空気を震わさないため息を吐いた。

今の自分は俗に幽霊と呼ばれるものなのだろう。足は自分には見えているが、野次馬たちにはやはり見えていないようだ。試しに自分の死体を触ろうとしてみる。何か判ることが在るかもしれない。が……触れない。すり抜ける。よく考えてみると当たり前の事だと気付く。自分が物に触れる為の肉体は、触ろうとした死体そのものなのだから。

 自分が妙に冷静なのは死んでいるからだろうか? それとも記憶が無いからだろうか? いずれにせよ焦燥感の様なものは浮かんでこなかった。あるいは幽霊とはこういうものなのかもしれない。

己の死に実感が持てず、唯彷徨(さまよ)う。

記憶が無いのは少し煩わしいが、それすらもどうでもよく思えてきた。感情が湧かない。体温などは無いに決まっているのだが、きっと自分は恐ろしい程に冷め切っているのだろう。そう思い物質的には存在しない瞼を閉じた。周りの騒音もだんだん小さくなっていく。しかし。

 違う。まだ終われない。

 記憶の奥に、一人の女性がいるのを感じた。瞼の裏に姿が浮かんで来る。長い黒髪を後ろで一つに縛った、気の強そうな切れ長の瞳の女性。美人な女性だ。強い感情を秘めた様な目で、誰かしらを見つめている姿の記憶。

胸に熱いものが注がれる。ありえないことだとは分かっているのに、動悸が激しい。息が熱くなる。思い込みではあろうが、死んでいてこうなのだ。肉体があったのならどうなっていたのか。この感情は知っている。他の事等考えられなくなる激情。死んでいると思えなくなる程の情熱。

 自分はこの女性に恋をしている。

 それを実感すると、いてもたってもいられなくなった。この女性は一体誰なのか。自分とはどういった関係なのか。知りたい。見たい。触れたい。

目を開ける。喧騒が再び耳に入り込んできた。野次馬は変わらず群がっているが、自分の目には先程とは違って見える。 

背景、いや絵だろうか。音を出す絵本と何ら変わらない。今の自分の目には、一人の女性しか映っていない。こちらに怯えた様な視線を向けて震えている黒い服の姿の女性。やつれて見えるが、間違いなく記憶の中にある女性だった。最初からいたのだろう。直ぐに気付けなかった自分に少し怒りを覚えたが、そんな事はどうでもいい。

 彼女は此方を見ている。正確には自分の前に転がっている自分の死体を見ている様だ。その目には、『見知らぬ人間に対する視線』とは異なる物が浮かんでいる。知り合い、だったのだろう。記憶にある限りでは、自分との関係は分からなかった。名前すらも分からない。一つだけ分かる事は、彼女に対する感情だけ。けれども今はそれだけで充分だった。

 唐突に彼女が踵を返してこの場から早足で立ち去って行く。自分は自分の死体に一瞥してから、後を追うことにした。


 追うのに苦労したが、彼女が速足で辿り着いたのは、コンクリート建ての一軒家だった。二階建てで、外から見る限りでは綺麗な印象を受ける。出来て一年も経っていなさそうだ。さほど大きくは無いが、悪くない家だ。何度も見たことがあるような、とても馴染み深いような、そんな気がする。表札には紫苑(しおん)と書いてある。彼女の苗字は紫苑と言うらしい。

彼女は玄関に着くと、鍵を開けて入り、直ぐに閉めた。直後に鍵も閉める音がした。忙しなく動く彼女は、誰かに見られていないか気にしている様子だ。

 自分も中に入ろうと思いドアノブに触……れない。困ったものだと少し思案してから、簡単な事に気が付く。自分はそのままドアに向かって進み、彼女の家の中に入っていた。幽霊とはずるいものだと苦笑いし、自分と彼女の間には障害物など無意味なのだ、等と馬鹿な事を考える。

 玄関にはハイヒールが一足置いてあるのみだった。傍に靴棚らしきものも置いてあるが、扉が木製なうえに閉じてある為、中が見えない。今この家には彼女一人だけなのだろうか。そう考えると無い筈の心臓が少しだけ弾んだ。

 今、何か視線を感じた様な気がする。気のせいか? 

 上から扉を閉める音が聞こえた。彼女はどうやら二階に上がった様だ。自分も階段を登って二階に上がる。二階には扉が三つあった。どれかに彼女がいるのだろう。取り敢えず階段から一番近くの扉をすり抜けて、部屋に入ってみる。

……トイレだった。洋風のウォシュレット付のトイレ。手洗いの近くに消臭剤が置いてある。少し違和感を持ち臭いを嗅いでみた。全く臭いがしない。消臭剤特有の香りもない。完全に無臭の空間。ふと自分の死体の事を思い出した。そういえばあの死体からも何も臭いがしなかった気がする。死後直ぐとは言え、あれだけ凄惨な死体から何の臭いもしないのはおかしい。恐らく、それも自分が既に死んでいる存在だからだろう。となると、彼女の匂いも嗅げないのだろうか。かなり残念に思う。

トイレを出て、次の部屋に入る。そこに彼女がいた。女性らしい、ピンク色を主体にした部屋。ここは彼女の部屋なのだろう。床に散らばっているものも無い、よく整頓された可愛らしい部屋だ。じっくりと観察をしたい所だが、自分の目は直ぐに彼女に対して釘付けになった。

「ケンジ、ケンジィ……」

部屋に置かれたベッドの上でうずくまりながら、彼女は震えて泣いていた。ピンク色の蒲団で体を覆い、しきりにケンジと呟いている。誰か男性の名前、に思える。あるいは自分の? 彼女はケンジという言葉しかその口から発しない。悲しみ様からして、きっととても大切な存在だったのだろう。亡くなった。あるいは恋人で、振られたとかだろうか。

「ケンジ。ケ、ン、ジ」

 自分もこの言葉を呟いてみる。聞き慣れた言葉、だろうか。前後の繋がりから考えると、自分の名前なのかもしれない。自分の死んでいる姿を見て、動転し、その場から走り去った。ならばやはり恋人同士だったのだろう。そうであれば、自分の彼女に対する激しい感情も納得がいく。彼女は恋人である自分の死を悼んでいるのだ。

そう思った瞬間、彼女への愛しさが膨れ上がった。そして同時に、悲しさと言い様の無い申し訳なさも。彼女はこんなにも恋人である自分の死を悼んでくれているというのに、自分には彼女に対する記憶が殆どない。

どれだけ経っただろうか。彼女は変わらず狂ったようにケンジと呟き続けている。自分はこの家を歩き回って見る事にした。自分と彼女に関する記憶の手掛かりが得られるかもしれない。今の状態の彼女を一人にするのは心配でならないが、だからこそ、直ぐに記憶を取り戻したかった。自分はまだ彼女の名前すら思い出していないのだから。一刻も早く、彼女に名前で呼びかけたかった。例え聞こえないのだとしても。

ここにいるよ、と。見守っているよ、と。

「ケンジ、私……」

 彼女の呟きを背に受けながら、自分はこの部屋を後にした。


 彼女の部屋を出てから、僕は何処から見て回るか思案してみた。と言っても、この家の何処に何があるかなど記憶にないので、一階から見るか、先に、二階にある残り一つの部屋を見るかの話だったが。残った部屋の扉を見てみる。特に変わった様子はない……が、何となく気が引けた。嫌悪感、だろうか? この部屋は後回しにして、先に一階から見て回ることにしよう。そう思い僕は階段を降り始め……僕? 

 階段の途中ではたと足を止めた。いつの間にか一人称が僕になっている。何の違和感もなかった。僕、僕。先程までは何かが違う感じがしていたのに、今はすんなりと受け入れている。無意識の内に自分の呼び方を思い出したのだろうか。自身の名前もまだ思い出していないのに? 

……いや、僕の名前は分かっている。ケンジだ。彼女の恋人であるケンジ。それは間違いない。きっと名前が分かった事で記憶から呼び起されたのだ。僕はそう思うことにした。

 一階に降りて、もう一度何処から見て回るか思案する。階段から降りてすぐに、ガラス張りの引き戸越しからリビングらしきものが見えた。中に入ってみる。リビングにはテーブルやテレビなどの日用品が置いてあるようだ。しかし中でも特に目を引くものがあった。外からでは見えないところに仏壇が置いてある。

近くに行って見てみると、二つの位牌と、一枚の写真が置かれていた。写真には彼女と一緒に、老年の男女が映っている。まさか、彼女の両親だろうか。この家は彼女一人で住むには広すぎると感じていたが、両親が死んでいたのだとすると、彼女は本当にこの家に一人で住んでいることになる。

……まだこの家を全て見たわけでは無い。断定するのは早いだろう。

しかし僕は重大なことに気が付いた。彼女一人で住んでいるならば、消臭剤の事は置いておくとして、トイレからは彼女の匂い以外存在しないことになる。幽霊であるこの身がとてつもなく恨めしい。

他にも台所を見てみたが、めぼしい物は特に見当たらなかった。玄関では幽霊とはズルイものだと思ったが、いざ調べ物をするとなると不便極まりない。開けたいものも開けられず、どかしたいものもどかせない。冷蔵庫の中身を見たいと思い顔だけを突っ込んでみたが、真っ暗で何も見えなかった。彼女の食生活を知りたかったというのに酷く腹立たしい。

テーブルの上に新聞が数部乱雑に置かれていた。その内の一枚、地方新聞の小さい見出しに載った、『男性一名がトラックに轢かれ死亡』という部分が気になったが、他の新聞が重なってしまっている為詳しくは分からなかった。


これ以上リビングで気になる物は見当たらなかった。念の為窓の鍵が閉まっているか確認してから、他の所を当たろうと部屋を出て廊下を見渡す。一階にはあと三部屋あるようだ。特に何も考えず近い方の扉をすり抜ける。

……トイレだった。念の為便座近くに鼻を持っていき、何の臭いもしない事を確認してからトイレを出た。決して彼女の匂いが嗅げないかと思ったとかそういうのではない。

隣の、鍵穴がある部屋に入ってみた。彼女の部屋よりか二回り程大きく、ベッドが二つ並んで置いてある。棚も三つほど置かれていて、その全てに隙間なく本が敷き詰められている。書斎と寝所が一つになっているようだ。ここは確定的に彼女の両親の部屋だろう。他にベッドが二つ並んで居る理由は思いつかない。

長らく掃除されていない部屋のようだ。床など随所に薄く埃が張っている。本棚には本が取り出された後のような埃の跡がある。しかしそれ以外は人が使った形跡は……。

 いや、おかしい。二つのベッドの内、片方は掛け布団が綺麗に折り畳まれて置いてある。しかしもう片方は最近まで誰かが使っていた様に皺が入っている。ここは彼女の両親の部屋だったとして、彼女の両親は既に故人のはず。ならばいったい誰がこの部屋のベッドを使っていたというのだろうか。

おかしな点は他にもあった。この部屋に付いている、人が一人余裕を持って通り抜けられる程の大きさの窓の鍵が、開いていたのだ。リビングは全ての窓に鍵が掛けられていたにも拘らず。そして極めつけとして、この部屋の扉には、鍵が掛かっていた。内側の捻る鍵の部分が横になっていたのだ。僕は訝しがりながらも、その理由を解決できないままこの部屋を出た。


 最後に残った部屋に入る。脱衣所のようだ。洗濯機と、バスタオルが数枚置いてある。数本の歯ブラシや石鹸等も見える。彼女の物も含まれているのだろうが……流石に彼女の物以外を、フリとは言え口に加えるつもりはないので止めておいた。

 洗面所。となると当然鏡がある。少し躊躇した後、思い切って鏡の前に立つ。自分の顔を確認できればと思ったが……そこには何も映っていなかった。

ありうることだとは思っていたが、やはり落胆してしまう。家を調べ始めてから、僕自身に関する事は何一つ分かっていないのだから。せめて自分の顔がどのようなものかくらいは把握しておきたい。

曇りガラスの敷戸も中にあった。気分を変えて心を躍らせながら覗いてみると、やはり風呂場だった。ここで彼女は裸になって体を洗っているのだ。生まれたままの、あられもないあれやこれやを曝け出して。いけない。幽霊の身でありながらとてつもなく体が熱くなっている気がする。人が今僕のいる空間に触れたら、不自然に熱くなっていて驚く事だろう。……人……風呂場……彼女……裸……。

自分を抑えながら、何かないかと念入りに風呂場を探る。シャンプーとボディーソープのメーカーから、彼女の髪の匂いと体の匂いを想像した。直に匂えないのは残念だが、今はそれで我慢するしかないだろう。排水口には妙に縮れた毛が付着していた。僕は流れるような仕草でその縮れ毛を掴んで懐へと……そもそも掴むことができなかったので、断腸の思いで諦める事にした。

他の事で頭が一杯になっていた為忘れていたが、風呂場には等身大程の姿見があった。そこにも姿が映らない事を確認してから、僕は風呂場を出ようとした。

この時僕の全身を激震が走った。

彼女はここで生活しているのだから、今後当然この風呂場を使うことになるだろう。そして僕の体は人には見えないし、鏡にも姿が映らない。恐らく全く同じ場所に立っていたとしても気付かれる事は無いだろう。

男なら誰しも一度は思い描いた筈だ。僕はそれを実行することが出来る。

洗面所を出た。ここで一階にある部屋は全ての様だ。結局一階では僕自身について分かる事は見つからなかった。となるとこの家で残っているのは、二階のあの一番奥の部屋だ。後は、彼女の部屋もまだ隅々まで見てはいない。

二階に上がってから、彼女の部屋に首だけ入れて覗いてみる。彼女はまだベッドの上にうずくまっていた。もう泣いてはいないし、ケンジという名前を呟き続けてもいない。代わりに光の無い目で虚空を見つめている。何かを考えているという訳でも無いだろう。気力も体力も湧かないような、精根尽き果てたと言った様子だ。抜け殻。こんな表現は彼女に対してしたくないが、どうしてもその言葉が頭に浮かんだ。

記憶の中に僅かにいる彼女は、もっとエネルギーに溢れていた。情熱的な感情と激情が、今にもその体から弾け出してしまいそうな程の。その鋭い瞳を、誰かに向けていたのだ。

今の彼女は、記憶とはもはや別人と言っても良い程だ。外見が、ではなく、体の中に満ちているものがまるで違う。今の彼女には何もない。やつれているし、髪の毛も手入れがされていない様にぼさぼさだが、そんなものは些事だ。人の心は人の姿にも形を映し、きっと僕はそんな彼女に心惹かれていたのだと思う。

記憶の中の姿から変わってしまったからと言って、彼女に対する愛しさが変わる訳ではない。これも全てケンジ、すなわち僕が死んでしまった事が原因なのだろう。けれどもやはり、今の彼女を見続ける事は、見ている事しか出来ないのは辛かった。

彼女の部屋から首を抜き、最後に残った部屋を見詰める。彼女の部屋は、この部屋を見てからにしよう。そう思い最後の部屋の前に立つ。やはり気が引け、正体不明の嫌悪感に襲われる。けれども。

せめて彼女の名前だけでも。

一縷の希望に賭け、意を決して最後の部屋に入った。


特に変わった部屋という事は無かった。本棚と、ベッドと、学習机。床にはプリント等が散らばっており、彼女の部屋と比べると雑然としている。人が生活できないほどではないが、この部屋の主は整理整頓が苦手なようだ。しかし常軌を逸している程ではない。良く言えば人間らしい、なんという事はない平凡な部屋だ。

そのはずなのに、この気持ち悪さは何だろう。何か、怒りと嫉妬と悲しみと絶望とがごちゃ混ぜになったかのような不快感。下手をすれば幽霊なのに吐いてしまいそうだ。幽霊が吐いたらエクトプラズム的な何かでも出ていくのだろうか。

この部屋から今直ぐにでも飛び出したいが、まだそうする訳にはいかない。せめてこの部屋の全てを見てからだ。ここには何かがある。この嫌悪感こそが、その証拠に思えた。

ベッドに視線を送る

掛け布団は皺くちゃの状態で敷かれてあり、つい最近まで人が使っていたように思える。だが……何だろう。妙な既視感を覚える。そのままでで時間が止まっている様な状態。これは、そう。彼女の両親の部屋の、右のベッドの状態とよく似ている。宿主が不在ながらも、人の気配が濃く残っている様な。

 本棚には薄くだが埃が詰もっていた。下の階の書斎と違い、マンガやライトノベル等も置いてある。どれも少年や青年向けのジャンルばかりだ。この部屋の主は男性なのだろうか。洗濯物等の、性別を顕著に表すものは落ちていないのではっきりとは言えないが、部屋の空気から何となくそう感じる。

 そして最後に学習机を見る。学習机の上も全く整理されておらず、プリントや本と辞書で山が出来ていた。学習机なのに、これでは学習しようにもできないだろう。そもそも漫画が積まれている時点でどの様に使われていたのかなど明白だ。

あまりにも様々な物が置かれているせいで酷く苦労したが、角度を変えつつ何かないかと探して見た。しかし、何も個人情報に繋がる物は見つからない。

 この部屋でめぼしい物はあらかた見たが、彼女や僕に繋がるものは見当たらなかった。この部屋の主の事も分からない。だというのに気分は悪くなるばかりだ。確実に何かがあるはずだとは思うのに。この部屋の主がもっと綺麗好きで小まめな性格なら良かったのに。

「くそ。使えない」

イライラしてつい悪態をつく。ただの八つ当たりだ。勝手に部屋を見られて、悪態までつかれるとはいい迷惑だろう。

 もう限界だ。そう思い部屋を出ようとする。その時目の端に入る物があった。ベッドの下。暗いが見えなくはない程度の所に、写真らしきものが落ちている。完全に見落としていた。床に落ちているものが多かったせいだ。

 床に這いつくばってもっと近くで見てみる。男女の写真、プリクラだ。彼女が映っていると認識した瞬間に目を見張った。どこかの学校の制服を着て、満面の笑みで顔を正面に向けている。彼女もこんな顔をするのかと思える程幸せに満ちている表情だ。

そしてその隣には体格の良い男が映っている。恐らく彼女と同じ年頃だろう。こちらもまた制服を着ていた。人懐こそうな顔で彼女と同じ笑みを浮かべている。彼女よりも身長が高い。逆立った、短く切り揃えられた髪。こう言っては何だが、正直あまり教養のありそうな顔ではない。何故だろう。この男を見ていると、この部屋を見て感じる感情とは比にならない程の衝動がこみ上げてくる。この男は、もっと根源的なものだ。そして、そのプリクラにはこう字がプリントされていた。

ケンジとカナエ。ずっと一緒。

 この男が、ケンジだと言うのか。これが僕だと? 彼女の名前がカナエだと分かった嬉しさよりも、そちらの方が衝撃的だった。自分自身の顔を確認できたわけでも覚えている訳ではないが、自分の顔はこれだと考えるとどうしようもない違和感がある。僕はこんな風に屈託なく笑えるだろうか。こんな頭の悪そうな顔をしているのだろうか。

 目を閉じて自分の記憶を探る。浮かび上がってくる映像があった。彼女、カナエが制服を着ている姿。笑って僕に何か話し掛けて来ている姿だ。会話の内容は思い出せない。周りの風景も何も。でもその姿は確かに僕の記憶の中にある。

目を開けてもう一度プリクラをしっかりと見る。やはりこの男が自分だと思うのには違和感がある。だが、それも当然なのかもしれない。今のカナエは若く見積もっても二十代前半。スーツ姿をしていたから、就職しているか、大学等で就活中か何かだろう。少なくともこのプリクラよりかは歳をとって見えた。ならばケンジである僕も歳をとっているはずだ。 

人は歳をとるにつれ、考え方や性格が徐々に変わっていく。人として成長し、昔の自分自身が馬鹿に思えてくる。中二病だった自分を恥ずかしがるのと一緒だ。この時まだ高校生程だったとすれば、その変化もまた如実だろう。きっとこのプリクラに映る僕も、歳をとるにつれ成長したのだと、そう納得した。

彼女の名前も、自分の顔も一遍に知ることが出来た。ならばこれ以上この気分が悪くなる部屋にいる必要は無い。そう思って立ち上がり部屋を出た。これでカナエに心置きなく呼びかける事が出来る。嬉しさで頬がにやけてしまう。向かおうとすると、カナエの部屋の中からピピピピと音が聞こえた。

急いでカナエの部屋に入ると、丁度電話に出ているところだった。カナエは特に表情を変えることなく淡々と通話相手と会話している。

「うん。そう。……そう。好きにしたら。ケンジの部屋には入らないでね。……煩い」

 そう言ってカナエは通話を切った。誰からだったのだろうか。カナエの言葉からして、この家に来るかのような風だったが。この状態のカナエを訪ねに来るということは、親しい間柄だろうか。

まぁ、誰が来るにせよ大したことではない筈だ。霊感があるとかならば別だが、そんな都合の良い事がある訳も無い。

「……ケンジ」

 カナエはまたそうやって呟くと、緩慢な動作で立ち上がり、棚からシャツや下着などを取り出していく。き、着替えるのだろうか? そう思い扉の方を向きカナエを見ないようにする。しかし、カナエは僕の居る場所を通って部屋の外へと出て行ってしまった。そしてそのまま階段を下りていく。

慌てて後ろを付いていくと、カナエは洗面所に入ってしまった。僕は洗面所の扉の前で立ち止る。

 女性が着替えを持って風呂場に繋がる洗面所に入る。これからカナエが何をするかは考えるまでも無いだろう。……男として、決断するべき時が来たようだ。すり抜けない程度に扉に耳を近づけると、微かに衣擦れの音が聞こえた。次いで風呂場の扉を開ける音がする。そーっと中に入ると、脱ぎ捨てられたカナエの服と下着が見えた。このままでもお腹は一杯だが……。風呂場を見る。そこからは、ガラス戸越しにカナエのシルエットが見えた。

 シャワーの音が聞こえる。このまま彼女の裸を見てしまって良いのだろうか? 僕とカナエは恋人同士だったのだから大丈夫な気もするが、しかしやはり後ろめたい。けれども見たい。いやだがしかしと自分の中で問答している時に。

 ビリリ、と音がした。何か、紙を破くような、ひっかくような、そんな音。シャワーの音の中で僅かに、しかし確かに聞こえた。ビリリ もう一度音がする。洗面所の外からだ。カナエは気付いていないのだろうか。シャワーの音で聞こえないのかもしれない。ビリリ、もう一度。外に出る。これは明らかに自然に出る音ではない。何かしらが、意図的に鳴らしている。

「誰かいるのか?」

 人には聞こえないと分かっていながら、思わず尋ねた。やはり返事は無い。しかし。

 ビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリ。

 まるで返事をするかの様に。明確な意思があると分かる様に。そして音は脈絡なく止まる。リビングから聞こえてきていた。ゆっくりと、中を伺う。ガラス戸越しからは何もいない様に見える。中に入る。やはり何もいない。しかし、ここには確かに何かがいたのだ。

 玄関にはカナエが鍵を掛けていた。僕は彼女の名前と自分自身の手掛かりを見つけるために、家中を歩き回った。戸締りも確認した。カナエ以外、この家には誰もいなかったはずなのだ。入ることも出来なかった筈なのだ。なのに、何故だ?

 リビングのテーブルの上に乱雑に置かれていた新聞紙。その新聞紙の一枚に、カッターで切られたように文字が刻まれていた。

この家から出ていけ。

 この家には、何かがいる。目には見えない、僕と同じような何かが。

 

その後、僕がそこで固まっていると、お風呂から上がったカナエがやって来た。カナエはテーブルの上の新聞紙を見ると顔を青ざめさせ、直ぐに丸めてゴミ箱に捨ててしまった。

「カナエ」

 僕は彼女に声を掛けたが、やはり彼女は何も答えない。カナエは冷蔵庫から二リットル入りの水のペットボトルとクリームパンを持ち、速足で二階に上がって行ってしまった。僕は念の為もう一度リビングを見渡す。やはり何かが居るようには見えない。最初見たときと変わらない様子だ。……得体の知れない何かが居ると分かった以上、カナエを一人にしておくわけにはいかない。彼女の下へと向かおうとすると。

 後ろから視線を感じた。玄関で感じた気がしたのと同じだ。振り向くと、そこには何もいなかった。

「そこに、いるのか?」返事は無い。

 僕は後ろに気を配りながら、カナエの部屋へと向かった。

 カナエは部屋でまた布団を被って丸まってしまっていた。パンと水に手を付けた様子は無い。可哀想に、震えている。

ケンジ、ケンジ、ケンジ。助けを乞う様に呟いている。

「ここにいるよ。カナエ」

 出来るだけ優しさを込めて声を掛ける。彼女には届かなくとも。今はこれでいい。仕方がない。いずれ、時が経てば彼女も僕の存在に気が付いてくれるかもしれないのだから。彼女が僕の事を忘れない限り。

問題は、正体不明の存在の事だ。そいつが彼女に危害を加える可能性があるなら、僕は何としてもそいつを排除しなくてはならない。もし、僕が幽霊としてここにいることに意味があるとするならば。それは、彼女を守ることに他ならない。


あの後、三日間カナエの家で過ごした。その三日間とも所謂怪奇現象は何度か起きていた。その上で分かった事がいくつかある。まずこの家にはやはりカナエ一人で住んでいるとう事。誰一人この家に来ることは無かった。

次に正体不明の奴の事。こいつに関しては仮説ばかりになるが、少なくとも確定していることは、僕と同じ幽霊だという事。そして僕には奴の姿が認識できないのに対し、奴には僕の姿が認識できている様である事。目の前で扉が閉まるという事があったにも関わらず、僕には奴の姿が見えなかったからだ。

僕の知識としての記憶の中に、幽霊を取り扱った映画で参考になりそうなものが二つある。片方の映画で、幽霊が見える力を持つ主人公の男の子が言っていた。『幽霊はお互いには認識できず、見たいものしか見えない』奴には僕の姿が見えているようなので、関係ないかもしれないけれども。

もう片方。これは今の僕そのままの映画だ。死んでしまった男が、幽霊となって恋人の女性を守っていく物語。こちらでは幽霊同士は認識できるし、場合によっては物にも人にも触れられる。でも僕には例の奴の姿が見えないし、他の幽霊にもあったことなど無いので、こちらも関係ないかもだが。或いは、どちらでもあって、どちらでも無い、なんてことだったりするかもしれない。

そして最も重要な事は、奴の攻撃対象、もとい嫌がらせ対象はカナエではなく僕だと言う事。僕は基本的にカナエの傍を離れる事は無かったが、彼女が入浴中にはリビングで待機する事にしていた。そういう時に限って、執拗に僕の近くでポルターガイストが起きるのだ。もう狙ってやっているとしか思えない程に。僕も幽霊だからおかしな話だが、正直びっくりする。逆にカナエと一緒にいる時には殆ど起きなかった。新聞紙の様な露骨なものはあれ一回きりだった。

僕がカナエに抱き付いたりキスしようとすると、大きい音を鳴らすが。カナエを守っているつもりなのだろうか。

奴はカナエに執着しているのかもしれない。僕と同じ様に。そうだとして、奴がカナエとどういう関係だったのかは分からない。僕は彼女の恋人なのだから彼女に執着しても当然だが、奴は何なのだろう? 幽霊のストーカーだろうか。取りあえずストーカー幽霊と呼ぶ事にした。

カナエはカナエで三日間朝昼晩家事も何もせず菓子パンと水のみで済ませていた。食欲もあまり無いのだろう。一口かじると捨ててしまう。元々精神状態が悪かったのに、例の新聞紙と時たま起きる怪奇現象のせいで、すっかり衰弱していた。これも全てストーカー幽霊のせいだ。カナエの事を思うなら、何もしないで欲しい。頭がそこまで回らないのか。

そんな三日間を過ごしていた時、急にその人はやって来た。

 僕が、一日に二十二時間はカナエを見続けようという決まりを実行していると、前触れなく玄関が開かれる音がした。布団に包まってぼおっとしていたカナエが身じろぐ。が、玄関に向かおうとする様子は無い。何故向かわないのかと疑問に思っていると、階段を足で大きく鳴らして上ってくる音が聞こえた。その人はカナエの部屋を開け放つなりこう言った。

「カナエ。言った通り今日からお兄ちゃんここに住むからな」

 お兄さん? カナエの兄を名乗るその人は、随分と黒く焼けた肌をしていた。黄色に染めた髪は、どちらかというと西洋人寄りのその顔によく合っている。南の島でサーファーでもやっていそうだ。

「好きにしたら。寝るのはお母さん達の部屋使って。汚さないようにね」

「へいへい。汚さなきゃいいんだろ?」

カナエは見向きもせずに言った。三日前に電話していた相手は、お兄さんだったのか。お兄さんはカナエの言葉を適当に聞き流すと、直ぐに下りて行ってしまった。やけにあっさりとしている。カナエの今の様子を見て、何とも思わなかったのか? それとも、これがこの兄妹の普通なのだろうか。

もう一度階段を上ってくる音が聞こえた。何か重い物を運びながら上っているようだ。今日からここに住むと言っていた。その為の荷物と考えていいだろう。だが、何故二階に運ぶのだろう。両親の部屋を使うなら、一階に置いておいて良いはずだが。足音はそのままカナエの部屋の前を通り過ぎると、あの部屋の中へと入っていった。カナエがその音を聞いて布団から飛び出た。僕も慌てて付いていく。彼女は奥の部屋で荷物を下ろしていたお兄さんに詰め寄った。

「ケンジの部屋は使わないでって言ったでしょう! 止めてよ、出てって!」

「お前が母さんたちの部屋汚すなって言ったんだろ? 元々ケンジ君の部屋はお兄ちゃんが使ってたんだし、死んでるんだから丁度いいだろうが」

 カナエは髪を振り乱してお兄さんに怒鳴るが、お兄さんはどこ吹く風と言った様子だ。ちょっと待って欲しい。僕の部屋? この部屋が? まさかと思ったが、同時に納得もいった。何故この部屋に僕とカナエが映っているプリクラがあったのか、疑問に思っていたのだ。同棲していたのには驚いたが、辻褄は合う。

「ケンジの部屋を変えないで。出てって、出てってよ!」

 カナエは叫びながらお兄さんに掴みかかった。

「ああもう、うるせえよ」

 お兄さんはそう言うと、表情も変えずにカナエの腹部に膝を入れていた。カナエが呻きながら蹲る。口から唾液を飛ばしながら咳をしている。

「何してやがんだこの野郎!」

 僕は気付いたらそう叫んで目の前の男に飛び掛かっていた。けれどそれは男の体をすり抜けるだけ。こいつは蹲っているカナエの髪を掴んで無理やり部屋の外へと引きずり出し、扉を閉めた。そして何事もなかった様に部屋に置いた荷物を広げだした。

 何だこれは。何だこいつは。実の兄妹ではないのか? 妹に対して何をしているんだ? 僕には訳が分からなかったが、ただ一つ分かる事がある。こいつは、カナエにとって害だ。

 その後も、この男は部屋の前で叫ぶカナエに対し、煩いと言って殴った。そして髪を掴むと無理やりカナエの部屋へと引っ張って行き、また殴った。止めてと叫ぶカナエに対し、顔を蹴った。表情も変えずに。殴り、蹴り蹴り蹴り、蹴り。道端の虫を潰すように。この男は明らかに常軌を逸していた。

僕には何も出来なかった。ただ止めろと叫ぶことしか。それすら届かない。惨めだった。彼女を見守ると決めたのに。こういう時に限って、ポルターガイストは一つも起こらない。肝心な時に役に立たないストーカー幽霊だ。……嫌、それは僕も一緒か。恋人を、守る事すら出来ない。

その時、インターホンの音が家の中に鳴り響いた。男は一瞬眉間に皺を寄せた後、部屋を出ていった。階段を下りていく音がする。そして扉が開かれる音がして、一拍の後に閉められる音がした。少し苛立ったように階段を上ってくる音がして、足音はそのまま僕の部屋の中へと入っていった。

……ピンポンダッシュ? こんなタイミングで? ありえない。なら、これは必然だろう。あのストーカー幽霊がやったのだ。僕は見て居る事しか出来なかったのに、あいつはカナエに対する暴力を止めたのか。

ふざけるな。僕以外の人間が、カナエを守るなんて事は認めない。

カナエ。僕は床に倒れ伏す彼女に呼び掛けた。聞こえていた訳ではないだろうが、カナエが少し呻く。嗚咽をもらしながら、弱弱しい声でケンジ、ケンジと呟く。

「ここにいるよ。すぐ傍にいるよ」この声は届かない。

 僕はカナエの部屋を出て、あの男がいる部屋にいた。目の前で男はベッドに横になり、鼻歌を歌いながら漫画を読んでいる。この部屋に置いてあった物だ。僕は男の腹を貫通する形で前に立つと。

 躊躇なく首を絞めた。

何故ストーカー幽霊が物に干渉する事が出来て、僕に出来なかったのかが分かった。思いが足りなかったのだ。そいつを害してやりたいという憎しみが。男は首を絞められると、グエッと蛙のような声を上げた。訳が分からないといった顔をして、漫画を手放す。僕がもっと力を入れると、黒く日焼けした男の肌が、鬱血して赤色になる。その色の変化が少し滑稽で笑ってしまう。男は苦しさから逃れようと手を振り回すが、それは空しく僕の体をすり抜ける。幽霊ってチートだな。ふふふと声を上げてまた笑ってしまう。

 暴れる男の手が、部屋の壁に当たった。大きな音が鳴る。これは少し不味い。カナエに聞かれてしまう。もっともっと手に力を込める。少しすると、男から力が抜けた。口をだらしなく開け放ち、涎を垂らしている。死んだようだ。男の下腹部が湿って来た。気持ち悪い。カナエを傷つけた上に汚い。もう見たくもない。そう思いカナエの部屋に戻ろうとすると、扉がカチャリと空いた。

「ケンジの部屋で、何して……っ何で、あなたが!」

 音を聞いて様子を見に来たのであろうカナエが、僕の方向を見て叫んだ。まさか。

「カナエ、僕の姿が見えるの? 僕だよ。君の恋人のケンジだ」

 カナエは僕がそう声を掛けたにも関わらず、変わり果てた男の姿を見て「ひっ」と声を上げて逃げて行く。どうして逃げるんだろう? くそみたいな人間を、彼女を守るために殺しただけなのに。

 僕は、カナエの恋人の筈なのに。

 カナエは階段を駆け下りて一階へと向かって行く。僕はその後ろを微笑ましく思いながら追う。頬がニヤついていたかも知れない。突然幽霊を見たら驚き逃げてしまって当然だろう。それが恋人でも。あるいは恋人だと分からなかったのか。いずれにせよ、幽霊怖さで逃げていく彼女は愛おしかった。

 カナエはパニックを起こしているのか、家から出ずに脱衣所へと入って行く。あぁもう可愛いなあ。馬鹿だなあ。自分で袋小路へ逃げていくなんて。

 僕が洗面所に入ると、カナエは膝を抱えて蹲っていた。「ケンジケンジケンジケンジ」僕がケンジだよ。

「カナエ。僕なら目の前にいるよ」声を掛ける

「違う。あなたはケンジじゃない。あなたなんかケンジじゃない!」

 カナエは首を激しく横に振る。もう殆ど半狂乱だ。恐怖で僕の姿を上手く判別できないのだろう。可哀想に思いながら彼女に近づく。するとカナエが、首を上げて僕を見据えた。

 カナエと目が合った瞬間、背筋が、ぞっとした。幽霊なのに、おかしな話だが。それだけの感情がカナエの目には込められていたのだ。憎悪と、狂気が。僕を、確かに認識した上でその感情を向けている。カナエは確かに恐怖していた。だがそれは、僕が幽霊だからでは無かった。

 僕が僕だから、カナエは恐怖しているのだ。

 ……ふと思った。今の僕なら、カナエに姿が見えるのなら、鏡にも姿が映るのではないかと。カナエから目を逸らし、『嫌だ、見たくない』僕は洗面所の鏡を見た。そこに映る自分を――、……見た。

 誰だお前は。

「あなたはストーカー。私の恋人を殺して、私が殺した。頭のおかしい最低野郎よ!」

 カナエが何か言っている。僕が恋人を殺した? カナエが僕を殺した? 僕が、ストーカー? 最低、野郎。

 鏡に映っていたのはケンジではなかった。そこに映っていたのは知らない男だった。太っていて、背が小さくて、顔中にニキビがあって、髪の毛がべっとりとしていて。目つきが悪くて唇がでかくて。鏡に映っているのは知らない男だ。知らない。知らない。こんな男は知らない。知ってる筈が無い。だって僕には記憶が無いんだから顔が無いんだから。

「あなたは、あなたは斎藤(さいとう)シュウ。高校の時の、私のクラスメート。その頃からの、ストーカー」

 ああ、そうか。

 入学式で僕に最初に話しかけてくれたカナエ。その笑顔に照れてしまってまともに会話が出来なかった。クラスで孤立した僕。人気者の彼女。誰にでも優しいカナエ。誰にでも虐げられた僕。カナエをずっと見続けていた僕。頭の悪そうな男を見詰めている彼女。ガキっぽい男の隣にいるカナエ。だれも隣に居てくれない僕。僕から離れていくカナエ。彼女を追い続けた僕。僕を忘れていくカナエ。

 彼女は本当は僕が好きなのだと思っていた。あの男に脅されているんだ。カナエは僕の運命の人なんだから。だからほら、君が鍵を掛けて使わなくなった、お義父さんとお義母さんの部屋で寝泊まりをしてたんだ。愛し合う二人が、一つ屋根の下で一緒になるのは自然な事でしょう? 君だって知らない振りをして、実は喜んでいたんだろう? なのにまさかあの男を家に呼んで、あまつさえ一緒に住み始めるなんて。この家は、僕とカナエの愛の巣なのに。酷い裏切りだ。

 彼女に詰め寄った僕。僕を嫌悪したカナエ。男に殴られた僕。男に縋り付く彼女。

 カナエは僕が好きなんだ誰だお前は彼女の隣にいるのは僕だ僕以外は在り得ない彼女に見詰められるのは僕だ僕だ僕は。

 僕はケンジになっていた。カナエの隣に知らない男が居る。カナエの恋人の様に振舞っている。きっとストーカーだ。彼女に言っても聞いてくれない。脅されているんだ。

 だから僕はカナエを守るために男を殺した。背中をトンっと押してトラックに轢かせた。喜んでくれると思って、泣いている彼女に話したら。僕を許さないと言ったカナエ。僕を殺してやると言った彼女。道路で信号待ちをしていた僕。

 ああ、そうか。思い出した。

 

 カナエの傍にケンジが立っていた。僕に対して憎しみの目を向けている。幽霊どうしが見えないのではなく、僕が見たくないものを見ていなかった訳だ。気が付くと、自分自身の体も変化していた。本来の姿が分かる様になったと言った方が正しいのかもしれない。引っ込めようと努力しても引っ込まなかった、忌々しいデブ腹が足もとを隠している。せっかく、隠されていない様に思い込めていたのに。身長も、何もかも元に戻ってしまった。

新聞紙での脅迫もポルターガイストも、こいつがやったのだろう。それでカナエも怖がらせている分、やはり頭が悪い。カナエには……見えていないらしい。見えていればそれこそ縋り付いている。つまり。

「僕の方がカナエを思う気持ちは強いみたいだな」

 ケンジは一言も喋らない。

「ケンジ? ケンジがここにいるの?」

 やはり見えていない。僕がケンジに対して嘲りの笑みを向けると。次の瞬間にはケンジが僕の首を絞めていた。

「……ッは、グウェ」

 ヒキガエルに似た声が出る。僕は必死に抵抗するが、ケンジは全く力を緩めない。意識が遠くなって行く。僕は幽霊なのに。このまま首を絞め続けられたら、どうなる。それが分かる前に、僕の意識は途切れた。


 ケンジはカナエを見詰めていた。悲しい目で。悔恨を含んだ目で。カナエにはやはり見えていない。しかし、シュウが苦しみながら見えなくなっていくのは目の当たりにしていた。

「ケンジ、そこに、いるのね」

 ケンジは頷く。カナエに見えずとも、心が通じ合っているのを知っているから。

「ケンジ、ありがとう。守ってくれて。ごめんなさい。心配かけて」

 だから、カナエには分かっていた。ケンジが守ってくれたのだと。自分をずっと見守ってくれていたのだと。

 もうすぐケンジは消える。カナエを守れたから。そもそも、健全な魂は長くこの世に留まることは出来ない。未練を残してない限りは。留まり続ければ悪霊になる。悪霊になれば、人を害する事すら出来る。だから、ケンジは消える。カナエの事を想って。

「先に死んじゃって、ごめん」

 ケンジは気付いた。鏡に自分の姿が映っている。カナエも気付いた。立ち上がり、ケンジに抱き付く。触れられずとも。何度も枯らし果てたと思った涙を流しながら。

 ケンジは物にしか触る事は出来なかった。目の前で好き勝手に振る舞っていたシュウや、カナエに暴力を振るった義兄にすらも。先程シュウの首を絞めるまでは。それが、シュウにケンジの姿が見えていなかった事が原因なのかは、もう知るすべはない。何故シュウには義兄を殺すことが出来たのかは定かではないが、あの時点でシュウはもう、悪霊になっていたのかもしれない。

少しずつ、ケンジの姿が鏡から消えていく。もう、会う事は出来ない。ケンジがカナエを見守る事は、守る事は出来ない。カナエは一人になる。

 最後のキスをして、カナエを守り続けていた男は消えた。


 やはりケンジは頭が悪い男だ。あまりにも滑稽すぎて僕は笑いを堪えるのが大変だった。幽霊が死ぬわけなど無かったという事だ。意識が途切れた後。目を覚ますと、何故かは分からないがケンジもカナエも僕を見失っていた。もう目の前で繰り広げられる茶番に耐えるのが大変で大変で。

 カナエは目を瞑って上を向いている。余韻にでも浸っているのだろうか。取り敢えず唇を合わせておく。上書き完了。

 ケンジ。安心すればいい。お前がいなくなっても、心配することは無い。僕がカナエの傍にいるから。彼女を傷つける者は排除し、彼女に近づく者も排除する。

 そして最後にカナエの傍にいるのは、僕だけになる。

「見守っているよ。ずっと」


 見守る男。


作者の趣旨趣向は含んでおりません。でもこう、見守るって良いですよね。相手から得られる視覚的情報を全て脳内で咀嚼して飲み込んでそこから愛おしさとか嘲笑とか憎しみとかを物凄く味わえるような気がします。新鮮かつ胃腸の少し上辺りから込み上げる感情諸々は筆舌に尽くしがたい麻薬感が含まれておりもはややめられないものとかしますよね。

誤字脱字、感想がございましたらぜひご連絡ください。心臓を飛び跳ねさせて恋をしているかのように喜びます。どうぞ本当にご遠慮なくお願い致します。

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