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ちょっとした転移の話

作者: 愚者

 辺りを見渡せばとにかく木、木、木。背の高い木から背の低い草に包まれた木まで。足元は雑草からほうれん草に見えなくもない謎の草まで、多種多様な植物で鬱蒼と覆いつくされ、それらの隙間から差す木漏れ日は何とも幻想的な光景を作り出している。時折木々の間を縫うように吹く風は心地よく、辺りに響く鳥の歌声と相俟って人にリラックス効果を与えることだろう。

 そんな大自然に身を置くのは二十人前後の男女。年齢や服装に統一感は無く、学生から五十代に見えるサラリーマンまで、制服も見えればスーツも見える。何ともあたりの風景とちぐはぐな印象だ。間違っても森に赴くような雰囲気ではない。

 ただ一つ、彼らに共通していることは、皆一様に呆けたように辺りを見回していることである。


 それから少し時間を遡る。

 県内で三、四番目といった微妙な大きさのハブ駅には、時間帯のせいか多くの人でごった返していた。取り付けられたスピーカーから電車到着のアナウンスが流れ、階段を下りていた人の足が僅かに早くなる。到着とともに扉が開き、押し出されるように人が下りる。それが終わると今度は押し込められるように電車に向かって人が流れ出す。この光景を何も知らない人が俯瞰していればよくこの世界にはこんなにも人がいるんだと驚き、これがそれほど大きい駅でないことを知ってさらに驚くことだろう。何事もなく発車準備を終えたその電車は地響きをあげ、足音、話し声、アナウンスの声、ありとあらゆる音をかき消して重苦しく走り出した。

 徐々に加速し、地響きを上げる姿は冷徹な猛獣のようも映る。そのまま車体はトンネルへと吸い込まれ、トンネル特有の反響した音が車内に響き渡る。が、皆一様に気にした素振りは見せず、手にしたスマートフォンに目が釘付けだ。そのディスプレイにはゲーム画面やニュース、ブログと様々なものが映っている。車体が揺れ、皆の体勢が前のめりになる。

その刹那、車内が網膜を焼き切らんとする勢いで光った。人々は反射的に目を瞑る。突然現れた光は数舜か、将又数分かの時を経て収束し、電池が切れたライトのようにぷつり、と消えた。光が収まった後そこにあったのは……。


「ここは……どこなんだ……?」

 呆然とした様子で一人の男が問うがそれに答える者はいない。虚しくも木々の中で木霊し、吹き込んだ風が掻き消した。男の声でようやく我に帰ったのか群衆にざわつきが広がる。「ちょっと! どういうこと⁉︎」「何が……?」「か、会社はっ?」意味の無い、誰に問うでもない問いが辺りを埋め尽くす。その光景に木々は迷惑そうに体を揺らす。

 そんな烏合の衆となった人々を少女は冷めた目で見ていた。馬鹿じゃないの。騒いでる暇があるなら状況確認すればいいのに。大の大人が騒ぐしか能が無いないなんて。発せられることのない悪態が脳内を渦巻く。騒ぐ大人を見たせいかどこか冷静に、そして侮蔑のこもった視線を人々に向けながら、少女は辺りを見回す。けれど目に映るのは木の幹の色である焦げ茶色と葉の若々しい緑色だけであった。視界に木々の途切れる様子は認められず、葉に遮られて太陽を見ることさえできない。何も情報を得られないことにわずかな苛立ちを覚える。それでも何かを得ようとし、耳を澄ませ……。

「みんな! ちょっと落ち着こう! 」

三十代のそれなりに見目の良いサラリーマン—身に纏うスーツや時計から経済状況の良さが窺える—が声をあげた。騒々しく指向性のない雑音の中で響いた声に、視線が集まる。それらは一様に怪訝そうであり、それでいてどこか縋るような思いが見え隠れしている。少女も例に漏れず声の主に振り向くが、その表情は複雑そうである。

「突然こんな所に来て不安だと思う。でも今は落ち着いて。僕たちは一人じゃないんだから。この後どうするかみんなで考えよう」

 男が身振り手振りを交えて語りかける。視線は男の動きと共に全体を均等に行き来し、皆に訴えかける。人々は伏し目がちに辺りを見回し、そして決意の篭った顔を上げる。そこに不安の色は見え隠れするものの、不安に駆られ喚き散らす姿はない。これは男の話術と森のリラックス効果によるものだと言えよう。吹いた風が枝を、葉を靡かせた。生まれた隙間から太陽の光が差し込んだ。

光に照らされたそこに少女の姿は無かった。少し離れた背の高い木の麓、そこに背を預けぽつんと佇む少女。少女は複雑な表情で言いようのない苛立ちを感じていた。森のリラックス効果にもあまり期待できそうもない。少女は腕を組み、例の男を睨みつける。何となく腹立たしかった。纏めようとする姿だろうか。それとも彼から溢れる自身のようなものだろうか。少女にはそれらに何故か苛々した。

「兎に角みんなで自己紹介をした方がいいと思うんだけど。どうかな?」

 男は少女に睨まれていることなど気づきもせずに司会進行役を務める。

「そうだな。少しでも相手のことを知っておいた方がいいだろうしな」

 別のサラリーマンが賛成の意を示すと、他の人たちも便乗する。それを見た男は満足そうに頷いた。

「じゃあ僕から。僕は朝井翔也。年は三十七歳。一応○○会社で経理部長をやってたんだけど……まあこっちでは関係ないか。これからよろしく」

 そう言ってはにかんだ。○○会社と言えばそれなりの大手でそこの部長ともなれば必然的に経済的余裕は生まれるだろう。皆、身なりの良さに納得がいったのか尊敬混じりの視線を向け、すげーじゃねーか、と盛り上げる。そんな進学時の自己紹介のような雰囲気で淡々と、時には笑みがこぼれながらも進んでいく。

「じゃあ次。そこの君、お願いね」

 呼ばれることは分かっていても、皆の視線が集まると少女の心拍は加速する。それでも何度も脳内で練習した台詞を平静を装って口を開いた。

「宮川菜摘です。高一です。よろしくお願いします」

 淡々とあまり感情を感じさせない声で菜摘はそう名乗った。一見するとクールな挨拶に皆一様に「よろしく」と拍手を交えて告げる。菜摘は問題なく挨拶を終えたことにふっと息を吐いた。どうやら最後だったらしく、今度は話し合いのために円になり、腰を下ろす。朝井は皆が座ったことを目視で確認した。

「やっぱり一番大きな問題が食料だと思うんだよね。今、家から持ってきたお弁当とか持ってる人いる?」

転移したときに鞄を手に持っていた人は鞄ごとこちらに来たらしい。一先ず、今日の分の食事を如何にして賄うかを考えるために手持ちの食料の確認から始めるらしい。菜摘は僅かに顔を顰めながら、背に背負った鞄の中身を思い浮かべる。昼食のお弁当。軽食のチョコレート菓子。それと水筒。食料はたったのこれだけだ。これだけではやはり心許ない。皆がお弁当や軽食を取り出し、それを朝井と数人がメモを取っていく。中には、食堂やコンビニで済ます予定で持っていない人もいる。人の食生活に文句を言う筋合いはないが、今回ばかりは迷惑でしかない。

「君は?」

 朝井に声をかけられた菜摘は、自己紹介したにも拘わらず名前憶えてないのかよ、と内心毒を吐きつつ、自分も殆ど覚えていないことを思い出し、まぁいいかと結論づけた。そんなことを考えながらも手は止まることなく滑らかに動き、小振りの二段弁当と淡い水色の水筒を取り出す。

「これだけ」

朝井は小さくメモを取り、「ありがとう」と言って次へと向かった。


それから暫くして、取り敢えず散策することとなった。最優先事項は食料と水の確保。その為に五班程に、待機組と散策組に分ける。若い者、体力に自信のある者は優先的に散策組に回される。もちろん、菜摘も。

朝井と菜摘を始めとした5人の一団は草木を掻き分けるように進む。途中で見つけた食べられそうな木の実を取りつつ、出来るだけ真っ直ぐ進む。他の班と散策範囲を被らないようにする為と、後で散策した場所が分かりやすいようにする為だ。

それなりに速く進む一団の最後尾に菜摘が付いていた。登校用のローファーのせいで歩きにくく、顔を顰める。足の裏が痛むが我慢して進む。途中木の実などを採集する朝井の様子を見て少し悪態を吐く。食べられそうかどうかの判断は見た目。毒々しいものはスルーして、鮮やかなものだけを選んで取って行く。内心で見た目で決めるって本当に大丈夫なの?と不安と文句が湧き上がる。かと言って菜摘にもそれ以外の判断基準が無かったので何も言わなかったが。

(えっ?それ食べるの?)

前途多難そうだった。


「そろそろ一旦休憩にしよう。その後引き返そう」

「もう時間なのか? 」

朝井がスマートフォンを片手にそう言った。彼らは転移した時間を基準に、時間を決めた。それにより、十二時と思われる時間には一度始めの場所に戻り、昼食を摂りながら報告をする予定だった。そして今から帰ると、疲労を考慮しても十二時までにはつけると思われる。それを察した一人が確認の意を込めて尋ねる。

「ああ。そういうことだ。結構進んだけど特に何も無かったな」

「まぁそうだな。こりゃ他の班に期待するしかねぇな」

「でも、食い物は結構手に入ったし上々だろ」

会話は散策状況に関することから始まり、雑談に移り変わってゆく。誰もが不安で不安で少しでも人との関わりを求めている。その関わりの形が会話だった。五人しかいない為、適度に会話のボールが回される。これには菜摘も参加していた。初めは面倒そうに答えていたが、心なしか嬉しそうに会話に混じっていた。


「それじゃあそろそろ」

朝井がそう言いながら腰を持ち上げた。それを聞いた他の人もどっこいしょ、という効果音が聞こえてきそうな程ゆっくりと立ち上がった。それもそのはず。日々の仕事に疲れた彼らにとって自然セラピーは偉大で、自然の中に座りのんびりと雑談できる環境は彼らの木を緩ませた。故に皆心のどこかで動きたくない、働きたくない、とニート宛らの思いを持つのだった。

「今、水の音聞こえなかった⁉︎」

菜摘が言った。つい十分程前に通ったばかりの場所、そこで水が跳ねるような音が聞こえた気がしたのだ。大した戦果を得られなかったと嘆いていたほかの四人は首に相当な負荷がかかるであろう速度で振り向いた。重い足取りとは大違いだ。

「なにっ!」

「どっちだっ?」

問いながら辺りを見回し、耳をすませるが耳に届くのは風に靡く葉の音だけ。その様子を見た菜摘は得意げに「向こうの方」と指差した。

「よし、行くぞ」

先ほどまでの重い足取りが嘘であるかのように軽やかに進む。生い茂る草木を払いのけ覗き込んだ先にはちょろちょろと流れる小川があった。底が見通せる程に水が透き通っている。と言っても水底は四、五センチあるかどうかで、多少水が濁っていても底が見通せそうなものだ。水源を見つけられたのは喜ばしいことだが、この量では心もとない。

「おお! ほんとにあったぜ」

「飲めそうだよな!」

 遂に見つけた水源にテンションが上がる。朝井が手を突っ込み、水を飲む。

「うん。問題なさそうだね」

 それを聞いて、残りの三人も水をすくって飲む。菜摘もそれを横目で見ながら静かに手を入れた。「うめーしつめてー」「だな!」「さっさと水汲もうぜ」それぞれが鞄から水筒を取り出し、水を入れる。

「……にしてももう少し水嵩が欲しいな」

「そうだな。これじゃあ満タンまで入られねえしな」

 小川の水は本当に流量が少なく、水筒に満タンまで入れることも出来なかった。

「うーん。この川沿いに下流を目指せば本流に繋がると思うんだけどなぁ」

 思案するように顎に手を当て、朝井が呟く。

「一度戻って、みんなと一緒にもう一度来よう」

 再び荷物を背負って歩き出した。


「川があったの!?」

 元の場所に戻って報告会。皆それぞれの弁当を広げ、無い人は持っている人から分けてもらったり、集めた食料の一部を食べてお腹を膨らます。菜摘も黙々と弁当を頬張っていた。

 太陽はほぼ真上に来ていたが、木々が陽を遮るためそれほど暑くない。それどころか、時折吹くそよ風のお陰で涼しいくらいだ。そこには一見ピクニックに見えなくもない光景が広がっている。そこに一人の女性の声が響いた。

「うん。そんなに水は多くなかったけど、下流に進めば広くなるはずだよ」

「ほんとっ! 体拭けるかなっ!」

 森に入ってまだ五時間程度だが、動けば汗をかくし何より木や土に触れた手は洗いたい。毎日体を洗う日本人からしたらこの状況で何もしないなど耐えられることではなかった。

 その後他の班の報告を聞くも、大した発見はなく食料だけ採ってきたとのことだった。これからわかることはこの森がかなりの大きさであるという事だけだった。結局菜摘の班が見つけた小川を目指すということになった。


「あーやっとついたー」

 あちこちから達成感に満ちた声が漏れる。あれからしばらく歩き続け、小川に着くまで約二時間、さらに下流に向かって歩くこと一時間。ようやく本流とぶつかった。そこには木々に囲まれつつも陽の光がしっかりと届き、川の水がそれを不規則に反射する光景は何とも形容しがたい美しさがあった。

しばしば休憩を挟んだとはいえそれなりのハイペースだ。皆一様に疲れた表情をしている。数人で川の付近に固まり、苦労話に花を咲かせていた。そこから川を少し上ったところに菜摘は一人でいる。鞄から水筒を取り出し、一気に飲み干す。無造作に靴と靴下を脱ぎ、靴の中に靴下を入れた。そして手を川に入れた。納得したかのように頷くと足を少しずつ入れる。はあーとため息が漏れる。膝下まで足を入れたところで腰を下ろし、虚空を見つめた。焦点は定まっていない。菜摘は思考の世界へと旅立った。

やはり一番不可解なのは突然こんな世界に来た原因だ。電車が事故にでもあってもう自分たちは死んでいるのだろうか。それならここは天国か。地獄か。それとも最近小説でよくある異世界転移というやつだろうか。自分たちは帰ることが出来るのだろうか。いくら考えても答えは出ない。出口のない迷宮に迷い込んだような気分になり、菜摘は無理矢理思考を変えた。自分がここで死なないためにはどうすれば。一番大切なのは水。それは川があるから大丈夫。次に食糧。手持ちはお昼に残した僅かなお弁当とまだ手を付けていないチョコレート菓子。それに加えて歩きながら採集した木の実。うーん。心許ない。これだけじゃ明日の朝で終わりそう。もうちょっと採集しないと。そう思って辺りを見渡すも、皆座り込んで談笑している。菜摘はなんでこんなに落ち着いていられるんだろうと不思議に思った。疲れているのは分かるけど、もっと現実を見ないと。中には今後のことを話し合っている人もいたのだが、菜摘は気が付かなかった。もしそれを知っても、思考を放棄した人への風当たりが強くなるだけであった。

無性に焦りが湧いてきた菜摘は靴を履き、足の重みに顔を顰めながら再び森に入った。


そうこうしているうちに空は赤く染まり始めた。菜摘は鞄いっぱいに詰めた木の実を持って、川辺に戻った。そこには皆が一部をかこっていた。

「どうかしたんですか?」

 菜摘が近くにいたおじさんにそう問うと、おじさんは僅かに目を広げた。

「帰ってきたんか。今、夕飯をどうするか話し合っているところだよ」

 恐らく木の実を皆で分けることになるのだろう。菜摘は背伸びをして円の中心を覗き、目を大きく広げた。それなりの量の木の実や山菜が積まれている横に、二体のウサギが並べられていた。

「あ、あれはどうしたんですかっ?」

食べられないと思っていた肉だ。しかも新鮮な。菜摘のテンションはうなぎのぼりだ。

「あ、ああ。なんか採集中に見つけて捕まえたって言ってたよ」

頭の片隅で、うさぎって捕まえられるんだ。すごいなー。という感想が湧きつつも脳内は肉を食べることに支配されていた。焼き立ての肉……早く食べたいな塩と胡椒を振って噛んだら肉汁が…….塩胡椒っ?って、調味料ないっ!まさかの自然本来の味?そう聞くと美味しそうだけど肉の本来の味がって……うーん。お、美味しい……よね?

余計なことを考えてテンションを上げ下げした菜摘はため息を吐きつつ顔を上げた。

「それじゃあそろそろ夕食の準備でもしようか。まず肉を捌きたいんだけど誰か出来る人いる?それとハサミがあれば誰か貸して欲しいんだけど」

 どうやら鋏で解体するようだ。流石にナイフは持っていなかったのだろう。菜摘は誰も持っていなさそうなことを確認すると、筆箱から鋏を取り出した。はい、とだけ端的に伝えて渡す。ありがとう、の言葉に頷いてから輪から少し離れた、座りやすそうなところを陣取る。川で手を洗うとハンカチで手を拭いてから本を取り出し、広げた。

 「これってどうやって解体すんの?」「服に毛がついたあああ」「硬すぎて切れねえ」「うわ、内臓きもっ」「ちょ。なんで胃を割るのよ」「なんか糞あるしいいいい」解体所からは数人の男女の叫び声が木霊した。それもそのはず。解体の知識がない一般市民に動物の解体など出来るはずがないのだ。しばらくして不揃いで不格好な肉片へとうさぎは姿を変えていた。それを調理の係が燃え盛る火の上で肉を焼く。火はたばこを吸うために持っていたライターを利用している。ただ網などはあるはずもなく、それぞれ持参した箸を洗って燃えないように気を配りながら焼いていた。

 辺りが本格的に暗くなり、読書を終えて手持無沙汰にしていた菜摘は集まりだす人の流れを見てそれに続いた。肉の調理が終わり、肉と採集物の分配が行われる。それほど多くはないが、後は寝るだけと考えればそう問題ないだろう。配り終えると、調理用に起こした火の周囲に円になるように座る。月明りだけでは木々に遮られるせいもあって心許ないのだ。

 翔也が一日を振り返る挨拶と激励をし、最後にいただきます、という。菜摘も小さな声で、あちこちから聞こえるぼそぼそとした声に合わせて手を合わせた。そして肉を掴み、口に入れる。まっずっ。思わず顔を盛大に顰める。まず硬い。とにかく硬い。石でも噛んでいるような気分にさせられる。そして何度か噛んでいるとようやく味が染み出してくる。肉のうまみが詰まった肉汁……ではなく血生臭さを残した味のしない肉。もはや血の付いた石だ。水を口に含むと、苦い薬を飲むかのように飲み込んだ。

 それもそのはず、うさぎの息を止めた後血抜きもせずに放置し、硬くなり始めた肉を川の水に浸して毛をむしったのだ。市販のお肉のように状態を管理されたわけでもなく、スピーディーさのかけらもない。これでおいしいはずがないのだ。肉を食べた人は菜摘と同じように顔を顰め、まずいと隣同士で言い合っている。

 菜摘は配られた木の実で口に残った血生臭さを押し流す。あの肉のせいだろうか。木の実が途轍もなくおいしく感じられた菜摘は次から次へと、漫画であればバクバクという擬態語が付きそうな様子で口に運んだ。

 食事を終え、翌日のことについて軽く話し合う。川沿いに下って森も抜ける、というものであり誰も文句を言わない。その後は自由時間だ。と言っても辺りはかなり暗く、出来ることなんてほとんどない。菜摘は少し離れたところで横になった。草が生い茂っているお陰で幾分寝心地はマシであるが、ベッドとは比べ物にならない。ただそんなことも気にならな程猛烈に襲ってくる睡魔に意識を落とした。

 月明かりが照らすだけの静寂と闇に包まれた森の中。何かの咆哮が響いた。


 光が収束し、視界が戻ってくる。車内には先ほどまでと何ら変わらず、スマホを片手にゲームをしたり読書をしたりと様々人とが映る。ただ皆驚いたように顔を上げ、不可解そうな顔、難しそうな顔で思案した後手元に視線を戻した。菜摘も同様に本を片手に顔を上げた。何とも言えない気持ち悪さ。まるでさっきまで見ていた夢が薄れていくような感覚。思い出そうとしても思い出せない。考えれば考えるほど気のせいな気がしてくる。菜摘は考えることを諦め手元に視線を戻した。本の表紙は僅かに土で汚れていた。


「ねえ、父さん。なんで今日は森に行かないんだ?」

 薄汚れた灰色の衣服、所々継ぎ接ぎがなされているそれに身を包んだ少年が父親らしき男に問うた。とある村の家。木造の質素な造りの古びた家、地震でも起きれば倒れるのではないかと不安になるような家の中だ。男も幾分かマシとはいえ衣服は古びて灰色に染まり、手は皮が硬くゴツゴツとしている。男は僅かつり上がった目で少年を睨むように真剣に見つめた。

「さっき森に入った人が言っていたんだが、森に大勢の血の跡が残っていたらしい。誰かは分からないがそれだけの人間を殺せる動物がいることは間違いない。だから慎重に調査して安全が確認されるまで森は禁止だ。お前も絶対に森には入るな。いいな」

 有無を言わせない雰囲気に少年も神妙な顔で頷いた。


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