選ばれた事のない人間にだって、運命の女神が微笑むときくらい、稀にある。
足を止める。音源は背後より。
現在位置は二階の廊下。東西に伸びる校舎の、ちょうど真ん中当たりだ。ゆっくりと背後を振り返る。恐れはある。というか、恐れしかない。しかし、確認できないともっと怖い。
視界に正体が入り込む。
「・・・こど・・・も・・・?」
白いポロシャツにハーフパンツの、小学生位の子どもが周の方におそらく顔を向けていた。おそらく、とついたのは、光の加減か、子どもの目元から上が陰になって、目線が良くわからないからだ。
なぜこんなところにこどもが? 自分と同じく取り残された?
いや、違う。
否定するまでに時間はかからなかった。そもそも高校に子どもがいるわけない。ということは、考えられるのは他の可能性。
周の思考が、目の前の子どもが自分とは違う異質な立場である事を理解したと同時。
子どもの口元が、歪んだ。
ぞわりと周の背筋に悪寒が走る。悪意と狂気に満ちた笑み。子どもという、本来はあどけない、純粋無垢である存在から放たれるのは、クトゥルフ神話の邪神たちにも劣らないおぞましさだ。
子どもの足元、うっすらと伸びていた影の色が、急に濃さを増した。黒いペンキをぶちまけたかのような自然ではありえない、ドロドロと粘着質すら感じさせる闇。
浅はかだった。非日常な空間に身をおいている時点で気づくべきだった。出会う相手もまた、非日常であることに。
影がうごめき、せり上がる。
「うそだろ・・・っ」
脳が恐怖で一杯になってブレーカーが落ちる前に、体が反応した。速やかに反転し、駆け出す。ちらと一瞬振り返り、二.〇の視力が捉えたのは真っ黒な犬。生み出したと思しき子どもの身長よりも体高のでかい犬が影からせり上がってきたのだ。出てきた理由など考えるまでも無い。獲物を追うためだ。
犬は猫と並び、人と共に生きる数の多い動物だ。したがって、犬に対して人が抱く感情は好意的な物が多い。だがそれは、『犬が』『人に』友好的だからだ。敵対していれば、決してそんな感情を抱かないだろう。肉を食い破る鋭い牙、人よりも俊敏で体力だって比較にならない。スペックを見れば、人に勝ち目はない。
曲がり角を直角に近い角度で曲がり、下り階段を飛ぶように駆け下りる。大腿部の筋肉が躍動し、大地をしっかりと掴んだ足底を押し出させて大きなストライドを生み出す。走るというより地面と平行に飛ぶ、という表現の方がしっくり来る。ジブリ作品に良く見られる走法だ。
周の視線の先に玄関口が見えた。脳にわずかにまわされた酸素で回転させる。外に出て、持っている鍵で施錠し、閉じ込める。あの体格であれば何度も体当たりされたらぶち破られるだろうが、構わない。体育館横の倉庫に辿り着くまでの時間を稼ぐ。あそこは鉄の扉で、逃げ込めばそうそう破られない。武器になりそうな機材も多くある・・・はず。休んで考える時間も欲しい。
もう十数メートル。外から入る光が、そのまま周の光明だ。あの光に手さえ届けば。
しかし、彼が好むゲームが主人公をたやすくは逃がさないように、彼もまた、数多の主人公たちと同じ状況に陥る。すなわち、苦境だ。
荒い息遣いが耳に届いた。反射的に周は故意に転倒する。上半身を横に傾け、自分から回転しながら廊下に背中を着地させ、二、三回転目で右足を体から垂直に伸ばす。バン、と足底が音を立て、ブレーキとなって彼の体を押し留めた。前に進もうとしていたベクトルをそのまま無駄にせず、起き上がる事に再利用する。スムーズな立ち上がりを見せた彼の目の前に、U字に流しながら方向転換する犬がいた。光に影がさす。そのまま塗りつぶされそうだ。事実、退路を断たれた形になる。
犬の口が小さく開く。口内はその体と同じく黒。隙間から垂れ出た舌を涎が滴り、落ちた。
犬が跳躍する。十メートルはある距離を一気に詰める。周は担いでいたリュックを肩から下ろし、面前に盾のように掲げた。開かれたアギトが彼の目の前で閉じられ、リュックにかぶりつく。勢いと体重で、周は犬に押し倒される形となった。
「こ、のっ」
右腕でリュックを押し上げ、リュックに突き刺さった牙を外そうとする犬の鼻先を左腕で押さえつける。五千九百八十円がどんどんぼろぼろになっていく。何もしなければ自分の頭がリュックと同じ運命を辿っていたとはいえ、学生に六千円はでかい。打ちつけた背中の痛みなど色んな意味で泣きながらも、周は犬の口を封じる事に全力を注いだ。刃物を持った素人のように、犬は牙で獲物を貫けさえすればいいとしか思っていないようで、自前の他の武器、脅威の脚力と鋭い爪を持つ足で攻撃する気配が無い。
とはいえ、このままではジリ貧だ。周は目の前の恐怖から勇気を振り絞って一瞬目を放し、周囲に視線を走らせる。
アレだ。目がそれを認識した時、彼の脳内にこの状況を打開するための案が構築された。
ゲームはフィクションだ。しかし、リアルに生きる人間が作っている。創作されるありとあらゆるものには架空ものであっても何らかの理屈、物理法則当に基づいて作られる。リアリティがふんだんに詰め込まれている。リアリティが無ければプレイヤーが世界観に入り込めないからだ。特に、FPSと呼ばれるシューティングゲームは戦場が舞台となるため、爆発一つ取っても効果や爆風などリアルに設定されている物が多い。
FPSはそんなに得意ではない周でも、これがどういうものかくらいは知っていた。犬が、口が開けないならそのまま引き千切らんと首をぶるぶる震わせて体ごと仰け反った。タイミングを合わせて、右腕を思い切り押し出し、同時に両足で胴体を蹴り飛ばす。体勢を崩し、犬は横倒しとなってがりがり床を引っ掻きながら廊下を滑って行く。その隙に周は立ちあがり、目の前にあった赤い筒に飛びつく。犬はすぐさま体勢を立て直し、リュックを吐き捨てて一足飛びに周に向かった。再び開かれたアギトに、周は右手に赤い筒を構え、ボクシングのストレートを放つように赤い筒を縦に突き入れる。犬の牙が赤い筒を突き破った瞬間、破裂音を響かせて白い粉が舞い散った。
「あぐっ」
白い煙の中から周が転がり出てきた。衝撃に吹き飛ばされたのだ。彼が犬に噛ませたのは、学校設備になら必ずある消火器だ。内部に炭酸ガスを含んでいる消火器は、破裂事故で死傷者が出たこともある。それほどの威力を内部に秘めているのだ。アクション映画でも主人公が消火器に銃弾を撃ち込んで破裂させて敵を倒していた。それを真似たのだ。
右腕を押さえながら、よろよろと立ち上がる。破裂の衝撃は、特に消火器を握っていた右腕を痛めつけた。彼はまだ運が良かった。下手をすれば破片が刺さったり握っていた右腕の方が破裂したりして、もっと酷い大怪我をしたかもしれないのだから。
白い煙が晴れた。周から数メートル離れた場所に、黒く首の無い犬の胴体が転がっていた。酷い目にあったが、何とか窮地を脱出した。ふうと、大きなため息が漏れる。心からの安堵だ。食料は駄目になったが、命が助かっただけ良しとしよう。それよりもあの子どもからもっと距離を取らないと。痛む体を引き摺るようにして犬の屍骸に背を向けた、その時。
―ぐるる
低い、唸り声が彼の耳に届いた。冗談だろ、と誰に文句を言ったら良いのだろう。神様か? 強張った首周りの筋肉を何とか動かして振り返る。思い切り見開いた目が階段から悠々と降りてきた犬を見つけた。今度は二匹だ。一匹でも死にかけたのに。どうしたらいい。どうしたらいい? 道具は使い切った。身を守る盾は無い。背を向けて逃げても一瞬で追いつかれるのは経験済みだ。今度は前後から挟み撃ちにされる。荒い息を整え、必死で頭を回し、考え、行き着いた答えは至ってシンプル。
死だ。
どうあがいても抗いようの無い現実が目の前に立ち塞がった。
隠された異能力がピンチで発揮されるわけも無ければ、神様からチート級の力も授かった覚えも無い。頼りになる味方? ぼっちにそんな贅沢なものあるわけ無い。諦めなければ『いつか』『きっと』何とかなるなんて、嘘だ。選ばれし者の経験が選ばれたことの無い者に当てはまるわけなかった。何とかならないものは何ともならないのだ。
ひたひたと、今度はゆっくりと近づいてくる。飛び掛ろうとする様子は無い。仲間がやられて警戒しているわけでもない。
余裕をぶっこいている。この獲物は既に観念したのだと嗤っている。精神的に追い詰めるために、ゆっくりと、己の力や姿を見せつけるようにして近寄っているのだ。そうやって相手を恐怖させるのが目的なのだ。生きるための狩りではない、楽しむための狩りを、こいつらはしている。
圧され、周は後ずさりし、下げた右足を滑らせた。これまでの激戦の疲れと体の痛みと緊張のせいだ。ドスンと尻餅をつく。途端、犬が間抜けにも倒れた獲物に向かって走り出した。無駄だとわかっていても、周はとっさに両手で顔の前をかばった。こんなわけのわからないところで死ぬのか。まだクリアしてないゲームがあるのに。そんな普通の後悔が彼の脳裏によぎる。
ガラスのひび割れる音が、彼の後悔の走馬灯画面にヒビを入れた。
薄く開いた彼の視線の先、飛びかかろうとした犬の体が小刻みに震える。横合いから何かが犬に襲い掛かったのだ。だが、犬は諦め切れないようで、依然進路を周に向けている。そんな犬めがけて、今度は誰かが飛び掛った。ヒビの入っていた窓ガラスを足裏で蹴破って完全に粉砕し、そのまま犬の胴体に突き刺さる。勢いは止まらず、飛び込んできた誰かの蹴りは犬二匹を壁に叩きつけた。誰かは止まらない。跳ね除けて反撃しようとした犬に向けて『銃口』を突き付け、何の躊躇いも無く撃った。何度も何度も執拗に、犬が動きを止めるまで炸裂音は止まなかった。ぐたりと犬が折り重なって倒れたところで、ようやく誰かが周の方を見た。
長い髪を後頭部で結わえたメガネ女子だった。巨体の犬二匹を蹴り飛ばしたスカートから覗く足は引き締まっており、おそらくそれは全身に至っているのは想像に難くない。倒したと思しき犬に対してもまだ油断なく注意を払っている、剣道などの格闘技で使われる、残心を心がけている様子から、彼女が何らかの戦いに身を置く者であると推測できる。そんな影響からか、全体的にシャープでキリッとした印象を放つ彼女だが、少し垂れた目尻が良いアクセントとなって愛嬌を生み出し、近寄りがたい雰囲気を打ち消していた。
結論。カッコ可愛いメガネ女子を嫌いな男子は、この世にいない。
「同業者?」
彼女が口を開いた。イントネーションが違う。周はここにきて、ようやくこの地域の人間の言葉をはっきり聞いた。言葉が違う地域に来たんだと認識できた。家族としかまともに会話をしていなかったと気づく。
「にしては、『祭具』類持ってへんなぁ」
妙な感心をしている周を余所に、彼女はジロジロと彼の体を上から下まで見つめる。
「あんた、何もん? 同業者やなさそうやけど、何でここにおるん?」
「僕は・・・」
答えようと口を開いたが、何かに気づいた彼女が人差し指を立てて口元に当てたため、閉ざす。
―ぐるる がるるる
三度、犬の唸り声が周の耳に届く。
「ここやとゆっくり喋られへんし、場所移そか」
危険から逃げるのは大賛成だ。彼女に導かれ、その場を離れる。
「あたしはヤタミサキいうの。漢数字の八に田んぼの田。おたくは?」
「渡来、周と、いいます」
「渡来君、やな。よろしく」